知らない人 (2)
謎の家から脱出した修二は、とにかく駆けた。あの女性が追撃してくるとは思えなかったが、言いようのない不安と恐怖のようなものが自分の体を走らせる。
ど、どこに行けば……! そうだ、まずは駅に……!
ちょうど案内板が目に見えたので、ざっと見てみる。自宅までの鉄道駅が少し先にあるのがわかり、そこを目指して猛ダッシュをかける。空は青々としており雲はまばらだが、やたら寒い気がした。昨日、といっていいのかしらないが、先日の個人面談の日はまだ五月中旬、これから暑くなるという時期なのに季節外れの寒波でも来たのだろうか。
駅に着くと自宅までの運賃を確認。小銭を入れて、切符を手にした。
切符入れがなにかおかしい。入れる場所がない。構内に入りあぐねていると、後ろから来た男性がなにをかざすと改札が開いた。見たことのないシステムだった。駅員がいるのが見えそちらに駆け寄る。
「どうしました?」
「あの、切符……」
「ああ、そこの手前の改札機をお使いください」
そう言われた改札機を見る切符を入れることができるようでそこを使い、入っていく。
落ち着かない気持ちのまま、ホームで地団駄を踏みながら考えを整理しようとするもまったくまとまらない。まもなく、電車がやってきたので乗車することにした。
車内は空いていたが席に座る気になれず、手すりを握りながら、自分に起きたなにがしかの事情というものを考える。今しがたいた家は少なくとも監禁や治療目的のものとは思えない。やはり、家族が仕組んだいたずらか。
あるいは……。
あの女性がおかしいのでは、と思い始めた。寝ぼけた赤の他人が自宅に勝手に入ってきて、ベッドで寝ていたが、気にもしないで、からかうことにした。
ありえない……! そんなのは……!
そもそも、寝ぼけて一区またいだところまで移動できるわけがない。誰かが自分を運んだのだ。そうとしか今の状況は説明できない。ともかく両親に問いただす必要がある。
なかなか最寄り駅に着いてくれない電車にイラつく。自分の格好も気になってきた。こんなラフな姿でサンダルを履いていたのでは不審に思われかねない。運動帰りかなにかだと思われているのか特に周囲に気にする様子はなかったが、焦燥で地団駄を踏んでしまう。ようやく目的の駅に着いた。
飛び出すように降車して、改札を出る。その先に見えたのは、
「あれ……?」
先日、工事が始まったばかりのエスカレーターがもう完成していた。再び、恐怖感が背筋に走る。自分はどれくらいの間意識を失っていたのであろうか。使う気にはなれず、急いで階段を降りると自宅まで駆け出した。
ようやく自宅前まで来ると、庭がおかしいことに気づいた。見たことのない木が植えられて、葉をつけている。
「いつのまにこんな……」
ドアノブを回すが、鍵がかかっていた。
「いないのか……」
普段は大抵祖母がいる。祈る気持ちでドアフォンを鳴らした。
「はいはい」
中年女性の声、母だろう。
「お、俺!」
「はぁ?」
「俺だよ! 俺!」
「あー、はいはいオレオレね。間に合ってますよ」
なにが間に合っているのだろうか。
「開けて! いいからはやく!」
「しつこいわねぇ、いい、うちは貧乏なの。盗れるものなんかなんもないからさっさと消えて」
どうも会話がかみ合わない。誰かと勘違いされているのだろうか。
「俺だ! 修二だ!」
「……修二ぃ?」
「そう! さっさと開けて!」
ドアフォンが切れる。ようやく、ドアが開いた。そこにいたのは、
「……あんた、どうしたの?」
母だった。なにか呆然とした表情でこちらを見ている。
「ど、どうしたじゃないよ⁉ なんであんなとこに……!」
ろれつがうまく回らない。
「あんた一人? アカリちゃんは?」
「……? と、とにかく、着替えを……」
家に上がり込み、自分の部屋に直行、戸口に指をかけて開いた先には、
「なっ……⁉」
部屋は完全に物置と化していた。見慣れない本棚や衣装ケースがところせましと置かれている。
「な、なんだよこれ⁉」
「なんだよって……部屋でしょ」
いたって普通な母の声音。
「へ、部屋って……!」
「なに、なんか探しに来たの?」
「なんでこんなもん置いてんだよ⁉」
怒声を飛ばす。数日、かはわからないが、それでも自分がいない間の部屋の様変わりに憤激する。
「誰も使ってないんだし……物置よ。……なに言ってんだい」
「お、俺が使ってるだろうが⁉」
やはり自分はなにかの病気で意識を失ったままになりあの家に置かれていたのだ、そう考える他なくなった。それにしても、そんな自分を放置して、自分の部屋を物置にする母の無情が信じられない。
「あん? ここに住んでもいない人のことなんか、知りませんよあんた」
「あ……」
絶句した。ひょっとして自分は勘当されたのだろうか。なにかやらかしたのではと思いあぐねたが、それならそもそも家に入れなかっただろう。
ぼ、ボケちゃったのか……?
