第五章 記憶

記憶 (1)

「それじゃあ……行ってきます」

「ええ、いってらっしゃい。帰りは……」

「……俺には気を遣わないでください」

 由希の瞳が微かに揺らいで見えた。視線をそらす。

 まだ、ここの人間であるという現況を認めきれない自分の心根が言わせた言葉。それが彼女を傷つけたのだとしても、おかしな期待をもたれれば、もっと由希を苦しめることになるかもしれない、そう思うことにした。

 電車で、早馬の家まで向かう。元担任の奥山政宗に会う。中学三年の五月に会ったのを最後に修二の記憶は途切れている。

 

 なにかがあったのかもしれない、あの日に……。

 

 といっても覚えている限りは、簡単な進路相談を少しやったくらいで、時間が遅れて苛ついていたことくらいだった。彼がなにか知っている可能性はないだろう。

 

 あの事も聞いておこう……。

 

 軽く胸を抑えて、ホームにやってきた電車に乗り込んだ。窓から東区の街並みをなんとなしに眺望する。西浜区より海岸沿いにあるためか、昼間は海風が吹き込んで、十一月でもやや暖かい。

 この辺りには、潮干狩りできたことがあった気がする。

 おぼろげながら小学生の頃の記憶をたどった。こんな昔のことも覚えているのに、なぜこの十五年分の記憶が欠如しているのか、いまだにそれがわからない。

 

 ほどなく電車が目的の駅に着いた。

 早足で自宅まで向かう。その時脇通りにある衣類店が目に入った。閉店セールと大々的に張り出している。

 思わず笑ってしまった。あの店は、修二が小学生の頃から閉店セールをやっているのだ。

 家に着くと、ドアを開けようと思ったが、立ち止まる。一度深呼吸してから、フォンを鳴らした。

「はい」

「俺だけど……」

「ああ、入んなさい。先生もう来てるよ」

 緊張が走る。手汗を握りつぶして、前に受け取った鍵を回した。

 リビングまで行くと、

「お……」

「あ……」

 無精ひげを生やした五十代がらみの男性、

「早馬、早馬修二か……!」

 間違いなく、かつての、と言っても自分にとっては数日ぶりに会った担任、奥山政宗だった。

「せ、先生……ですよね……?」

 思わず凝視する、顔はほとんど変わっていないが白髪がだいぶ増えていた。

「ああ、はは! ずいぶん立派になったじゃないか! 北羽を出たんだってなぁ! いやあ大したもんだ!」

 豪快に笑いながら、修二の背を叩いてくる。

「え、ええ、先生もお変わりなく……」

 と言いつつも、数日前に会ったばかりの男が、特殊メイクでも施したのかというほど変わっていたので、心中、激しく動揺している。

「いやあ、懐かしい。んっと……十五年ぶりくらいか?」


 四日ぶりなんだよ……。


「先生、ちょっといいですか……?」

「うん……? なんだ、お袋さんからもお前が……失礼、君がなんだかおかしいみたいなことを言われたが」

「さあさあ、とりあえず椅子にかけちゃってください」

 母がお茶を持ってきてくれた。


 奥山に全てを話すこととなった。四日前に目覚めてから、中学三年の五月の進路相談の日以降の記憶がないこと。いつの間にか、結婚して子供までいたこと。

「ふーむ……」

 対面に座っている奥山が考え込む。

「こういっては何だが、にわかに信じ難い話だな」

「俺だって信じられませんよ……でも、確かに俺はつい先日まで中学生だったはずなんです……」

「医者は何と言っていた?」

「心的外傷がどうのこうのとか……なにかショックを受けた経験を聞かれたりとか……」 

 ため息をついて、目線をテーブルに落とす。

「しかし、なんで中学三年の……五月だったか? そこまでの記憶はあるんだろうな?」

「わかりません、ただその時の直近で起こった大きな出来事と言えば……」

 チラリと奥山の表情を窺う。ピンときたと言った顔になった。

「まさか⁉ あの事件か⁉」

「その可能性を考え始めています……」

「し、しかしお前……君はあれに関わっていなかったはずだろ⁉」

「ええ……。だから、なのかもしれません……」

 

