ここにいて (2)

 以前にも、明梨と来た自然公園、日曜の夜で人気もない。

「明梨……少し、ここで待っててくれないか?」

 初めて、娘の名前を呼んだ。返事も待たずに、歩き出す。由希が後からついてくる。

 振り返り、彼女の顔を正面から見据えた。

「あの……」

「すみません、疲れてるのにこんなところまで引っ張ってきちゃって」

「ううん……」

 呼吸を整える。人生でこれほど緊張した時はなかった。彼女の目をまっすぐ見据えて、口を開いた。


「あの、まず今まで本当にありがとうございました」

「なぁに、もう」

 苦笑しているが、大事なことを言おうとしているのは由希も察しているように見える。

「当たり前でしょ、家族なんだから……」

「ええ……。でも、俺はもう、失格だと思うんです。あなた……たちの家族でいることが」

 修二の瞳に雲がかかる。

「どうして……?」

「俺は二人になにもしてあげられなかった、いつも自分の事しか考えてなくて」

「それは……仕方ないよ、こんなことになってしまったんだから。でも、なにもしてないなんてことはない、何度も助けてもらったよ……」

「俺こそ……あの日、あの部屋で目を覚まして以来、ずっとあなたに助けられてきました」

「そんなこと……」

「そのこと、本当に感謝しています。それで……過去のこととかいろいろ調べてみましたが、記憶を取り戻すことだけはどうしても無理だろうと、結論づけました」

「……」


「でもわかったこともあります」

「その話は……」

 由希の制止に決意が揺らぎそうになるが、続ける。

「他人に負担や迷惑をかけるような生き方はすべきじゃないってことです」

 他人、そう、他人でしかなかったのだ。

「今の俺はあなたと出会ってからの俺じゃない、由希さんが……好きになってくれた俺は……もう、死んでしまったんだと、思います」

 ひどい言い様に、足元がおぼつかなくなる。由希は真顔でこちらを見ているが、自分を見ているというよりも宙に視線を遊ばせているように見える。

「俺、あの家を出るつもりです……。このまま、あなたの好意に甘え続けるわけにはいかない……。早馬の家に戻って、自分一人で、これからの人生を再設計する気でいます」

 由希は黙って聞いている。

「俺みたいな金も稼げない、家のことも大してできない男は、由希さんの人生の重荷になるだけでしょう。明梨ちゃんの教育にもよくないし……。ああ……その、養育費とかはあの俺の口座からちゃんと払っていきますから」


 言おうと思っていたことはだいたい言った。もう一つ、考え付いたことは、

「由希さん、まだ若いんだし、それにとても、そのきれいな人ですから、どうとでもやり直せると思いますから……。明梨ちゃんの良い父親になってくれる人とまた一緒に」 

 その刹那、閃光が瞬いた。

「ダメ! そんなの絶対ダメ!」

「あっ……」

 一瞬で、距離を詰めた由希の手が自分の両肩をつかんだ。痛いほどに指が食い込んでくる。

「行かないで! 私と明梨を置いてどこにも行かないで!」

「お、おちつ……」

「ここに……ここにいて……! ずっとここに……う、うぁぁ」

 顔を修二に押し付けながら、由希が子供の様に泣きじゃくる。

 遠巻きに見ていた明梨が駆け寄ってきた。

「ママ!」


 まずい……。


 由希は泣き止む気配がない、修二の肩を抱いたまま、体の奥から声を張り上げている。

「ママ……。あ、うああ……!」

 母親の常軌を逸した様子を見て、明梨まで泣き出してしまった。

 どうすることもできず、立ち尽くす修二。胸が涙に濡れて、冷たくなってきた。呆然と、夜空を見上げる。

 神がいるとするなら、なぜこのような試練を自分に与えたのか、あまりにも大きなものを背負っていたのだと、今さらながら思い知った。

 二人の手を引きながら、人目を避けるように、家へと戻った。

「ハァ……」

 ソファに座りながら、寄り掛かってくる由希の肩を支える。疲労していた上に、あの乱心ですっかり眠っていた。

 そのすぐ手前の、絨毯の上に寝転ぶ明梨、こちらも寝入っておりブランケットを上にかけてやった。

 由希の匂いが鼻腔をくすぐる。鼻を押さえて、姿勢を少し崩した。


 慣れというのは、怖い……。


 いつのまにかここでの、この生活が当たり前になりつつあることを、どこかで恐怖していた。

 由希にはどれだけ感謝しても、したりないほどの恩を受けて来たとは思う。

 だが、自分にも自分の人生と言うものがある。知らないうちに結婚した妻と、知らないうちに誕生した娘のために、これからの自分のすべてを捧げる、と言うのはどうしても踏み切れないことである。


 どうしたものか……。そういえば俺……。


 本来であれば六月の誕生日を迎えており、十五才になっているはずであることに気づく。まだ十五才なのか、もう十五才なのかはわからない。だが、こんな重大なことを決断するには人生経験というのがあまりにも不足している気がする。

 未熟な自分なりに出した答えが、二人を激しく傷つけ、悲しませる結果となった。良かれと思った判断だったが、自分が思っている以上に由希は自分に心を寄せてくれていたのだろう。

 いつか、母親が出ていったという話をした時の由希の沈んだ顔が脳裏に蘇る。見捨てられた、寂しさと悲痛を彼女の胸に、思い起こさせてしまったのかもしれない。

 強風が窓を叩いた。絶え間なく吹きすさぶ風が、木々を揺らし、枝がきしむ音を立てる。


 やっぱり無責任な言いようだったな……。彼女だってなにも悪いわけじゃないのに、間を置いてまた話して、いや、俺が考えを改めて……。でも、それは……。


 思考がこんがらがる。いくら考えても、決して出ることのない正答。どの道を選んでも先にあるのはいばらのそれだろう。


 後悔のない人生なんてない……。それはわかってる……、だけど……。


 中学生が決めるにはあまりにも大きすぎる問題、だが、今、自分はもう中学生ではないのだ。

 由希の頭をそっとなでた。

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