知らない人 (3)

 時刻は十八時を回ろうとしていた。様変わりしたダイニング横の居間で呆然と座り込み、宙に視線を泳がせる。あの後、両親が持ってきた様々な資料で、ここが十五年後、自分が最後に寝た日から十五年経った世界であることは間違いないと確信、したわけではないが、もう疑いようがないとも感じている。

 

 夢……なんかじゃない、確かに俺は今ここにいる……。

 

 両親と、あの自分の嫁という人は奥の和室でなにやら話し合っている。

 

 俺、どうなってしまうんだ……?

 

 ひょっとしたらどこかの、今度こそ本物の病院に入れられてしまうのかもしれない。

 

 そもそもどうすれば……。

 

 暗澹たる気分になる。十五年分の欠落、そう考えても実感がわかない。未だに全てを信じていいのかわからない部分もある。だからと言って、自分の記憶上の、昨日のようにバッグを背負って学校に行く、というわけには当然いかないだろう。

「そういえば……」

 自分はちゃんと西浜中を卒業できたのだろうか気になり始めた。なにか卒業証書のようなものをもらったはずだと考え、立ち上がり、自分の部屋に行こうと、ドアを開くと、

「うわ!」

 危うく、足があたりそうになったものは、

「……」

 明梨、そう呼ばれていた女児。自分の娘と言われた女児。

 

 俺の……むすめ……。

 

 やはり、信じることが難しくなってくる。子どもの自分になんで子供がいるのかわけがわからない。女児を見る。丸い瞳の奥が水彩のようなみずみずしい輝きを帯びている。思い切って、話してみることにした。

「あ、あの、君……」

「……」

 口を開く気配はない。言葉を解しない年ではないように見えるので、単純に自分を警戒しているだけなのかもしれない。

「君……名前……は?」

 返事は期待しなかった。

 真顔に半開きの口のまま立ち尽くす女児。感情の読めない表情になにか気味の悪いものを感じた。

 

 子どもって……。

 

 息を吐くと、

「あかり……」

 小さな声が聞こえた。一瞬驚いて、目線を向けると、怯えたように目をそらされてしまった。

 ドアが開く。三人が戻ってきた。

「修二、その言いづらいんだが……」

「……」

 言わんとしていることはなんとなくわかる。

「明日、病院にいってくれないか」

 頭と心の、だろう。

 顔をしかめて、テーブルを見る。知らないテーブル。部屋全体の家具が知らないものになっている。

「……行けるかい?」

 母も重苦しい表情を向ける。やむを得ず、頷いた。顔を上げて三人を見るも、後ろにいる女性、由希の不安気な表情が視界に入る。自分の嫁と言われた女性。当然実感など全くない。ずっと年上の大人に見える女性がなぜ中学生の自分と結婚しているのか、意味がわからないといったところである。本当にそうだとすれば、自分はいたくこの女性を傷つけていることになるが、彼女の心情を慮る余裕など今の修二にはない。


「それで、今日は送ってくから」と久史。

「え……?」

「あ……ああ、お前にとっちゃここが家か……。でも、見ての通りお前の部屋は物置にしちまっててな……」

「……べつに」

「え?」

「べつに寝れないわけじゃ……」

 そんなことが理由ではないだろう。そこの由希という女性に二人が気をつかっている程度のことは今の修二にもわかる。もう修二はここにいるべき人間ではないのだ。

「うん、でもなぁ……」

 歯切れの悪い父。しかしここにいても仕方がない気はしていた。気は進まないが、あの家に行くしかないだろう。

 

 なにか思い出せる……かもしれない。しかし、思い出したところで……。

 

 自分に劇的な変化が現れるような事象はどうしても想像できない。

「とりあえず、あの家に……行ってみるよ……」

 安堵の吐息を漏らす両親。不服はあったが、どうしようもない。女性の方は、目を閉じていた。安心した、のだろうか。

「明日、また来る……。探しているものがあるし……」

「ああ、こっちもアルバムとか整理しておくよ」母が立ち上がった。

「後、お医者の方も……」

「さっき由紀さんと話したんだが、俺が迎えに行くからその時に……」

「ああ……」

 嘆息して、顔を伏せた。

 外に出ると、父がワゴン車を出してきた。


 こんなもの、いつの間に……。

 

 当然修二は見たことがない。自分の家に車などなかったはず。

「見るのは……初めてか」

「うん……」

「まあ乗ってみろ」

「あ、えっと……」

 後ろの女性と女児に目をやった。

「修二さんは助手席に」

「……はい」

 先に乗り込むと、女性が後ろの席になにかを取り付け始めた。

「それ……」

「チャイルドシートです。この車、私たちも使わせてもらったことがありますから、ここにも置いてあった方がいいだろうということで」

「はぁ……?」

 なんのことかわからなかった。

 父が車を発車させた。

 日は既に没しており、街は夜の姿を見せ始める。生まれた時からずっと住んできただけあり、勝手知ったる街だが今はなにかが違う。近所の平原のように草地が広がっていただけの空き地はほとんどがビルに埋め尽くされていた。

