旧知の誰か (4)
「記憶喪失ぅ?」
「そう……」
ダイニングテーブルで来客と対面に座る羽目になった。
「なんで、そんなことに……。早馬くん、事故にでもあったの?」
「そういうわけじゃないんだけど、その……」
楓が修二の方を視線を移す。いかにもキャリアウーマンといった風貌の女性、明らかにその瞳は狐疑の念が宿っている。
俺の方から話した方いいか……。
「中学三年の五月までのことしか覚えてないんです……」
「……ほんと?」
「ええ……」
「じゃあ、私の名前言ってみて」
「楓さん……ですよね?」
「知ってるじゃない⁉」
両手をテーブルについて、勢いよく立ち上がるバリキャリ女子。
「い、いや、今さっき、聞きましたし……」
いちいち突っかかる。どうも前の自分とは折り合いが悪かった相手らしい。
「……あんた悪ふざけでこんなことやってんなら許さないよ」
「そんなわけないでしょ……」
由希に救援を求めるような視線を送る。
「そういうわけで、わかってくれたかな……?」由希のフォロー。
「……わかった」
「そんじゃ、俺はこれで……」
「待ちなさい」
ピシャリとそういう。
「まだなにか……?」
「由希の話は理解したけど、あんたの言い分まで了承したわけじゃないわ」
難癖だろそんなの……。
女性がなにかの機械でできた板みたいなものをバックから出した。コンピュータータブレット、というやつだろう。
「ほんとに中学生レベルの脳みそだっていうなら、この問題も解けないはず」
なにかの計算問題を出した。見たことのない記号が使われている、高校数学の範囲なのだろう。
「ちょっとやってみてごらんなさい」
上から目線な物言いに、こちらもだんだん苛立ちがたまってきた。
「わかりませんよ、こんなの……。…………うん?」
見たことのない文字、だが知っている気がする。
「……紙あります」
「え、うん……」由希がメモ帳とペンを出してくれた。
これって……。
手が自然に動いていた、式を頭の中で構築して、ノートに書き写していく。なぜか、そうすることができた。由希と楓も集中して、それを看視している。
「あ……」
計算が終わった。書き終わったメモ帳のページを楓が切り離して、手に取る。
「できてるじゃない……」
顔を上げると、彼女の両目が、書き写した紙を睨んでいた。
「正解、なんですか?」
「あんた……ほんとに記憶喪失で……。まあ嘘つくなら、こんなことしないよね……」
どうも鎌をかけるつもりだったらしい。加えて、修二の心底驚いているような顔を見てようやく納得いったようだ。
なぜ……。なんでわかった……。
口元を手で押さえる。
「修二さん、ひょっとしたら……。無意識のうちに覚えていること……までは忘れていないんじゃない?」
「え……」
改めて問題を見る。
「これって高校レベルのですよね?」
「そうだけど……」
そうか……北羽に行ったってくらいなら、これくらいできて当然、なのかも……。
「私のことも、覚えてないの?」
「すみません……全く記憶にないです」
「ふーん……、あんたとはよく殴り合ったんだけど」
「う、嘘でしょ⁉」
「嘘だけどさ」
思わず脱力する、大人というのは思っていたほど大人ではない気がした。
「そ、それより、えっと由希……さん」
「なに?」
「あの、由希さんが昔、受験の時に使ってた、参考書、とかあります?」
「ああ……。あると思うけど、私は文系だったから、そっちのしかないけど」
「由希は経営学部、私は法学部よ」
「ちょっと見せてもらえません?」
「うん、ちょっと待ってね」
由希が二階に向かう。また楓がこちらを観察するような視線を走らせていた。
「ああ、楓さん……でしたか」
「……そうだけど?」
まだ怒っているような気配がある。犬猿の仲だったのだろうか。
「えっと……楓さんの旦那さんは、俺を知ってる人ですかね?」
目が一気に吊り上がった。怖い。
「私、未婚だから」
「す、すみません……」
いきなり地雷を踏んでしまった。とその時彼女のスーツになにか光っているのが見え、視線をそちらに向ける。
「ああ、これ?」
「なんです、そのバッジ」
「弁護士バッジよ」
「え……?」
弁護士、裁判をやる人、程度の知識しかないが、とても難しい試験に合格しなければならない、というのは中学生の時から知っていた。
「ハァ……、頭いいんですね、楓さん」
「あんたにそう言われると、なんか煽られてるように聞こえるわ」
「別にそんなつもりじゃ……」
なんとなくこの女性の敵意の正体がわかった気がする。たぶん男嫌いなのだろう。友人である由希を取った自分は殊更に敵視されていたのかもしれない。
「そ、そういえば苗字の方まだ聞いてませんでしたね。なんと……?」
「美島よ、美島楓」
「はい、美島さん、早馬修二です」
多少冷や汗をかきながら改めて、初めて会った女性に挨拶をした。
「ええ、早馬くん……。なんかおかしな感じ、あなたとは口喧嘩ばっかだったから」
