第四章 旧知の誰か
旧知の誰か (1)
「それでは来週、お待ちしております」
美島楓は、そういうと静かに受話器を置いた。ここは、勤め先の弁護士事務所、今年でもう五年目になる。今日は土曜だが、クライアント第一をモットーに掲げる事務所の方針で休日出勤となった。そのこと自体に不満はないが、いい加減大きな案件を任せてもらえないかと焦燥感も感じている。
「ふう……」
末期の旧試験組であり、あまりお金をかけずに弁護士資格を取得できたのは僥倖と思っている。それでも、これからここで会う友人を見る度になにか物寂しい気持ちになるのが常だった。
「由希、そろそろ来るかな……」
自分から行くつもりだったが、昨日突然彼女の方からここで話したいと連絡があったのだ。早馬由希、旧姓新村由希とは中学以来の友人であった。人付き合いが苦手でツンケンした物言いしかできない自分にとってはただ一人、親友と呼べる女性。同じ、誠心館高校に行けた時は嬉しかったし、大学も偶然同じところであった。
だけど……。
彼女はもう独り身ではない。結婚して四才になる娘もいる、そして夫は、高校時代一つ上の上級生であったあの早馬修二である。
由希ちゃんの選んだ人だけどさ……。
なんとなく彼には気の許せないものを感じていた。あの頃を思い出す。由希が、ぼんやり音楽室の窓からなにか見ていた。どうしたの、と聞いてもなにかもじもじしながらはぐらかされてしまう。あの頃から、校庭でサッカーに取り組む修二にずっと恋慕していたのだろう。
どんな男なのか、気になって調べてみたが特に特徴のない男、としか言いようがなかった。あまり社交的な性格ではなく機械のような印象しかなかった。由希の趣向にケチをつける気もなかったが、引っ込み思案な彼女がなかなか想いを告げることができないでいるのをみてやきもきしたものである。そしてようやく告白したのが二年の終わり、そのまま二人は大学生と高校生のカップルとなり、六年越しの交際の末、結婚した。
親友が先に結婚したことに別段焦りはなかったが、それでもどこか遠くに行ってしまったような寂しさは拭えない。加えて、今や由希は一児の母である。子供中心の生活になってしまい、昔のように気楽に遊べる関係ではなくなりつつある。
そんなことを考えていた時、インターフォンがなった。
「はい」
「あ、楓ちゃん」
「ああ、待ってたよ、どうぞ入って」
今日はもうここでの予定はないので客室に通してしまってもいいだろうと思い、由希を案内する。
「ごめん、急に職場まで来ちゃって……」
「いいのいいの。えっと、明日のハイキングのこと?」
「その事なんだけど、ちょっと難しくなっちゃって……」
うつむき加減にそういう由希。声音からもなにか重いものが伝わってくる。
「え? 明梨ちゃんが熱出しちゃったとか?」
「そういうわけじゃないんだけど……」
なにか言いづらい事情があるような気配をキャッチ。
「……なにかあったの?」
「うん、ちょっとうちの人が今、大変で……」
楓の目元が角度を上げた。
「どうしたの……?」
「説明……するのがちょっと難しくて……ごめん、落ち着いたらちゃんと話すから」
そんなこと電話でもメールでもいいのに、わざわざ直接言いに来るあたり、相当込み入った理由があるのだろう、それも夫がらみで。
「……わかった。なにかあったら相談して頂戴」
「あのそれと……」
「なに?」
「私、また少し働くことになるかも」
「……⁉ ほんと? 明梨ちゃんがまだ……」
「うん、でもそうしないと……。お父さんに頼るのも、よくないと思うし……。また、新村建設で……。それでこれから忙しくなってくると楓ちゃんと遊ぶ時間もあまりなくなっちゃうかもしれなくて」
楓の瞳がキラリと鋭い光を反射する。ある一つの仮説事案が彼女の脳裏を走り抜けた。
「わかったわ、私も協力する。由希、宅建あるし、どこかいい事務所ないか所長に聞いておく。なんだったらここでなにかできないかも」
「え……? 悪いよそんなの」
「いいの、明梨ちゃんのためだもの」
「ごめん……ありがとう……」
丁寧に頭を下げる由希が、痛々しく、哀れに見えた。
これは……もう確定ね……。
手を固く握り、原因となったであろう男の顔を思い浮かべる。
一昨日電話した時の変な態度はそういうことだったのね……! これは……DVね……!
ドメスティックバイオレンスと早合点、頭はよくても間違った方向に直感を働かせるのが美島楓の昔からの、特徴だった。
早馬修二……! よくも由希を……! 見てらっしゃい!
謎の使命感を燃え上がらせる楓を、怪訝な表情で由希は見ていた。
リビングのソファに虚ろな気分で腰かけていた。記憶を失ったか、あるいは未来にタイムリープしてから今日で三日目。先ほど父から連絡があり、別の病院を紹介されたが行く気にはなれない。
そもそも俺は……。
記憶を取り戻したい、わけではないような気がしてきた。
あの中学三年の五月に戻るには……。
雲をつかむような妄想をすれば、それだけで意識が薄らいでいく。
俺……ひょっとして死んだんじゃないのか……? 成仏しきれなかった自分が現世への未練からおかしな世界に迷い込んで……。
そこまで考えると頭を強く振った。こんなことを考えていては気がおかしくなる。そんな自分を見つめる丸い瞳が二つ。視線に気づいてそちらを見ると、すぐにそらされた。もうパターンになっているような気さえする。
ため息をついて、積み木遊びに興じる明梨に目をやった。母親がいなくても、泣き出したり、ぐずったりはしないのでそのことはありがたいのだが、自分のことは眼中にないようでなんとも言えない気分になる。
全然、俺に懐いてないよなこの子……。元から嫌われてたんじゃないのか? まあ、懐かれても困るんだけど……。俺の子どもなんかじゃないし……。
頭で思っても口はに出せないことである。実際、他人としか思ってないが、そんなことをあの由希と言う女性に聞かれれば、きっと悲しむ。ここまで甲斐甲斐しく自分を助けてくれた女性に、そういう姿勢を見せたくはない。
だけど、この子の父親は俺じゃなくて……。
明梨が立ち上がった。部屋の外に向かって歩いていく。
「……? おい」
トイレにでも行くのかと思ったが、帽子を手に持ったので、自分も後を追う。
「どうしたんだ?」
廊下に出ると、玄関を見つめて立ち尽くしている。
なんだ……? 母親が恋しいのか……? あ……。
そこで思いだした。近所の公園で遊ぶようなことを由希が言っていた。
「……ちょっと待ってろ」
一人で行かせるわけにもいかない。リビングに戻り、彼女が残した地図を手にもって玄関に向かう。明梨はそのままの姿勢でいた。一人で外には出ないよう、言い聞かされているのだろう。
「外に行くのか?」
明梨は黙っている。
返事くらいしろよ……。
イラつきながらも女児の前に出て、真っすぐ瞳を見据えた。
「公園だな、行くぞ」
一呼吸置いて、女児は初めて自分に向かって頷いた。
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