記憶 (3)

 あの頃は、当時の三年、修二の一つ上の先輩たちもすでに進路を決めて、クラブは修二たちの代に引き継がれていた。

「引継ぎ自体はもう前年の十一月には終わってました。その時、部の次期キャプテンとして指名されたのが、若槻誠一っていう俺の同級生だったんです」

 若槻誠一、中学から同じクラブで汗を流した仲だったが、あまり話したことはなかった。生真面目でクラブ活動へのストイックすぎる取り組み方から、近寄りがたい雰囲気を感じていたのだ。

 だが彼の実力は部内でも頭一つ抜けていた。走力、脚力、スタミナ、ボールコントロール、判断力、どこをとっても非の打ちどころがなく、内心対抗意識を燃やしてワンオンワンを仕掛けて勝負を挑む部員もいたが、あっさり破れて自信喪失するほどだった。修二もそのうちの一人だった。


「ほんとに、すごいやつでした。一年の時から、上級生たちの試合にも出てて、地区選抜にも選ばれたくらいで。だけど……」

 若槻は、あまりにも真面目過ぎる性格で、遊び半分で部活に出ている部員たちは次第に彼を煙たがり始めた。能力的な僻みもあったのかもしれない。

「中には、先輩たちにおべっか使って試合に出ているなんて言うやつもいて……。そんなの言いがかりです。あいつの実力は本物でした」

 そして、若槻がキャプテンに指名されて以来、彼と一部の部員たちとの間の確執がいよいよ顕在化してしまったのである。

 若槻は、常に、入念な練習メニューを設定して、時間厳守でそれをこなしていくのを活動指針とした。当然のこと、だったんだろうが、クラブを楽しむためのものと考える一部の部員たちはそれを嫌った。次第に若槻の指示や計画に反発を示すようになっていった。


「あいつは、キャプテンとしてすべきことをしていただけなんでしょうが……。少し、空気を読めないというか……。自分基準でクラブを考えすぎていた面もあったんでしょうね……」

 そして、中学二年、二月末、学校のグラウンドがスプリンクラーの工事で使用できなくなってしまったので、近所の公園にあるグラウンドを借りて練習することとなった。

「あっちにある大きめの公園、そこのグラウンドです。そこに……ボールをボール入れごと運ぶことになったんです。そのボール入れというのがキャスター付きの金属でできた大きなもので……」

 ある部員たちがそれで、悪ふざけを始めた。現在は階段となっている坂道でボールを入れたままボール入れを転がしたのである。

 下で待機させたある部員がそれを受け止める役割となった。その部員は矮躯で肥満していた男子であった。


「いつだったか忘れましたが、途中から入ってきたやつでした。おおよそ、サッカーが好きだったわけでもなんでもないでしょう。ただ……かっこつけたくてうちに入ったってだけのやつだったと思います」

 その男子は、部内でも不良っぽい反若槻のグループで腰ぎんちゃくをやっていた。そのグループの一員であることで自分自身を権威づけたかったのだろう。他の派閥には偉そうにしていたが、鈍くて運動能力は最低クラスだった。強者におもねり弱者にやつあたる醜悪な男、としか修二は思っていなかった。

「体を張ってまで、そこでの地位を維持したかったんだと思います」

 若槻は彼らを注意した。危険だからそんなことはやめるように、と。しかし、彼らは聞き入れなかった。まるで本人がその場にいないかのように、その遊びを続けた。次第に参加する人間も増えた。そして……ついに事件が起こってしまった。


 いつものように、ボール入れを下に向けて転がそうとしたが、押している人間が多くなり過ぎたため、いつも以上の勢いがついてしまった。そして、それを下で受けとめる役割だったあの男子が、

「避けてしまったんです。受け止めるのが怖くなってとっさに避けたんでしょう。ですが……」

 ストッパーを失ったボール入れは、速度を増し続けて坂を下り、そして……、

「坂道の下で、歩いてきた、女子小学生に……直撃、したんです……」

 辺りは阿鼻叫喚の地獄となった。ボール入れのフレームは歪み、散乱したボールの所々に赤い染みが張りついていた。パトカーと救急車のサイレンがひっきりなしに鳴り続けた。


 想起を中断して、由希の顔を見る。

 由希は黙って聞いている。真顔ではあるが、硬直した瞳の奥にある感情は窺い知れない。たまらず視線をそらした。

「俺は……、俺はその場に居合わせてませんでした。その日、偶然、図書委員の仕事で図書室の掃除をやっていたから、後から行くことになってたんです。それで外の騒ぎを聴いて、窓からその様を見ました。この学校の、あの窓……からです」

 修二は思わず、駆けつけようとしたが、校門を出る寸前で足が止まってしまった。

「今、出て行けば、俺も連帯責任を取ることになるかもしれない……そう、思ってしまったんです……。俺は……卑怯者です……」

 そんな逡巡をしながらウロウロしていると次第に人だかりができ始めた。警察が立ち入り禁止のバリケードテープを張った周辺から、他の生徒に混じって現場の様子を窺い、部員たちを見つけた。

