知らない人 (4)

「それじゃあ、居間で明梨と……、居間で待っていてくれる?」

「え、ええ……」

 少し女性の口調がラフになったが別に嫌な気はしない。

 知らない家の知らない居間でぼんやりカーペットに腰を落として、体育座りになる。今後のことを考えるだけで不安で押しつぶされそうな気分になる。

 

 夢なら覚めてほしいとは……まさにこのこと……。

 

 なんでこんなところに、いなければならないのか憤りすら覚えるが、別にあの女性が悪いわけでもなんでもない。苛立ちを悟られないように、顔を伏せた。

 影がさす、視線を上げると明梨という少女がいた。真顔でこちらを見ている。

「……なに?」

 返事はない。舌打ちしかけたが、幼児相手にさすがにそれはみっともない。顔をそらす。まだ視線を感じる。

 

 なんなんだよ……⁉

 

 横目で見ると、女児がビクッとした。感覚的にこちらの不機嫌を察知したのかもしれない。母親の元へ駆けていった。その後ろ姿を目に入れると、手になにか持っていた。

 

 あれって……。

 

 絵本、だろう。ひょっとしたら読んでほしかったのかもしれない。

 かすかに良心が痛んだが、今の自分に他人に配慮していられる余裕などない。ダイニング向こうのキッチンに目をやると由希が女児をあやし始めた。彼女の足を引っ張ってしまったようで居心地が悪くなる。

 

 それにしても、あの人、一体何者……? いや、本当に俺の奥さん、っていうなら、いつ知り合ったんだろ。

 

 見知っている人間ではないし、由希という名前の女子など自分の中学の知り合いにはいない。高校以降で出会ったのだろうが、当然実感というのはまったくわかない。

 既に仕込みは済んでいたようで、食事はすぐに用意された。ホワイトシチューにパンとサラダ。

「いただきます」

「はい、めしあがれ」

 そんな二人のやり取りを戸惑いなら見る。由希という女性が、チラリとこちらに視線を移した。

「い、いただきます……」

 といっても、先ほど感じた食欲などほとんどなくなっていた。なぜこんなところで夕食を取らねばならないのだろう、とストレスを感じるが、自分に食事を用意してくれた人の前でそんな顔はできず、少しだけ食べることにした。

「あしたね、ようちえんでおいもやくんだって」

「そう、楽しみね」

 そんな会話を交わす母子を見ながら、ため息をつく。よそのお宅の食卓にお邪魔してしまったような申し訳なさと疎外感が同時に胸裏を走り抜ける。

 

 明日からどうすりゃいいんだ……。いや、まずはまた家に行って、その前に病院か……。なんで、なんだってこんなことに……!


「うん……?」

 またしても女児がこちらを見ていた。

「……」無言で顔をそらす。

 

 なんなんだろこの子……。俺って……俺が父親なら……こんな珍獣でも見るような顔になるものか……?


「明梨、お父さんは今、大変だからお母さんとお話ししようね」

「うん」

 大変、どころではない程大変だが、女性のフォローに感謝した。

 結局、食事はあまり喉を通らず、悪い気はしたがほとんど残してしまった。再びリビングのカーペットで胡坐をかいて、今後のことを思案する。

 

 ほんとに今が十五年後だっていうなら、どうする……? まずは、昔の知り合いを探して見るか……。

 

 確証を得るにはそれしかない気がしてきた。

 

 誰に会えば……。西浜中でなら……そうだ……!

 

 学校はまだある。自分の知っている教員がまだいる可能性もあるかもしれない。

 

 奥山……先生を探して見るか……。でも、十五年なら普通に考えて異動してるよな……。でも知り合いが勤務しているかもしれないし……。うん、一度西浜中に行こう。後は、誰かいるかな……あ……。

 

 肝心要の、超がつくほど今の自分と密接な関係にある人間は、すぐそこにいる。

 

 あの……由希……さん、か……。

 

 まだ、彼女のことはほとんど聞いていない。当然、過去の修二を、この十五年の欠落部分を一番よく知っているだろう。視線を向けると、洗い物をしている。その足元には明梨、という女児もいる。人見知りする性質だが今はそれどころではない。軽く息を吐くと立ち上がった。


「あ、あの……!」

「ああ、修二さん、先にお風呂入っちゃって」

「え……?」

「私は後からこの子と入るから」

「は、はあ……」

「替えの服、用意しておくね」

 風呂どころでは、と思ったが散々汗をかいたせいでインナーは結構湿っている。服は家にある父のものを借りたが、ここが今の自分の家なら当然自分の服もあるのだろう。

「こっち」

「あ……」

 手を引かれた。思わず息をのむ。女性の肌の感触におかしな気分になりかけた。

 案内されたバスルーム手前の更衣室みたいな廊下部分で服を脱いだ。体は特に変わったような気はしないが、鏡を見れば背はやはり伸びている気がする。

 ドアを開けると、妙に広い浴槽があった。

 

 ひょっとして家族風呂……?