  心中で暴風が吹き荒れる。苦しいが、向き合わなければならない。そうしなければ真実にはたどり着けない、そんな気がする。

「あの事件は多くの人たちの人生を狂わせてしまいました。俺は……運がよかった、だけです……。たまたま、いなかったから……」

「……そうかも知れんが気に病むようなことじゃないだろう。実際、無関係だったのだから」

「それでも……」

 どこかで罪の意識を感じていた。サバイバーズギルト、のようなものかもしれない。

「そうか……。なら調べてみるか?」

「そうします、それで……会いたい人間が二人……」

「吉本先生か……」

「ええ……、……ッ!」胸を押さえこむ。あの時のあの痛みが蘇り自分を苛む。

「は、早馬……!」奥山が立ち上がる。

「大丈夫です!」視線を奥山に戻した。

「あと一人は……?」

「……若槻……誠一です。同じサッカー部で……二年の時は六組だったと思います」

「ああ、彼か……」

 奥山が嘆息して体をやや傾けた。

「先生、若槻があの後、どこに行ったか知りません?」

「今はわからない。あのすぐ後のことは知っているが……。職務秘密ってやつでな、俺はもう退職した身だが……」

「い、いえ、いいんです。無理に教えてくださらなくても……」

「事情が事情だ、話すとしよう。北山区の境英中学校に転校した」

「そうでしたか……」


 そうだろう……。あの後、近所でも見かけなくなった。


 引っ越したのだと思い至った。

「今頃、どうしているか……。ただ、西浜の関係者だった人間にはもう会いたくないだろうとは思うぞ」

 奥山が腕を組んで、遠くを見るように語る。

「そうでしょうね……」

「しかし、なぜ彼を?」

「……あいつから言われた、ある言葉がずっと、心の奥底に刻まれているみたいになってて……」


〈なにしに来た⁉〉


「あいつに会って、あの時の真意を聞いてみたいんです」

「わかった……。とりあえず俺は吉本先生を探してみよう」

「あ、ありがとうございます……!」

 深々と頭を下げる。奥山にここまで感謝したのは初めてだった。

「といっても、吉本先生はOB会にも所属していないから、すぐにわかることではないと思うが……」

 また胸が痛みそうになったが耐えるしかない。

「ともかく俺もできることはやるとしよう」

「すみません、ありがとうございます……」

 申し訳なさが募ってくる。もうこの男性は自分の担任ではない。こんなことを手伝う義務などないはずにも拘らずそう言ってくれる。なんの親しみも感じていなかったにも関わらず、今はそのことが少し寂しかった。

「それと……これから、どうするつもりだ?」

「え?」

「いくら、記憶がなくても、また高校受験からやり直す、というわけじゃないんだろ?」

「ええ……」

 むろんそんなつもりはない、だがどう生きていいのかわからないのも現状である。

「すまん、酷なことを聞いたな。今の君は、あの頃の、俺の生徒だった時のままか」

「いいんです……。自分でなんとかしなくちゃならないことですから」

 そう言うとお茶を飲んだ。すっかり冷めていた。

「ああ、そういえば逢坂先生に会ったんだってな」

「あ……ええ、そういう人がいました。今の西浜中に……」

「彼から君のことを聞いたからな、逢坂先生はちょうど君が卒業した後に西浜に入ってきた人でな、俺のクラスだったんだ」

「え……?」

 思わず言葉を失う、自分よりもずっと年上に見えた男性だったので驚いた。

「今じゃ、あそこの英語教師だ。人の運命ってのはわからんな」

 どこか楽しそうに語る奥山。

「そうでしたか……。そういえば先生、早期退職されたと聞きましたが……」

「ん……ああ……」

 表情に陰が差した。

「あの……ひょっとしてあの件となにか……」

「違う、俺の事とは全く関係ない」

 少し気になったが、はっきりした声音でそう述べたのでこのことはそれ以上追及しなかった。


 奥山を見送るため近所のパーキングまでやってきた。既に日は落ちかけており、児童に帰宅を呼びかけるアナウンスが響いている。

「それじゃあ、俺はもう行くが、なにかわかったらすぐ連絡しよう」

「ありがとうございます。よろしくお願いします」

 奥山がエンジンキーを差し込む。

「今日は楽しかった、久々に昔を思い出したよ」

「はい……」

「それじゃあな」

 窓が閉じられた、車が発車する。見えなくなるまで、礼の姿勢を崩さなかった。

呆けたように空を見上げる。黒い雲の縁が赤く彩られていた。


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