 呆然と立ち尽くすもの、泣き崩れて座り込むもの、逃げようとして警察に押さえつけられているものなど、それぞれが絶望の様相を呈していた。


「少年院に行くことになるかもしれないと思ったんでしょうね……」

 しかし、そんな中、確かな口調と手振りでなにが起こったか、詳細に説明している一人の男子がいた。若槻、だった。

「それを見て、やっと気づいたんです。あの場にいなかったとはいえ、これは自分の部がやったことなんだから、俺もこの部のメンバーとして事態の収拾にあたる義務があるって……! でも……」

 テープをかいくぐって、近づいた修二を若槻の目が捉えた。そして、次の瞬間、発した言葉は、

「なにしに来た⁉」

 空を裂かんばかりの雷鳴のような一喝が自分を岩のように固めた。そのまま完全に身動きがとれなくなってしまい棒立ちになってしまったが、すぐに警察に手を引かれてテープの外へと排除された。


「気づいた時には、車の中でした。皆が警察署に連れて行かれた後でも、俺がいつまでたっても現場近くでボケたように突っ立っているのを心配して、社会科の奥山先生が自宅まで送ってくれたんです……」

 事件に巻き込まれた少女は一命をとりとめたものの、二週間以上意識不明の重体が続いた。負った傷は大きく、生涯にわたって後遺症になることを修二も知らされた。テレビや新聞でも報道され西浜中は世間からの強い非難を受けることとなった。

 事件を起こした部員たちは、少年審判を受けることとなった。どういうものかはよくわからなかったがつい先日まで、一緒に部活に励んでいた仲間たちが犯罪者として裁かれるという事態にすさまじい恐怖を感じた。


「誰と誰に責任があって、誰にない、とかそういうのは全然わかりませんでした……。学校は、顧問の吉本先生も教えてくれませんでした……」

 今思えば、せめて自分だけでも守ろうとしてくれたのかもしれない。しかし、彼らの焦燥も尋常ではなかった。連日、抗議や非難の電話がかかってきて、果ては嫌がらせや脅迫まがいな行いも起こり、教員たちは大いに消耗した。

「俺は……どうすることもできませんでした。いや……しなかったんです。事件の詳細を知るのが怖かった……」

 そして、見てしまった。学校に、被害にあった女子児童の保護者が弁護士に付き添われてやって来たのである。職員室から聞こえる、女児の母親のヒステリックな叫び、憎悪すらこもった父親の怒号、教員たちは皆一様に頭を下げて必死に耐えていた。その下で、顧問の吉本は床に額をこすりつけて土下座をしていた。

「それを見て俺は……逃げ出したんです……」

 玄関まで走り、自分の靴をひったくるように取り出して、履きながらまた走り出す。ただひたすらに街を駆けた。自分たちに降り注いだ苛烈な運命、すべての現実を、罪を……忘れたかった。


「それが、ここで起こったすべてです……」

 空を仰ぐ、黒い雲が一面にかかり、緩慢な動作で流れていた。

「みんながあの後、どうなったのかは知りません……。ただ卒業アルバムにはほとんどいませんでした。名前だけ載っているのが数人いただけで……」

「その女の子は、どうなりましたか……?」

「わかりません……」

 今も生きているだろうが、自分たちの部に抱いてる感情は、想像することさえ怖い。

「修二さん……、あなたたちのクラブのやったこと、許されないことです」

 初めて聞く、由希の冷たい声音。

「はい……」

「だけど、どこかで修二さん自身が、自分を許さなくては、いつまで経っても苦しいままでしょう」

「でも……! でも俺は……! 俺は、ほんとうにずるかったってどうしても思ってしまうんです! そうでしょう⁉ こんな、こんな重大な事件をあなたが知らなかったってことは、あなたを欺いて結婚したってことでしょう⁉」

「……」

「そんな俺にあなたと生きる資格なんて……」

「ですが今、教えてくれたじゃないですか」

「え……?」

「だから、せめて私だけは、あなたを許します、共に罪を負って生きていきます」

 由希の手が修二の両頬に添えられる。

「そう誓ったから……」

 唇に伝わる柔らかな感触、

 

 あ……。


 意識が跳躍する。なにかが見えた。どこかにある大きな橋、そこに自分は立っていた。なにかが舞い落ちてくる。白い粉粒、雪だった。前に視線を送ると、誰かがいる、その橋で自分の目の前に立つ一人の少女、高校生だろうか、どこかの制服を着ている、その少女の顔は、

「……大丈夫」

 今、自分の背に腕を回して、自分を抱いてくれるこの女性の顔だった。

 いつのまにか自分の両手も彼女の背に回っていた。黒い雲の裂け目から、わずかな月明かりが差し込み、二人を照らしだした。

「……!」

 遠くにある線路から、快速電車が走り去る音を聞いて我に返った。

 お互いに腕の力を緩めて、同時に体を離した。そのまましばらく、見つめ合っていると、由希が穏やかに微笑んだ。

「さあ、帰ろ」

 そう、言ってくれた。

「はい……」

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