今度は母がおかしくなっているのではと考え始めた。
「さっきからなに言ってんだい?」
「こ、ここ……俺の、部屋……」
「ああ……昔はそうだったか」
昔……、どれだけ自分は昏倒していたのだろうか。恐怖で顔が硬直する。部屋に踏み入り、押し入れを開ける。衣装ケースが重ねおかれていた。こんなものは先日までなかったはず。
自分が入れたボックスや収納袋は一つもなかった。
「い、今、何日……?」
ようやく日付を確認するということを考え付いた。
「何日って……」
母がなにか取り出す。携帯電話、というやつだろうか。いつの間にそんなものを手に入れたのか。
「十月十一日だけど」
絶句して、立ち尽くす。半年近く気を失っていたということになる、と思った。
「……う、あ……」
その間の遅れをどう取り戻せばいいのか、絶望的な気分になった。受験までの時間の半分が消失したという事実に愕然として、膝を床に落とす。
「修二?」
「い、今から……どうしよう?」
「どうしようって……?」
「レベル落とすしかないよな……」
誠心館などとても受験できる偏差値じゃないだろう。
「なにそれ?」
「だから、受験……」
「ああ、あかりちゃん受験するの? どこかの国立か私立に」
「え……?」
あかりちゃん、さっきから何度か聞いた名前。いったい誰のことを言っているのだろう。
「ああ……! 昔の学校資料でも探しにきたのかい。でも、ここのはさすがに古いんじゃないの? 新しいやつ買った方が」
「い、いや……」
「まあ公立じゃ不安ってのもわかるけど、私立はお金かかって大変よね。うちからも支援するからそっちの方は」
「母さん!」
思わず怒鳴ってしまった。母が仰天してのけぞる。
「俺がちょっといなくなったからって、部屋を物置に変えるだなんてあんまりだろ! だいたいなんであんなところに放置したの⁉」
「ほうち……?」
「それにあの女の人はなに⁉ いったい誰⁉ 医者かなんか⁉」
怒涛の勢いで言葉を浴びせた。美和子が目を見開いて修二を見る。ぬえ、でも見ているような視線になった。
「……あんたなに言ってんだい?」
「だから……!」
「……ちょっと待ってな、お父さん呼ぶから」
再び携帯電話を取りどこかに電話し始めた。修二は呆然と壁に背を寄り掛からせ、天井を仰いだ。窓の外からカラスの鳴き声が聞こえた。
しばらくそのままリビングで待とうとしたが、
「……?」
ここもなにかおかしい。見たことのないテーブルがあった。奥の居間には妙に薄いモニターが置いてある。最新のテレビ、なのだろうか。
俺……半年も眠っていたんだ……。
家具や家電を買い替えるほどの時間を眠っていたという事実に戦慄を感じる。改めて日付を確認したかったが近くにカレンダーや新聞紙はない。このまま父の帰りを待つしかなさそうだった。なにか飲もうと冷蔵庫を見るがこれも使い馴染んだそれではない。自分が前の冷蔵庫に入れておいたドリンクも一つも入っていなかった。半年もたっていれば当たり前だろうと、肩を落とした。
玄関のあたりが騒がしい。父が帰ってきたのだろうか。廊下まで行くとなにか声が聞こえた。
「喧嘩でもしたの?」
「それがよくわからなくて……」
誰かが母と話している。若い女性の声であるように聞こえた。行ってみると、
「あ……」
あの女性がいた。目が合うと、キョトンとした表情でこちらを見はじめた。
「う……」
思わず後ずさる。自分を捕えるためにここまで来たのだろうかと思った。視線を落とすと、
「……え?」
あの女児もいた。女性の足をつかみながら、その後ろに隠れている。こちらの様子を窺っているような感じがした。
「ほら、由希ちゃん迎えに来てくれたよ」
「え……?」
迎え……。
「ふ、ふざけんな! また俺を入院……、にでもする気か⁉」
「はぁ?」
首をひねる美和子。後ろの女性も呆然としている。
「なにやってるんだ?」
背後から男性の声、父が帰ってきたようだ。
「あんた、さっきから修二が変なんだよ」