「へぇ……」
俺、そんなにこの人と仲悪かったのか……。別に嫌味な感じのする人じゃないけど。でも性格はちょっときつそうだな……。
そんなことを考えてるとドアが開かれ由希が入ってきた。明梨もいる。
「英語と現代文、あと世界史。こんなのでいいの?」
「ええ、ちょっとやってみます」
隣の居間で、楓と明梨が遊んでいる一方で、修二は英文読解の参考書と格闘していた。
読める……。こんな単語、覚えた記憶はないけど普通にわかる。頭の奥から湧き上がってくる感じだ……。
妙な高揚感が突き上げてきた。以前の自分なら三十分はかけただろう国語の長文問題も五分とかからなかった。
本当になにもかも忘れたってわけじゃないんだろう……。経験知、とでもいうのか。奥底に染みわたった部分までは消えなかったのかもしれない。
夢中になって読み進めていくと、ページにオレンジ色の光が差した。気づくといつのまにか日は西に傾いていたようで、由希がキッチンでなにかやっている。夕飯の仕込みを始めたのだろう。
明梨とオセロで遊んでいる楓の元に近寄った。
「あら、もういいの?」
「ええ、なにもかも忘れたってわけじゃないみたいで……」
「私じゃなくて、由希に話して」
それもそうだろう。彼女の方を見ると、
「修二さん、なにか思い出せた?」
「思い出した、というよりは覚えていたことがあったみたいです」
「そう、よかった……」
安堵したように微笑む由希、少し、ドキッとした。
「明日、奥山先生に会えばもっといろいろわかるかもしれません」
「そうね、今日はもう休んで明日に備えよう。楓ちゃん、夕飯食べてくよね?」
「うん、手伝うよ。明梨ちゃん、ちょっとごめんね」
そう言うと、楓もキッチンに行ってしまった。
「……」
なんとなしに、視線を下方に移す。
明梨がオセロをいじっていた。
自分が代わりに、と思いかけたがやめにした。柄ではないし、無視されて苛つくのもごめんだった。
「あの、俺、掃除でもしましょうか?」
「ええ、それじゃあ、廊下をちょっと掃いてくれる?」
「わかりました」
「明梨、お父さんを手伝ってあげて」
え……?
予想外の事態に思わず、女児を見る。またしても、こちらをじっと見ている。
仕方ない……。
顎を振ってついてくるよう促した。
「ええっと箒とかは……」
明梨が、廊下横の隠し戸のような所から小さな箒を出した。子ども用だろう。修二も一つ大きめの物を手に取った。
「……そんじゃ、掃くけど、玄関前まで塵を集めて」
「うん」
返事は期待してなかったので少し驚いた。
掃除をしつつ床と壁に着目する。
結構、凝った作りの家だな、あの人の父親の物らしいが……。あの部屋にあった免許状みたいなのは建築士免許か。自分で設計して作ったのかもな……。
そんなことを考えながら、掃いていく。玄関前まで運んだ塵を塵取りですくって近くのゴミ箱に投棄して終えようとしたが、
「……? お、おい」
明梨が今度はモップを取り出した。ウェットシートをかぶせて、廊下を拭き始める。
しつけの良さに感心しつつ、修二も雑巾で窓を拭くことにした。
「よし、もうこんなもんでいいだろ」
一通りを終えて、用具を集める。しまい終わると、明梨がこちらに視線を送っていた。
「……よくやった」
彼女の望みを推察してそう言った。頭をなでてあげようかと思ったが、やはり、柄ではない。
明梨はうなずくと居間に小走りで戻った。
食事を終え、しばらく楓と団欒していると時間はもう二十時過ぎになっていた。
「いっけない、もうこんな時間、そろそろお暇するね」
「うん、駅まで送ってくよ」
「もう遅いし、タクシー呼ぶわ」
そう言うとなにかスマートフォンというのを操作し始めた。
あんな板っぺらでタクシーが呼べる時代なのか……。
古いSF映画みたいなガジェットに驚嘆の念を覚える。
ほどなくして車がやってくると外まで見送ることにした。
「それじゃ、もう行くけど……」
「今日はありがとう楓ちゃん」
「……由希、今、すごく大変、だと思うけど」
「うん……」
視線を伏せる。大変、な原因が自分にあるのは考えるまでもない。
「なにか私にできることがあったら相談して、できることは全部するから」
「ありがとう……」
走り去っていくタクシーを見送った。
「はぁ……。なんかすごくエネルギッシュな人でしたね」
「楓ちゃんは昔からああだよ。勢いがあって、いつも私を引っ張ってくれて」
どこか懐かし気に語る由希。
「へえ、そりゃ俺みたいに優柔不断な男とは相性が悪かったってのもわかりますね」
「そんなことないよ、喧嘩してるようでもとても仲良しに見えた。私、本当は少し怖くて……」
「え?」
「さあ、先にお風呂入っちゃって」
「え、ええ」
背中を押される。なにかはぐらかされた感じがした。
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