 学校の方はどうなっているのか確認したくなった。

「父さん……」

「あん、どうした?」

「ちょっと……西浜中に寄ってくれない」

「今日はもう……」

「道路から見るだけでいいから」

「わかった」

 

 近づくにつれ緊張が高まっていく。たった一五年でなくなっているとは思えないが、それでもつい昨日まで自分はあそこにいたはずなのだ。

 着いた先に見えたのは、

「これは……」

 特に代わり映えしない、通い馴染んだ中学校の校舎であった。ざっと見たところ驚くほどなにも変わっていない。ただ一部の壁が塗り替わっているようであった。

「ああ、ここが修二が出た中学校ですよ」

 いきなり父が言葉を発したのでギョッとした。

「はい、何度も聞いています。来たことはありませんでしたが……」

 修二ではなく、女性に向かって話していた。

「なにか思い出せます?」女性がこちらに向き直った。

「え……? あ、いや、その、俺は……つい昨日までここに通学、していたはずで……」

「中学の時の記憶はあるんだな?」

「そう、だと思う……」

 振り返ると女児が窓に向けて手を伸ばしていた。

「ふん……、なんでだろうな?」

「わかんない……」

 考えれば考えるほど空恐ろしくなってきた。今の自分すら信じられなくなるような感覚さえする。

「詳しく調べるのは明日からでも……」

「そうですね、いいな修二?」

「あ、ああ……」

 再び動き始めた車のミラーに映る学校は既に人気がないようだった。


「それじゃあ、明日、迎えに来るから。時間は後で伝える」

「うん……」

 今日、目を覚ました東区のあの家に戻ってきてしまった。

「会社の方は……」

「それは私がやっておきます」

「すみません、由希さん。じゃあ、いいな修二」

 無言でうなずく。

「ありがとうございました。お義父さん」


 おとうさん……そうか、俺の奥さんだって言うなら……親父はこの人の義理の父親か……。


 走り去っていく車を呆けたように見送った。振り返る。

 女性と女児がこちらを真顔で見ていた。ただでさえ頭が混乱しきりなのに、知らない二人が住まう家にこれから泊るとなると、不安で押しつぶされそうになる。この女性を信頼してのことと思っても、こんな自分を放置する両親に多少恨めしいものを感じた。

「あ、あの……」

 女性がにこやかに修二の手をつかんだ。

「あ……」

 ひんやりした感触、

「さあ、中に入って。ご飯にしましょう」

「え、ええ……」

 そういえば目が覚めてからなにも食べていない。こんな精神状態でも空腹は感じるようではある。

 女性が女児の手を引いて家の中に入っていく。

「あ、あの……」

「はい」

「えっと、由希さん……でしたか」

「……はい」

「この家は一体……?」

 まさか自分が買ったか、建てたものではないだろう。敷地がかなり広い。この街でこれだけの家と土地を得るには相当の貯蓄がいるだろうことは、中学生の知識でもなんとなくわかることである。

「私の……私の父の家です。父は今ここには住んでいなくて、それで帰ってくるまで私たちが使えばいいと……」

「そうなんですか……」

 それなりに年季が入った壁を見るに、彼女が子供のころから住んでいた家なのだろう。そこに、


 結婚した俺が、転がり込んだ……?


 なにかかっこ悪い気がしたが、今はそんなことに気にしている場合ではない。視線を落とすと女児が怪訝な瞳をこちらに向けていた。

「その子……」

「はい……」

 女性が急にしおれた声音になった。

「えっと……」

 あなたの子なんですよね、と聞くのは、ひどいことだと思い口をつぐんだ。まして父親が自分であるかどうかを問うなど……。

「その子、女の子ですよね……?」

 見ればわかることを聞いてしまった。スカートをはいているんだから普通に女の子だろう。

「はい、四歳の女の子、明梨です」

「ごはん」

 女児が口を開いて思わず目を見開く。

「あ、ごめんね。今すぐ用意するから」

 女性、由希がそういうとちらりとこちらを見た。修二もうなずく。これ以上の話は後回しにした方がよさそうだった。

 女性がドア開くと、

「ただいまー」

 明梨が元気に叫んだ。

「はい、お帰りなさい」

 由紀が明梨の頭をやさしくなでる。明梨は靴を丁寧にそろえるとスタスタと奥にいってしまった。しつけが行き届いているのに感心するが、それもなにかおかしい気がした。他人ではないはず。しかし、修二はこの二人を、意識上は今日、知ったのだ。


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