第九章 闇がさらう
闇がさらう (1)
チャイムの音で目を覚ました。机に突っ伏したまま眠っていたらしい。学校で寝るなんて、漫画みたいなことをしたのは初めての経験だった。受験が終わって、気が緩んでるからだろう。
まさかあの超難関校を突破できるとは、自分自身も予期していなかった。クラスメイトたちにはまだ語っていない。聞けばびっくりするだろうか。地味で内向的な自分が、そのような偉業といっては驕りだが、ともかく難業を成しえたということを。
いや、それはあるまい。生意気がられて疎外感を強めるだけだろう。誰にも知られることなく、一人で卒業して、一人で新しい世界へと旅立つ。それが自分に相応な気がした。
鞄を持って教室を出る。すでに自由登校であり、来る必要もなくなったが、卒業式まで、遊ぶ気にもなれず、なんとなく足を運んでしまったのだ。
人気がなくなった廊下を歩く。窓の外では、とっくに引退したサッカー部の後輩たちが、練習に打ちこんでいた。一年の頃を思い出す。あのトラウマもあり、高校では勉強に集中したくて、部活をやるつもりはなかった。だが、入学オリエンテーション時のクラスでの簡単な自己紹介の時についサッカーをやっていたことを話してしまい、人数不足もあって当時の先輩たちに強引に勧誘され、そのまま入部の運びとなったのである。
今となってはそれもよかった気がする。適度な運動が脳の働きを最適化してくれたような感があったからだ。それでも、グラウンドに立つたびに、あの悪夢に苛まれそうになった。それも、時が経つにつれて希薄になっていった。
一階に降りて下駄箱まで向かうと、誰かが仁王立ちしている。こちらの姿を視認すると不快気に一瞥したかと思えば、接近してくる。こちらも相手の顔が見える位置に来ると、顔に力が入ってきた。相手は犬猿の仲、一学年下の美島楓であった。後輩の女子生徒相手に大人気ないことであったが、顔をあわせるたびに口喧嘩である。自分が彼女の友人と、何度か親しく話していたのが気に入らないらしい。
なんの用かと聞くと、今から学校の少し先にある橋まで行ってほしいという。なんでそんなところに、と聞いてもはっきり答えない。なにかのいたずらとみなして、無視することにした。そうすると楓が自分の前に立ち、丁寧に頭を下げて再度頼み込んできた。
この意地っ張りがそこまでするのに驚く。なにか理由があるのだろうが、聞いても答えない。ため息をついて仕方なしに了承することにした。
外に出ると、かなり冷えており、濃灰色の雲が徐々に空を覆い始めているのが見えた。さっさと用件を済ませようと、言われたところまで行ってみる。
橋の中頃まで来たが、特に人の気配はない。降雪を予測してか、車道もほとんど車が通っていなかった。やがて、雪が降り始めてきた。
やはり、あの女にからかわれていただけなのかと思い、地団駄を踏みかけたその時、人の気配を感じて視線を向けた。その先にいたのは、楓の友人であり、自分も何度か話したことのある少女。名前は、新村由希。君も美島に呼ばれたのかと聞くが、首を振る。なにかえらく固くなっているように見える。少し怖くなったが、事情を聞いてみると彼女が自分を呼び出したと言われた。なにかやらかしたのかとギョッとしたが身に覚えがない。
恐る恐る理由を尋ねるが、さっき以上に硬度をましたような顔で、声を出そうと唇を震わせていた。どうしたのと聞くが、それでも言葉が出ないらしい。目には涙まで浮かばせ始めた。
こちらも段々焦燥が募ってきた。こんなところを道行く人に見られれば、まるで自分がなにかこの少女を恫喝しているようにすら思われかねない。思わず、彼女の手を握って落ち着くように言って見せた。ひんやりした感触に鼓動が、鳴った気がした。
少女の瞳が覚悟を決めたことを、その目で伝えた。
ずっと好きでした、それが彼女が発した言葉だった。
今度はこっちが固まってしまった。いくらなんでも予想外過ぎる。美島の性質の悪いいたずらの可能性を疑いかけたが、震えながら立ち尽くす少女、新村由希を見れば、そんなことを考えるのは失礼極まりない。彼女の本気を受け取った。
なぜ自分が、と聞くが、いつのまにか好きになっていた、ただそれだけ、ということらしい。恋に理由を問うなど野暮なことだったと思い直す。彼女の瞳が、こちらのそれを写し出す。返事を待っているのだろう。
さすがに返答に窮する。この年になるまで、女性と交際したことはない。そんな自分に降りかかった、運命の時、なのかもしれない。様々な感情、憶測、不安が胸裏を駆け巡る。彼女はなにか勘違いして自分に恋してる錯覚を抱いているのでは、付き合ったところですぐに幻滅されて愛想を尽かされるのがオチでは、とネガティブな予想ばかりが頭を埋め尽くす。そもそも自分の心が、はっきりしない。何度か話しただけの少女、それを恋人として受け入れることができるだろうかと、瞬時に自分に問いかける。わからないが、答えだった。
ただそれでも、はっきり思ったことが一つだけあった。
この子を悲しませたくない、それだけははっきり自認した。
少女の目が再び、水気を帯び始める。答えが遅いのは自分も重々承知している。ようやく出した答えは、
君のことはよくわからない、だけどこれから君を好きになっていきたい、それでいいなら付き合おう、だった。
ずるい答え方だったかもしれない。取り敢えず目の前の少女を逃したくなくて、キープしておきたい、そんな卑小な打算も我ながら感じてしまった。だが、そうとしか言えなかったのだ。
自分のせこさに呆れて、嘆息したと同時に、強い衝撃に襲われた、少女が、自分の胸に飛び込んできた。そしてひたすら泣きじゃくり、顔をこすりつけてくる。やや戸惑ったが、落ち着かせようと自分も少女の背に手を回して、そっと抱いた。
その瞬間、自分と少女、早馬修二と新村由希は恋人同士となった。
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