「修二? なんでここにいんだ?」
父の様子までおかしい。自分が半年近く眠っていたというのに、今日、目を覚まして帰ってきたというのに、驚いているようすは微塵もない。ここまで薄情な親だったのかと天を仰ぐと、
「修二さん、私なにか……」
女性がなにか話し始めた。恐る恐る視線を向ける。
「至らないところでも……ありました……?」
「至らないって……なんで、あんなところに置きっぱなしに……したんです……?」
「え……?」
「だから、その……俺をどうしてあそこに……」
目の前の三人が顔を見合わせる。
「修二、さっきからなにをふざけてる? 由希さんに失礼だろう」
ゆき、この女性の名前だろうか。しかし修二はこの女性のことをしらない。あまりの話の通じなさに、
「だからその人は誰⁉」
ついに爆発してしまった。
目を丸くする両親。ゆき、という女性を見る。
「……?」
完全に硬直しており、心底、ショックを受けているように見えた。
この場の空気が凍りつく。誰もが信じられない、という顔をしている。
「な、なんなんだよ……。おかしな冗談……もうやめてよ……」
わずかにか細い声を振り絞って出すが、眼前の三人に特にネタばらしを始める気配はない。口を半開きにしたまま地蔵のように立ち尽くす四人、しばらくしてようやく久史が口を開いた。
「おい、ちょっと来い……」
そのままリビングまで連行された。
隣の居間で話す三人をテーブルに座りながらぼんやり横目で見る。思考は依然としてまとまらずなにかふわふわした夢でも見ているような心地がした。あの三人にふざけている様子はない。戯れにこんなドッキリをセッティングしたわけではないのだろう。だとすると……
俺が……おかしい……のか……。
一体どれくらいの間あそこにいたのだろうか。半年どころではないような気がしてきた。もう一度、日付を確認しようと辺りを見回す。久史が置いた新聞が目に入ったので、取ろうと手を伸ばしたところ、
「わっ……」
向かいの席に女児が乗っかった。
「あ、危ない、だろ……」
「……」黙って見つめてくる。
なんなんだこの子は……?
知っている顔ではない。そもそも児童の知り合いなどいない。射すくめられたように動けなくなる。丸い瞳が修二のそれに映りこむ。
子どもの目ってのはなに考えてるのかわからなくて、なんか怖いな……。
「ああ、ごめんごめん……」
由希という女性が駆け寄ってきた。
「危ないでしょ」
女児を抱きかかえながらもちらりとこちらを見る。
なにか探られているような気配があり、そっと視線をそらした。
母さんたちはこの人を知っている……。
ひょっとしたら縁戚なのだろうか。
だが俺は……見たことすらないが……。
考えてても仕方がないので、新聞の日付を確認した。
「……なっ⁉」
叫びつつも、顔を近づけて改めて凝視した。
「あ……あ……」
呆然とする。日付は……世紀をまたいで二十一世紀となっていた。
「そんな……! そんなバカなことって!」
手が震えてくる。こんがらがりそうな頭で計算を終えた。十五年、経過している、可能性があるとわかった。
手を震わせながら何度もすべてのページの日付を確認しても変わらない。久史を見る。向こうも驚いたようにこちらを見ていた。父が仕込んでおいたいたずら、にしては手が込み過ぎている。ニュース欄も見てみる。全く聞いたことのない人間が総理大臣をやっていた。食い入るように他の記事も読むが、想像で作ったにしてはあまりにもリアリティがある。
お、俺……は……。
「修二」
両親が席に着いた。女性もそれに続く。
「あ……う……」
言葉が出ない。幻覚でも見ているような虚脱感。父が口を開いた。
「修二……最近、なにか……頭でも打つようなことをしたか?」
頭、ヘディングを連想したが、もうしばらくそんなことはやっていない。首を振った。
「それじゃあ……おかしなものを食べたりしたことは?」
おかしなものって……。