 

 あの女性の裸体を思い浮かべて、思わず赤面する。ラック見るとアヒルのおもちゃがあった。おそらくあの女児のものだろう……。

 

 俺も昔はあんなの持ってったっけ、十五年経っても変わらな……。

 

 ここが十五年後の世界であると既に認め始めている自分にゾッとした。体を洗って、湯舟につかると気が遠くなるほど力が抜けていった。

 修二が風呂から上がると、着がえが用意してあった。下着に見たことのないパジャマ。

 

 、使っていたものか……?

 

 頭を押さえて、リビングへのドアを開くと、

「……どう、だった?」

 あの女性がいた。いきなり目の前に現れたので目が丸くなってしまった。

「え……ああ……、とても、いいお湯、でした。はい……」

 無言で控えめな微笑を返す女性。

「この子と入ってくるから、テレビでも見てて」

「はい……」

 女児の手を引いて風呂場に向かっていく。女児が去り際にこちらを一瞥した。

「……」

 なにか心が痛む。風呂にでも入れば、おかしくなった自分の夫が元に戻ってくれると思っていたのだろうか。 

 

 どうしようもないじゃないか……。そんなの俺の方が怖い……。

 

 十五年間の記憶を取り戻した自分はもう自分ではなくなるような気さえした。

 

 そういえば……。

 

 ここにきてようやく、テレビで時勢の変化、というものを確かめることに気づいた。あのやたら薄いモニターに視線を運ぶ。リモコンは台座にあり、基本的な操作方法は自分の知っているものとそれほど変わらないようだ。

 電源を入れると、なにか横幅が大きいような感じがした。最初に見たのは国際ニュース、知らない総理大臣が聞いたこともないアメリカ大統領と会談したというもの。別のチャンネルのバラエティー番組には知っているタレントが出ていた。特に変わった感じはしないが目を凝らすとやはり老けたような感じがする。音楽番組のアーティストは耳目にないバンドや歌手ばかりだった。

 これがすべて自分ひとりを騙すための仕掛けなら、自分の周章狼狽ぶりをみんなで観察して楽しんでいるなら、自分は相当な大物だろう。なにかそんな感じの映画を思い出してしまった。

 ため息をついて、ソファに身を沈めると、台座の下になにかあった。

 

 なんだこれ……?

 

 ビデオデッキのように見えたが何か違う。高さが低いのでVHSテープなど入らないだろう。

「DVD……ブルーレイ……」

 そんな文字を見かけた。

 

 聞いたことがあるような……そうか、これCDみたいなもので映像が入ってるんだ……。


 その上にあったソフトパッケージを手に取ってみる。

「これ……」

 自分も知っている古いSF映画、確か三部作で完結したはずだが、どうもこれは七作目らしい。世の移り変わりはもう疑う余地はないだろう。

 

 俺は……時間に取り残された……。いや、置き去りにされたのを後から一気に引っ張って来られたのか……。どちらにせよ、これからどうしたら……。

 

 額を抑えて、目を泳がせると、なにかのアニメのソフトが目に入った。いかにも女児向けであの子が見ているものだろう。

 

 あの明梨って子……。ほんとに俺の……。

 

 自分の子供だというなら、あの少女は今とてつもなく不幸になりかけているのではと思い始めた。頭のおかしくなった父親とこれからどうやって折り合いをつけて生きていくというのだろう。それはあの由希、という女性も同じこと、彼女の心中はどうなっているのか、ついに考えてしまった。

 

 俺は……。

 

 ソファに横になって。目を閉じる。どこか遠くから救急車のサイレンが聞こえてきた。

 しばらくそのままでいると電話が鳴った。

「え……」

 子機、のようなものがなっている。当然、この家の電話だろうが妙に平べったい。

 

 どうしよ……。

 

 出るべきか迷う。周囲の認識はともかく、自分はこの家の人間ではない、と考えている。勝手に出ていいものか迷ったが、今、女性が出てくるとそれはそれでまずいような気がして受話器、のようなものを手に取った。

「はい……」

「あーら、早馬くん。こんばんはー、あなたが出るなんで珍しいわぁ」

 妙に甲高い声、微妙に煽ってくるような口調。

「あ、あの……」

 誰ですか、と言いかけて口をつぐんだ。ひょっとしたら、話しぶりからして自分を知っている人間、かもしれない。

「由希と話したいんだけど、今出かけてるの?」

 由希、一瞬誰かと思ったが、あの女性の事だと思い当たった。

「今、お風呂入ってます……」

「ああ、そっか。今週のハイキングについてだったんだけど。そんじゃ後から、メッセージ送っとくから」

「え、ええ……」さっさと会話を終わらせたい。

「え?」

「あ……そう、伝えときます……」

「……早馬、あんたなにか悪いもんでも食った?」

「べ、別になにも……」

「ふーん、まあいいけど。そんじゃまた」

 それだけ言うと切れてしまった。

 

