第八章 ここにいて
ここにいて (1)
「それじゃ、準備はいい?」
「ええ、修二さんは?」
「だいじょぶです」
チラリと、右隣下の明梨窺う。コクリ、と頷いた。
「じゃあ、出発」
楓の後に続いて、外に出る、空けてあった新村家の駐車場に彼女の車が止まっていた。大衆的なセダン車。
「えっと、俺は……」
「助手席でいいでしょ、明梨ちゃんは由希の隣で」
「うん」
全員乗り込み、シートベルトを装着する。明梨は前にも見た、チャイルドシートに座り、由希が固定した。
「それじゃ行くよー」
楓がキーを回す。静かに道路に出た車は、ゆっくりと進み、幹線道路に進入した。
今日は、近くの山までハイキングとなる。従前から、行く約束をしていたらしいが、修二の件もあり、見送っていたのだ。ここにきて、ようやく状況が落ち着き始めたこともあり、楓が休みの今日と言う日に行くことになった。
「これって美島さんの車ですか?」
「そう、一括払いで買ってやったわ」
「へえ、すごいんですね、弁護士って」
「こんなの、大したもんじゃないわよ。私、車には拘らないから、燃費がよくて適度に走れればそれでいいの」
窓から空を見る。雲はまばらで絶好の行楽日和といえる。
明梨が、興味深そうに街を眺めている。自意識が芽生え始めている彼女にとってはなにもかもが真新しく、幻想的に見えるのかもしれない。あれはなに、これはなに、と由希と楓に問い続ける。だが、
やっぱり、避けられてるな……。当然、だけど……。
尽くすべきは尽くしたが、あれから大きな進展はない、そろそろあの部屋で目覚めた日から一ケ月になる。
やっぱり、今日伝えるか……。
密かな決意を抱えて、このハイキングに付きあうことにした。この日が、この一ケ月に対するけじめをつける日になるだろう、と心に決めている。
車がどこかを上っていく。
「高速使うんですか?」
「ううん、ここはただの高架道路、市外の山だけど、そんな遠くないから」
「修二さんも、何度も行ったことありますよ」
「へえ……うん……?」
なにか不思議な感じがする。
なんだ……?
窓の向こうを見る。
「え……⁉」
周りが霧に包まれたかのように、視界を覆う。窓から高架道路の下を見た。
そこにあったのは一面の青、今いる場所は海の上にかかる橋、その下のはるか低いところに青白い波が渦巻いている。
な、なんで海が……?
窓を開けて顔を出す。
「ちょ、ちょっと……⁉」
楓の制止する声にも構わず、辺りを見回す。海などどこにもなかった・
「修二さん!」
「あ……」慌てて、体を引っ込めた。
「なにやってんのよあんた……⁉」
「す、すみません……! ただ、その……」
「……記憶、かしら……?」
由希が今起こした奇行の事情を察したようだ。ミラー越しに明梨が目を丸くしているのが見える。
「はい……」
どこかで見た光景、だが夢幻のようにフワフワしていて輪郭がはっきりしてくれない。
一体どこで……?
「大変なのはわかってるけど、明梨ちゃんがいるんだから……」
「すみません……」
しばらく四人とも黙ってしまった。
「ハァ……!」
着いた先の、自然公園の入り口で大きく息を吐いた。山々が赤と黄に染まり、異界めいた姿を現出させていた。
「うーん! こりゃちょっと予定がずれてよかったわ」
楓が大きく伸びをした。
秋の風光の最も美しい時期なのだろう、ふもと一帯の食堂や土産物店はレジャーに来た親子連れや観光客で賑わっていた。
「きれい……」
由希も見とれているようだ。
「ママ、抱っこ」
明梨の催促、もっと高いところから見たいのだろう。
「ええ、あ……修二さん、頼んでいい」
「え、ええ……」
やや気後れする、本人が嫌がったらどうすればいいか悩みかけたが、
「ふ……!」
しゃがんだ修二の背によじ登ってきた。驚いたが、器用なものでがっしり首を腕で挟む。
「ほら、立つぞ」
立ち上がり、周りの景色を見やすいように、肩をやや右に傾けた。
……軽いな。
こんなにも軽い体に、命が宿っているというのが、なんだか不思議に思えた。
「さあ、乗り場はあっちよ」
楓の後に続いて歩き出す、ロープウェーで山頂近くまで行くのだ。ゴンドラに乗り込むと、明梨を下ろした。膝立ちで、席に座り、外の景色に目を張る明梨、由希が靴を脱がせた。
今、この子は、すべてがキラキラ輝いて見えるんだろう。これからも、どんどんそう言うものを見つけて、触れ合っていく。
なにも知らない、というのは知る喜びも、いくらでも体験できる、ということなのかもしれない。
この子はまだ人生を始めたばかりだ、これから色んな人と出会い、時には傷ついて大きくなっていく。それを見守っていく人間は……。
「ほら、着くよ」
上まで着いたようで、楓に促されて降車する。修二の後に由希が明梨の手を引いて降りてきた。
「……」
先に行かせるべきだったかもしれない。
目的のハイキングコースまで着いた。といっても幼児連れで無理する気はないようで、頂上の山麓をぐるっと一周回るだけである。
ここ……。
アルバムファイルに写っていた場所に似ている、おそらく由希と何度も遊びに来たことがあるのだろう。ひょっとしたら、自分になにか思い出してもらいたくて、この思い出の場所に決めたのかもしれない。
楽し気に歩く三人を少し後から追う形で歩く。由希が背中で自分の様子を気にしているのが、見て取れた。そのことが辛い、もう修二は記憶を取り戻すことは、半ば諦めている。今、考えていることは、精神を飛ばされたこの時代での生き方、過去の出来事を追っていくうちにようやくそれが見えたのだ。
後は……。
木道を歩いた先に展望台があった。黄金色に染まる山々を黙然と視界に入れる。
十五年前もこうだったんだろう、おそらく十五年後も。
泰然自若と変わることなく存在し続ける自然への畏敬、それを考えると、自分一人の記憶などは実に些末な問題であるような気がした。
頂上近くの広場で昼食を取ったのちも明梨は飽きることなく、駆けまわっている。それを穏やかに見つめる由希。
やはり、今日、言おう……。
もうこれ以上時を遊ばせるべきではない。
日が西に傾き始めた頃に、ようやく麓まで帰ってきた。
楓の車で、近くのレストランで夕食とした後、新村家まで送ってもらうことになった。
「明梨ちゃん、今日はどうだった?」
「たのしかった!」
意気揚々と答える。疲労している様子はあまりなく、エネルギーを持て余しているようにすら見える。
「うん、来てよかったね。そろそろ旅行とかもいいかな」
由希の言葉に一瞬、ドキリとする、遠回しに自分に対して提案しているのでは、と思って冷や汗をかきそうだった。
家に着くころには日も沈み切っていた。
「それじゃあ、今日はありがとうございました美島さん」
「ううん、久々に羽のばせてこっちも楽しめたよ、まあ、あんたにそんな丁寧な物言いされるのは慣れないけど……」
苦笑しながら、シートベルトを締める楓。
「楓ちゃん気をつけてね、疲れてるでしょ」
「大丈夫、それじゃ、明梨ちゃんまたね」
窓が閉じられた。明梨が手を振ると、車は夜の街へと消えていった。
「さあ、それじゃ、お風呂に」
「由希さん」
はっきりした声音で呼びかける。
「はい?」
「この後、少しいいですか?」
「え? ええっと……」
「そこの公園まで行きません?」
修二の様子が真剣なので、由希もなにか大事なことだろうと、推察したようだ。
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