闇がさらう (2)
「う……」
身体中が重い。久々の遠出に、その後の愁嘆場で心身ともに大きな負担を強いたのだろう。
ようやく体を起こして、いつものように隣を見る。明梨が寝ている。由希はいない。一瞬、不安になったが、キッチンの方からなにか作業音がしたので、朝の用意に取り掛かっているのだろう。
昨日の件もあり、彼女と顔を合わせるのがどうにもしんどい。隣で眠る明梨の頬をそっとなでた。
立ち上がり、廊下に出て、窓を見る。
「……?」
一瞬、外の木々が歪んで見えたような気がしたが、すぐに正常な知覚を取り戻した。空は曇っており、かなり薄暗い。重い足取りで、LDKの戸を開いた。
「おはよう」
健やかな笑顔、昨日の悲哀、狼狽など微塵も感じさせない由希の朝のおはよう。
「おはよう……ございます」
修二も極力、動揺をかみつぶしてそう応じた。
洗面所に赴いて顔を洗う。これも日常となった。
まもなく明梨も起きてきた。自分のすぐ横で台座に乗って顔を洗い、歯を磨く。なにか手伝おうか、と思ってもすべて彼女一人で終えてしまうので、それを見守るだけだった。
怒ってないかな……。
由希をいじめた、と思われていないか、気になったが、眼中にないような対応をされるのはいつものことなのでわからなかった。
三人で朝食を囲む。
いつも通り……。
そう感じてしまえるようになった自分が怖くなる。もう引き返せないところまで来てしまったのかもしれない。だからこそ答えを出したのだが、自分も彼女たちも大いに傷つくだけの結果となった。
「今日、ちょっと、早馬の家まで行ってきますから」
早馬の家、そんな風によそのお宅のように言えてしまう。便宜上の言い分けに過ぎないのだが、これまでは、やはりどこかそう呼ぶのには抵抗があった。だが今はそれも、あまり感じなくなってきた。今日はこれまでのことを父母に報告するとともに、今後の事を少し話し合うつもりでいる。
由希の様子が少し、心配だったが、
「うん、私は今日は家にいるから」
特に、引きずっているような気配もなく、穏やかにそう言ってくれた。
「ええっと、明梨……ちゃん」
明梨がこちらに視線を向ける。
「少し遅くなるかもしれないけど、お母さんと仲良く……」
わずかな間を置いて、明梨は頷いた。
初めて父親らしい物言いをしたのかもしれない。
朝食の後、明梨を集合場所まで送る時間になった。
「それじゃ、行ってくるね」
「ええ……」
自分も行こうかと思ったが、自重する。それでも玄関先までは見送ることにした。
「……?」
外に出ると、なにか違和感を感じた。
「どうかした?」
「いや……今日はなんか天気が静かだなって」
海風がよく流れ込む地域だったが、今は風が凪いでいる。
まあ、そんな日もあるか……。
「行ってらっしゃい」
明梨の目を見て、言葉を投げかけた。そういうことができるようになっていた。
「……いってきます」
少し、意外に思われたようだが、明梨も返事をしてくれた。
由希が、ホッとしたように明梨の手を取る。歩き出した二人の背を見送った時、
う……。
耳鳴りがした。なぜかこのまま二人を行かせてはならない衝動に襲われる。
「ま、待って!」
気づいた時には駆け寄っていた。
「どうしたの?」
「あ……その……気をつけて……」
「ええ」
いつもの微笑とともにそう言うと歩みを再開させた。
なにか、引っかかったが、家に戻った。
手荷物を今のうちにまとめておく。十二時には向こうに着くつもりでいる。テレビをつけて天気を確認、曇りでにわか雨、念のため傘を持っていくことにした。
ほどなく由希が帰ってきた。
「今日降るかもしれません、洗濯物は外に出さずに、家干しにしてしまいましょう」
「うん、お迎えの時はレインコートも持っていくね」
ぎこちなさを感じさせない由希の口調。それがかえって気になってしまう。
さて……。