 なんなんだろ今の人、あの人の友達かなんかか? でも俺のことも知っているみたいだったけど……。

 

 そうこう考えているうちにドアが開く音が聞こえた。キャッキャと騒ぐ女児の声、二人が出てきたのだろう。

 

 そろそろ……聞かないとな……。

 

 自分の事だけではない彼女のことも色々と聞きださねばならないだろう。

 女性が女児を連れて、リビングまで戻ってきた。修二も立ち上がる。

「お待たせ」

「あ、あの……う……」

 パジャマ姿の女性、大人の女性の艶やかさについ言葉を失う。女児はタオルに包まれていた。

「なに?」

「……飲むものって、あります?」

 別に喉など乾いていない。

「ああ、乳酸飲料……でいい?」

「え、ええ……」

 女性が冷蔵庫からなにか取り出す。

「……」

 子供向けのキャラクターがプリントされたプラスチック容器だった。やはりというか女児が一つ手に取り開封して、飲んでいる。今さら断るわけにもいかず一本頂いた。

「ちょっと早いけど、もう寝ましょうか? 修二さんも明日は……」

「ええ……」

 病院の事を思うと気が重くなる。

 

 行くしかないだろ……。


「えっと、あなたはこれを……」

 なにか手渡される。歯ブラシと歯磨き粉だった。

「すみません」

 受け取ると、洗面所に向かった。

 歯磨きをしながら茫然と明日からのことを考える。病院に行って、記憶が戻らないのも、戻るのも怖い気がした。

 

 五里霧中だ……。一体なんなんだこの状況は……。なにかの漫画で見たことがあるような、タイムスリップ、いやタイムリープというやつか……。なんでそんなことが……。だとしたら原因は……。いやそれがわかったところで……。

 

 時間が、周りの世界が十五年前に戻るわけではないのだ。

 

 俺は……ここで、この時代で生きていくしか……ない、のか……?

 

 鏡を見る。やはり昨日までの自分ではない。よく言えば精悍になった、悪く言えば老けたような顔。これ以上見ていられなくなり、リビングに戻ることにした。

 ドアを開けると、女性が女児がパジャマに着替えるのを見守っていた。

「できた!」

「はい、よくできました」

 微笑ましい光景なんだろうが、今の自分に笑いかけるような余裕はない。棒立ちでなんとなく見ていると、女児がまたジッと見てきた。

「……?」

 黙っているとそのまま小走りで部屋を出ていった。

「あ……寝床は向こうですので……」

「ええ……」

 女性の後に続く。

 

 ……あの子、ひょっとして誉めてもらいたかったのか……?

 

 幼児との接し方など自分にわかることではない。嘆息しながら女性の背を見る。 

 

 この人もなんの因果で俺なんかと……。

 

 そう思った矢先に奥の部屋の戸が開かれるのを見ると、

「え……?」

 三つに並べられた布団。真ん中のものが小さく、いわゆる川の字で配置されていた。

「修二……さんは、奥のを使ってください」

「あ……あの……」

「はい……?」

「お、俺もここで……寝るんですか?」

 女性がハッとした表情になる。ついいつもの感覚で、ということだろうか。

「あ、二階にもベッドがある部屋がありますが……」

 なにかいいよどんでいる女性。あのベッドのあった部屋の事だろう、今日の昼過ぎに修二はそこで目を覚ました。

 

 あ……。

 

 察してしまった。あそこは夫婦の寝室、というやつだろう。

 

 つまり、俺とこの人が……。

 

 一気に頬が紅潮していく。

「今から寝れるようにします……?」

「いえ! 大丈夫です! ここで寝ますから……!」

 そう言って布団を踏まないように奥に向かった。あの部屋で寝たら、気が変になってしまう気がした。

 女児、明梨が布団に入り込むのを座りながら見る。女児が寝っ転がりながら視線をこちらに向けてくると、顔をそらした。どうもこの子の視線は眩しい。

「それじゃあお休みなさい……」

 女性が部屋の照明を落とした。

 仰向けになりながら、ためいきをついて知らない天井を見上げる。

 

 俺……なんでこんなところで寝てるんだ……?

 

 考えれば、考えるほど自分にとってこの状況はあまりにも異常すぎる。本当だったら、今日は図書館で閉館まで勉強する予定だったはずなのだ。それがいまや十五年後の世界で、知らない母子と同じ部屋で寝ている。

 

 悪夢だ……。

 

 由希、という人には悪いが、そう思わざるを得ない。

 ちらりと左横にいる母子に目をやる。

 由紀、が、明梨、に小声でなにか歌を歌っていた。

 

 子守歌ってやつか……。昔、保育園でそんなものを聞かされたな……。

 

 両親は共働きだったので一日中、預かり保育だった過去を思い出す。その時に保育士の先生が歌っていた歌だった。

 

 俺にも……あんな頃があったんだ……。

 

 眠り込んだ女児の額に女性がそっと口づけをしたのを見ると修二のまぶたも閉じていった。

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