第六章 誰がために

誰がために (1)

 由希から受け取った自分の銀行カードで残高照会をすると、修二は凍りついた。


 うそ……。


 二千万以上の預金、この年でこれだけの貯蓄をするのは尋常なことではない、というのは今の自分でも理解できる。


 そうか……。この家をただで使わせてもらっていたから、住居費とかが節約できたのか。


 そうは思っても、記憶を失う以前から自分は倹約気質だったのだろう。昔から、浪費癖はほとんどなかったとはいえ、これはこれで極端な気がした。


 由希さんも質素な印象があるしな、お互い、派手な遊びは控えたんだろう……。


 もう心中であっても、あの人呼ばわりはしない。するべきではないとはっきり自認するようになった。


 それにしてもコンビニでお金が下せるようになっているなんて……。


 便利であると同時になにかうすら寒いものが背筋に走る。

 結局お金は、そのままにした。自分の力で得たものではない気がして使う気になれない。当面の活動費は今、財布にあるだけで賄えるだろう。残高だけ、確認するとコンビニを後にした。    

 由希から頼まれていた買い物帰りに、東区の商店街を探検しつつ歩く。再開発著しい西浜区に比べて、まだ個人商店が多く、景観の維持も重視されている感がある。修二にとっては最近知った話だが、元々、アッパークラスが多い区と目されているようで住民の発言力が強いのかもしれない。


 一週間経ったが、若槻や吉本の所在は依然わからず、あらゆるルートを当たったが自分一人の調査の限界を感じている。もうこの街にはいない可能性もあるだろう。興信所を使うことも考え始めていた。そこまでする必要があるのかという疑問も湧いては来たが、やはり自分がおかしくなった根源にたどり着かなければ、自分はここから前に進めなくなる、という観念がある。


 逃げてるだけなのかもしれない……。原因を突き止めて、記憶を取り戻せても、この現実に対応できるようになるわけじゃないんだ……。だけど、どうしても……。


 会社は休職扱いになっているが、それにも期限がある。そこでやっていたのは、どうも専門的な研究職だったらしく、とても今の知識レベルで対応できる仕事には思えなかった。


 北羽の理学部まで出たって言うならそれくらいの職種でもおかしくはないんだろうけど……。


 資金面での心配はない。両親からは、カードを渡されているし、由希からも支援を申し出られている。そちらは断ってはいるが。由希からお金を受け取ると、やはり、彼女の夫であると認めてしまうような気がした。


 堕落するだけだ、こんな状況を続けていては……。


 自分にできることを考えなければならない、と思いつつ、由希の家に戻ることにした。


「お帰りなさい」

「はい」

 もう当たり前のようになったやり取り。だが、どうしても、ただいま、とは言えない。

 由希はなにか在宅ワークを始めたようだ。楓の事務所で務める話もあったようだが、明梨のことが心配だったのだろう。それも自分がこんな状態だからであると、思えば修二とて平然としてはいられない。せめて家の掃除、洗濯、ゴミ出しなどの仕事は買って出た。


 主夫みたいだな……。


 情けなさで消えてしまいたくなる。だがもう、ここに至った運命を呪うのはやめにした。そんなことをしても、心の不経済になるだけであるし、ここまで自分を支えてくれた由希への恩義もある。自分なりにできることを探していこうと考えられるようにはなった。

 幸い、と言っていいのか知らないが、学業で培ってきた知識そのものまでは忘却していないことがわかっている。


 これを……なにに活かせるか……。


 干していた布団を取り込みながら、そんなことを考えていた。

 リビングに戻ると、由希が昼食の準備をちょうど終えた所だった。

「こっちは終わりました」

「ありがとう、それじゃご飯にしよ」

 今は彼女も一層、忙しくなったというのに由希は相変わらず手料理を作ってくれる。単純に明梨の情操を考えてのことかと思っていたが、彼女なりになにか、料理は自分で作ることに信念があるらしい。


