闇がさらう (4)
ビルの屋上で足止めをくらって、十分ほど経った。依然として、すさまじい濁流が街を蹂躙しており、どこからが建物で道路なのか、街の形そのものがわからなくなっている。波が海へと引き上げ始めたのか、今度は逆方向に流れが変わっていた。
なんてことだ……。
建物がなぎ倒されて、至る所で火の手が上がっている。ガソリンスタンドや石油プラントが爆発している可能性を疑った。
由希……! 明梨……!
二人は無事だろうか、一刻も早く東区の自宅まで戻りたいが、濁流となっている道路に飛び込んだところで、自分が死ぬだけだろう。未だに街を襲った波は引く気配がなく、木々や自動車を内陸へと運んでいた。
早馬の家の両親も気がかりだが、今は自分の心にあるのは、あの妻と子、あの二人しかいない。
徐々に波は収まってきたが、依然として街のほとんどは水没状態だった。
「あれは……」
ゴムボートが走って来る。数名乗っているのが見えた。こちらを見つけたようで、ビルのすぐ下まで駆けつけて、手振りでなにかサインを送ってきた。飛び乗れ、ということだろう。覚悟を決めて、ジャンプした。
「……ッ!」
「大丈夫かあんた⁉」
「こ、これは……⁉」
「漁港のものだ、取り残されている人たちを助けて回ってるんだが」
五十代ほどの男性、自衛隊やレスキュー隊員には見えない。
「い、家に向かってください!」
「ちょっと落ち着け……!」
男性がゴムボートを走らせる。
「家族が、妻と娘がいるんです!」
この緊急事態に自分勝手なこと言っている。だが、叫び続けた。
「まだ四才くらいで、このままじゃ、お願いします!」
「……あんたの家ってのは?」
「東区ですが……近くの駅まで行ってください、そこから行けますから!」
「わかった、行ってやるから少し待て」
「すみません……」
うなだれたようにボートに座り込んだ。他の乗員を見渡す。男性が二名、あまりのことに言葉が出ないようで震えている。
ほぼ冠水している道路をゴムボートが走っていく。沈んでいる車の上部に引っかからないように、運転手のナビを務めた。
自宅までの幹線道路のはずだが、地上五メートル近く水没してるようで確認するのが難しい。ようやく、電車を見つけた。後は線路沿いに向かって、進めばいいと判断した。
「ありがとうございます! ここからは一人で行きますから」
「おい、正気か⁉」
一人、男性が止めたが振り払うように、線路に飛び移った。地上からはある程度高さがあり、今は、わずかながら波も落ち着いたようで、足を取られることなく走っていける。そのまま、自宅近くの最寄り駅まで駆け続けた。遠景に高速道路がなぎ倒されていたのが見えた。
最寄り駅までやってきたが、ここもまだ波が引いていない。押し流されてきた車の屋根を伝いながら自宅まで走る。
「ぐあっ!」
転倒して、水面に叩きつけられた。立ち上がり、垣根をよじ登って、こんどはその上を歩いた。そんなに距離があるわけではないが、様々なイレギュラーのせいでやけに遠く感じられる。
ようやく自宅近くの通りまでやって来た。そこを抜けて住宅街に入るが、
「そ、そんな……」
ほとんどの家がなくなっていた。流されたのだろう。
「こんなことって……」
この世の終わりかと思えるほどの絶望的な心境に襲われる。これでは自宅を見つけることすらできないだろう。
「うっ、あ……ぐあああああ!」
空に向かって咆哮した。
「早馬っ!」
自分を呼ぶ声がして、振り返った。
「あ……美島……さん」
楓がやって来るのが見えた。彼女もずぶぬれであり、衣服のあちこちが泥にまみれている。
「由希は、明梨は⁉」
「ちょ、ちょっと……」
彼女の肩を激しく揺さぶる。
「二人はどこ⁉」
「落ち着きなさい!」
頬に鋭い感覚、ひっぱたかれたのだと理解した。
「由希なら大丈夫、あっちの小学校の体育館に避難したわ。少し怪我をしたけど……」
「あ……ああ……」
全身が脱力していく。安堵と疲労で涙まで出てきた。
「だけど、明梨ちゃんが……」
「え……?」
「見当たらないの……幼稚園とも連絡が取れなくて……」
なにかが自分の芯の底から駆け上がってくる。胸から頭を突き抜け、体中が震えてきた。
「明梨っ!」
駆け出したが、すぐに楓に腕を取られた。