過去を探る調査は、この間、若槻と再会したところで終えることにした。もう、これ以上、調べても得るもの、取り戻せるものは少ないだろう。これからは、今後のことに焦点を当て始めなければならない。そのことも含めて今日、両親と話し合う気でいる。
問題は……。
この家のこと、由希と明梨のことである。このまま二人の家族でいるのが果たして、正しいのか、結論は出ないというのが結論だった。
こうなってくると、最後は自分の判断である。自分の一生のかかった問題である。悲しませたくない、などの情緒的な理由で判断していい事柄ではない。だが、どうしても自分には由希を見捨てることができない。
愛した、はずなんだ。彼女を……。
一度は抱いたはずの想念、忘れてしまった想い、それだけでも思い出したい。
「修二さん」
「はい」
いきなり背後から話しかけられ、ギョッとしてしまった。
「お茶にしない? 珍しい茶葉が手に入って」
「ええ、お付き合いします」
どこかで聞いたことのある誘い言葉だったように感じた。
ダイニングテーブルでティータイムとなった。
「父さんが送ってくれたの、北海道から」
「ああ、猟師をやっていらっしゃるとか……」
大事なことを忘れていたことに気づいた。
「今度、ご挨拶……というか今の俺の現状について説明させてもらえませんか?」
そもそもここは彼の家である。娘婿がおかしくなったことを知らせないでいていいわけがない。
「うん、そうしたほうがいいと思ってた」
「すみません、もっと早くに言うべきでした」
自分の事情ばかり優先させたことを恥じ入る。
「大丈夫、お父さんは元々あなたのこと気に入ってるし、事情はちゃんと理解してくれるから」
由希は相当、父親を信頼しているようだ。男手で育てられただけあって父娘の絆は強いのかもしれない。
まあ気を許してなきゃ、娘と家を任せるなんてしないよな。会ったら包み隠さずすべて話そう。
その後は、これまでの出来事をノートにまとめる作業となった。由希も自室で業務を始めた。新村建設の在宅事務を引き受けているらしい。
一段落ついて、軽く伸びをする。
俺にできること……。少なくとも、あの難関、北羽に合格できただけの学力というか地力みたいなものはあるんだ。そこを生かして、なにかできることがないか探して見よう。
そんなことを考えているうちに十一時半、そろそろ出る時間である。由希の部屋まで行くことにした。
深呼吸してからドアをノックする。
「由希さん、いますか?」
「ええ、どうぞ」
部屋に入ると、ノートパソコンでなにか作業をしていた。
「俺、そろそろ出ますから」
「うん、お昼は……」
「向こうで適当になにか食べます」
「……お夕飯は?」
控えめな声音で聞いてくる。ちゃんと戻って来るか気にしているのだろう。
「明梨ちゃんの好きなものにでも」
「わかった」
ふと、机の上の写真が目に入った。
「……」
自分と由希のツーショット、高校の卒業式の時のだろう。
「楓ちゃんが撮ってくれたの……」
「そうでしたか……」
もう十二年ほど前の写真、お互いの人生の三分一以上の時を過ごしたという事実が胸に圧迫する物を呼び起こす。
俺は、由希さんを……。
また同じ言葉が、心の底に泥濘を作り、足元にからまってくる。
「あの、これから俺……」
「……うん」
もう一つの答えが、おぼろげながらに見えてきた。だが今はまだ口に出すことができない。
「行ってきます……」
「いってらっしゃい……」
それが精一杯だった。
もう歩き慣れた東区の街を、歩きながら眺める。
ここで生きていくのも、悪い気がしない。
段々、そう思い始めてきた。記憶は失っても、心の落ち着きどころまでは失っていなかったのだろうか。この街も、由希の家も、いつのまにか心安らぐ故郷に変貌しつつある。
木々はほとんどの葉を落とし、冬の到来をここに住まう人々に教示していた。
電車に乗り込み、早馬の家に向かう。
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