 俺は、レトルトでもなんでもいいんだけど。


 春巻きを口に運ぶと、由希と視線が交差した。

「それ、どうかな?」

「え、ああ……おいしいですよ」

 と言って見せるが実際、よくわからない。元々、食には拘らない方だったので、物の味を考えるのは苦手である。

「修二さんの好物だったんだけど」

「へえ……」


 俺、いつ春巻きなんか好きになったんだろ? 家ではおばあちゃんがよくご飯、作ってくれたけど、味なんか気にしたことは全然なかったな。


 父は会社員、母は役場で非常勤の仕事をやっていたので、食事はよく祖母が作っていた。

「あの、今はというか、中学生の頃はなにが好きだったの?」

「とくにこれといったものはないです。トマトはちょっと苦手でしたけどね」

「フフッ」

 由希が微笑む。別に笑いを取ったつもりはなかった。しかし、


 今、俺はうれしいと思ったんだ……。由希さんが笑ってくれて……。


 なんとなく小学生の頃に好きになった女子の事を思い出した。その子にかっこいいところを見せたくて、体育の授業の時、飛び箱で、テレビの体操の競技で見た難しい技を再現しようと試みたが、見事に失敗して飛び箱ごとマットに放り出された。クラス中が大笑い、その子も大いに笑ってくれた。恥ずかしかったが、少し、うれしいと感じた。


 でも、俺は今……。


 この女性に恋をしているわけではない。年の開きもあるが、それ以上に既に妻であるという事実を受け止めきれないでいる。


 由希さんが悪いわけじゃない、だけど……。


「修二さん」

「はい!」いきなり話しかけられたので、ギョッとしてしまった。

「大丈夫……?」

「え、ええ」

 また要らない心配をさせたかもしれない。

「さっきも話したけど、私、これから新村建設の方に少し顔を出してくるから」

 新村建設、由希の父親が創設した建設会社である。東区では、それなりに名うての工務店と知られており、従業員も六十名を超えるという。

「明梨のお迎え、頼んでいいかな?」

「ええ、もちろん大丈夫です」

 内心、少々気が重い。あの女児とは相変わらず、打ち解けられないでいる。

「ありがとう、幼稚園の場所はここある通りだから」

 由希がプリント裏に描いた地図を出す。

「平気ですよ、スマートフォンとかいうのでの地図の使い方もわかってきましたし」

「あと……」

「はい?」

 由希の表情が微かに沈鬱を語る。

「幼稚園の御父兄の方には、おしゃべりな人もいるから……」

 人の不幸な噂、陰口を楽しむ類の人間のことだろう。父親が迎えに来たのを見れば、あれやこれやと悪い風評をばらまくかもしれない。

「気にしませんよ、そんなの」

 自分が悪く言われるのは一向にかまわない。だが、自分のことで由希、そして明梨まで物笑いの種にするというなら、


 ただじゃ済まさねえ……。


「……やっぱり私が……」

「だ、大丈夫ですって!」

 眉間にシワを寄せ過ぎてしまったようだ。中学生らしい血気の発露、だが今、修二は中学生ではない。迂闊な真似をして、由希の立場を悪くするわけにもいかないだろう。なにかくさされても適当にやり過ごすしかない、と考えをまとめた。

「そんじゃ、洗い物は俺がやりますんで、由希さんはお出かけの準備をしちゃってください」

「ありがとう」

 そう言うと由希は二階の私室に向かっていった。スポンジに洗剤を染みこませて、皿を手に取った。


 女性の出かけ支度は時間がかかるからな……。新村建設か、由希さんってちょっとした御令嬢だったのか。


 そんな女性をほだせたという事実は、男冥利に尽きるが、それは今の自分ではない自分だろう。


 いい加減、由希さんとも向き合わないといけない……。


 皿を拭いて、とりあえず水切りかごに入れておく。小さなコップが目に入った。


 娘か……。


 あの少女は本当に自分を必要としているのだろうか、つい考え込んでしまった。

 まもなく由希が降りてきた。スーツでも着てくるのかと思ったが、普通の洋服にコートを羽織っただけだった。親の所有する会社だから、勝手知ったる、と言う所なのかもしれない。

「ありがとう、修二さん。私はもう出るけど」

「俺も出ます」

「ええ、それじゃ行きましょ」

 玄関で靴を履いてドアを開くと、生暖かい風が屋内に進入してきた。海風、というやつだろう。由希が鍵をかける。

「それじゃ、途中まで一緒に」

「ええ」

 歩き出した由希の隣に並ぶ。


 あ……。


 恋人みたいだな、と思ってしまった。

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