「離せ!」
「馬鹿! こんな状況で行けるわけないでしょ! 通りは家屋が倒壊してどこが道なのかもわかんなくなってんのよ!」
呼吸が乱れる。焦燥が血流をおかしくする。
「だからってこんなところにいられるか、明梨を!」
なんの親しみもなかったはず、愛情など感じたことなど一度もなかったはず、だが今、あの子を助けたくて仕方がない。
どこかで震えながら、自分の助けを待っている。その姿を思い浮かべるだけで、四肢が引きちぎられるほどの痛みが駆け巡る。
「俺は……! 俺は!」
どうしていままで気づかなかったのか。記憶は覚えてなくても、心が覚えていた。確かに、愛したはずなのだ。
「もう時期、別の波が来るかもしれないの! ここだって安全じゃないのよ!」
「うるさい!」
楓の腕を振り払って、元来た道を引き返す。一度しか行ったことがないが、幼稚園に行くルートを思い出し、塀をよじ登ったその時、
「ぐあ!」
波が、塀を崩し、ブロックが崩壊、水面に叩きつけられた。楓が駆け寄ってくる。
「まずい、引き波が戻ってきた。こっち!」
楓の手に引かれて、わき道にそれる。
「はな、して……」
疲労と痛みで声がうまくでてこない。
「そんな体じゃ、無理よ! いったん学校まで来て!」
近所の坂を上っていく、ようやく足元が水にとられないほどの高さまでやってきた。
「くっ……」
体を壁によりかかせながら歩く。ここまで来るだけでもかなりの体力を奪われた。
「しっかり……!」
誰かが駆けつけてくる。レスキュー隊員のようだ。
「こちらまで急いでください、沖の方から第二波がやってくるのを確認しました!」
絶望的な言葉だった。娘の居所もわからぬまま、更なる災厄の接近。
「ぐ……うわあああ!」
再び叫ぶ。連行されるように小学校まで支えられながらやってきた。
避難場所となっていた小学校の体育館では、至る所にブルーシートが引かれており、避難してきた人々が、それぞれに悲壮をたたえていた。座り込む者、倒れ伏す者、泣き叫ぶ子供をあやす者など、この空間全体が重苦しい空気を醸し出している。
楓に腕を引かれて、茫然自失のまま足を踏み入れた。
「ええっと……」
楓が辺りを見回す。
「修二さん!」
聞き覚えのある声、一気に駆け出した。
「あ……う……」
目に映るのは、パイプ椅子に腕を支えて立ち上がる由希。足を痛めたようで、なにかで固定している。
「……無事で」
言葉が出てこない。由希の衣服のあちらこちらに泥が付着している。明梨を助けようと相当無茶をしたのだろう。胸がつまり、彼女をここまで傷つけた津波に殺意すら覚える。
「由希、座ってないと!」
楓もすぐにやってきた。
「ごめん……でも、あ……」
すがるように由希に抱き着いていた。
「……怪我してない?」
自分の口を彼女の肩に押しつけて、返事に代えた。
「修二さん、明梨がいないの……」
「ああ……」
「私、どうしたら……」
「大丈夫、必ず見つける……」
それだけははっきり言えた。
「取りあえず、由希は着がえて。あっちが物陰になってるから、そこで……」
保健室にあるような移動式カーテンが見えた。女性たちはあそこで着がえているのだろう。
「……!」
再び、轟音が鳴り響く。濁流が迫る音とともに、建物がきしみ、ぶつかり合う音がここまで、聞こえてきた。
体育館内で叫び声が上がり、避難民は恐慌状態となった。
「波はここまで来るのか⁉」
「ドアを固定して!」
恐怖を帯びた絶叫がこだまする。
「う……」
由希が胸を押さえる、この状況で外にいるかもしれない明梨を思ってか、涙まで流し始めた。
「落ち着いて……」
そうは言うが、修二とて冷静でいられるわけがなく、焦燥と無力感で足が震えてきた。由希の手を握りながら、窓を見る。跳ね上がってきた水しぶきが、氷のような勢いで窓ガラスを叩いた。
これでは下の街は全滅だろう……。あの幼稚園もそこにあった、職員たちは児童を連れて避難できたのか。
考えるほど、嫌な方向に、物事をシミュレートしてしまう。
児童の悲鳴が耳をつんざく。明梨を思って、修二も気がおかしくなりそうだった。黒い闇が娘をさらった。
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