第三章 自分を探して
自分を探して (1)
「……ん」なにか冷ややかな感触が頬に付着する。
「ああ……!」
身を起こすと、
「あ……」
女児がいた。一瞬誰かと思ったが、すぐに昨日会ったばかりの女児、明梨と理解した。自分の頬にペタペタと触れている。
「な、なに……?」
身を起こすと、明梨がのけぞって尻もちをついた。すると立ち上がり、部屋の外に小走りで駆けて行った。
「……」
修二を起こすよう、あの女性、由希から頼まれたのだろう。
どうやら……。
昨日見聞きしたすべては、悪い夢などではなかったようだ。
ため息をついて起き上がり、窓の外を見る。昨日と同じく天候は穏やか。重い足取りで、ダイニングまで向かうと由希がなにか料理を作っていた。
「あら、おはよう」
穏やかに微笑む由希。
「……おはようございます」
他人行儀な挨拶。
実際、意識上は他人でしかないのだが、どうもこの女性を悲しませたくないとも思ってしまう。
「……顔、洗ってきたら? 髭剃りも用意してあるから」
「……ありがとう、ございます」
寝ぼけ眼で洗面所に向かう。先にトイレを済ませると、鏡の前に立つ。たった一日でもわかるくらい髭が生えていた。
前はこんなに広範囲にはなかったのに……。
剃らない日もあったくらいだ。冷たい水で顔を思いっきり洗うと、慎重に顔をきれいにした。
ダイニングに戻るとテーブルに料理が並べられていた。ウィンナーに卵焼き、いかにも子どもが好みそうなメニューが並んでいる。
「明梨、朝ご飯にしよー」
テレビを見ていた女児がやってきた。補助椅子に腰かける。
「さあ、お父さん……修二さんも」
「ええ……」
椅子に座る。
「いただきます!」
女児が手を合わせて元気に叫んだ。
「……」
やはりこんな状況でも空腹は感じるものだが、どうもよそのお宅、のように感じて遠慮がちになってしまう。
「大丈夫……?」
由希が心配そうにこちらを窺っている。
「え、ええ、はい……。いただきます……」
食事を終えると、女児がなにか制服のようなものに着がえ始めた。
「あの……私、この子を幼稚園バスの集合場所まで送っていきますから……」
「……わかりました」
ここで待ってるほかないだろう。
リビングのソファに腰を落として、テレビをつけた。ニュース番組で四年周期でやってる国際的スポーツイベントが来年日本で行われると報道されていた。
変わり切った世の流れに、改めてため息をつく。
「行ってきまーす!」
玄関のドアが開かれる音と同時に、女児の元気な挨拶。といっても自分に向けて言ったわけではなく癖みたいなものだろう。
あ……昨日、電話が来たこと言い忘れていた。
しばらくすると、由希が戻ってきた。
「あの……昨日の夜、えっと……ある人から電話が来てたんですけど……」
「ええ、楓ちゃんでしょ。さっきメッセージ確認したから」
「……? はあ……」
なにを確認したのかと思ったが、まあ伝わったならそれでいい、と思った。
家のチャイムが鳴った。父が来たのだろう。重い足取りで、玄関まで向かった。
「おはようございます、由希さん」
「はい、おはようございます。すみませんお義父さん、こんな朝から……」
「いえ……修二、用意はいいのか?」
「うん……」
「なにか思い出せたか?」
「いや……なにも……」
まだフワフワしたなにかが胸の奥に漂っている。
「そうか、ともかく医者に診てもらおう」
父の車に乗り込む。やはりというか、由希もついてくるようだ。
当然……なんだろう……。この人が俺の奥さんだっていうなら……。
助手席に座る気にはなれず、後部座席に着いた。由希もその隣に腰を降ろす。車が発車する。
「市内の総合病院、そこの……精神科だ。行けるな?」
「だいじょぶ……」
とは言って見せたものの、そんなところに行かねばならない運命を呪いたい気分だった。
「あ……」
膝の上に乗せた手を由希がそっと握ってくれた。
顔をみると穏やかに微笑んでくれる。手をシートに落とした。少し冷たい対応だったかと思ったが、彼女の表情は変わらなかった。
ほどなく病院に着き、院内に入ると中の様子に唖然とする。
なんだよここ……。
呻いている男性、震えている女性、髪をくしゃくしゃにしている性別がよくわからない人間、異様な雰囲気漂う待合室を屈強なガードマンと思しき男性スタッフたちが厳重に警備している。
父が受付を行っている間、辺りの様子が気になって仕方がなかった。他の来院者となるべく目をあわせないように離れた座席に座りながら、視線を落とした。
「……!」
診察室から、甲高い叫び声が聞こえて、思わずビクッとする。ここから立ち去りたい衝動に駆られるが、そうしたところでどうしようもないことくらいは今の自分でも理解できる。ただ待つしかなかった。
一時間ほど待った後、とうとう自分の番が来た。父と由紀の後に続く形で入室した。
結局、病院では大したことはわからなかった。
当然だと思う。自分ですら今の状況は全くわからないのだから。ただMRIとかいう検査では少なくとも脳に損傷があるわけではないとされた。
物理的な傷じゃないなら、やはり精神的ななにか……。
「修二さんお疲れ様です」
「……ええ」
由希の労いがやたら耳障りだった。考え事を中断されたことだけではないだろう。
「特に変わりないか?」
「あるわけないだろ……」
苛立ちが募ってくる。
これからどうすれば……。やはり……一度家に……。
「今から家に行ってほしいんだけど」
「家って、俺の家か?」
「そうだよ……」
遠回しにもうお前の家じゃないと言われているような気がして、頭に血がのぼってくる。
「その前に飯でも」
「いらないそんなの!」
とうとう怒鳴ってしまった。
待合室の人々の視線が一斉にこちらに集中する。冷や汗をかいて病院の外に早歩きで出た。
息を荒げて立ち尽くす。照りつける太陽がますます自分の焦燥をたきつける。苛立って地面を蹴ろうとしたら、
「……!」
いつのまにか、由希が自分の腕を必死につかんでいたことに気づいた。
振りほどきたくなったが、さすがに一宿二飯の恩がある。自重した。所在なくあたりに視線を走らせると、父がこちらに向かってくるのが見えた。
「とりあえず、 うちに行ってみよう。由希さん、よろしいかな?」
「はい」
修二はうなずくことすらできなかった。
再び父の車に乗車して、西浜区の自宅に向かう。車内では誰も口を開くことはなかった。
高架橋に上がると、遠目に海が見えた。ここは海岸からさほど遠くない。
あの時見た夢……。
海の上に架かる橋のようなところを歩いていた夢を想起した。だがそれがなにを意味するのかは、靄を探るような感覚になり、わかるところではなかった。
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