刺激性のガムを一気に数個かんで口の中がおかしくなったことはあるがそれは無関係だろう。やはり首を振る。
「……その、おかしなことを聞くようだが……」
顔を上げた。
「自分の名前を言えるか?」
「……早馬、修二……」
「それじゃあ、俺が誰かわかるか」
「親父……」
「こっちの人は?」母を示した。
「……母さん」
「……では、こちらの方は」
今度は、あの女性を示す。子どもを前に抱いて、じっとこちらを見ている。
なにか、ためらうような感覚があったが、首を横に振った。
美和子が大きく息を吐くと唖然とした目で息子を見る。
女性の方は……しっかりした顔つきであった。
「だ、誰なの……親戚の人……?」
「そりゃ、親戚……っちゃあそうだろうけど……」
母が立ち上がった。
「由希ちゃんは、あんたのお嫁さんでしょうが⁉」
「……え……?」
そのまま、動けなくなる。瞬きすらできない。風が窓を揺らした音で、我に返った。ロボットのような固い動きで首を動かし、女性の方を見る。
目があう。特に驚いているようにも怒っているようにも見えない。真剣なまなざしでこちら見つめている。
「……よめ……なにそれ……?」
「だから奥さんのこと!」
「そうじゃなくて……」
概念を知らないわけがない。
目が点になる。なぜこの人が、そもそもなぜ中学生の自分に嫁がいるのだろう、と考える。父母に目をやる。注視すると昨日までとはなにかが違う。シワと白髪が増えているように見える。加齢、したのだろう。
「お……れ……」
改めて、今日、目が覚めてからのすべてをまとめることにした。知らない家での目覚め、様変わりしていた駅、冗談を書いているようには思えない新聞の日付。
記憶喪失、という結論にようやく到達した。
「そんな……そんな、こと……は.……」
あり得ない、そう思いたくて仕方がない。つい昨日まで確かに自分は中学三年生であったはずなのだ。
三人は緊張した面持ちでこちらの様子を窺っている。
「……鏡……ある……?」
美和子が無言で立ち上がり、タンスから手鏡を取り出して、修二に手渡した。
そこに写し出された自分の姿は……あきらかに成人男性のそれとしか思えなかった。汗が顔じゅうを伝う。この現実を信じることができない。性質の悪い童話の世界に迷い込んだような気さえする。
「ねえ」
声を聞くと顔を上げた。嫁、という女性の腕に抱かれた女児がこちらをまっすぐ見ている。
「……この子」
両親の方に視線を移した。二人とも困惑が口を開くのを阻んでいるように見える。
「……この子、誰……?」
「……冗談だろ」
久史が呆然とした面持ちで息子を見る。
「え……?」
「だから……由希ちゃんの子で……」
美和子はなにか言いよどんでいる。
「あ……」
視線を感じ、その方向に顔を向けた。毅然としていた女性の瞳に初めて憂いが滲んだように見えた。
なんで……そんな、悲しそうな顔を……。
大きな音がした。母がテーブルに手をついて、怒気をはらんだ声で叫んだ。
「だから……! 娘よ! あんたと由希ちゃんの!」
今言われたことが理解できない。むすめというのはどういう意味だろうか。
「あ……」
いちいち考えるようなことではない気がした。
「……なんで……」
なぜ、自分に娘がいるのか、そもそもいつ自分は嫁などもらったのだろうか。
女児を見る。怯えている様子はないが、なにか不思議な顔をしている。今、大人たちがやっていることが理解できないでいるのだろうか。
俺だって……わからない……。
夢か現か、ひどく曖昧な境界に我が身と心を置いているような感覚、足がつかず浮遊しながら空を漂っているような心地。
改めて全員を見渡す。そこで、ようやく一人大事な人間を欠いていることに気づいた。
「あ、あの、おばあちゃんは?」
「……」
両親が固まった。
「……え?」
しばらくすると同時に顔を見合わせた。目は二人とも点になっている。
「あ、あの……」
父が黙ったまま立ち上がり、こちらを一瞥すると歩き出した。ついてこい、ということだろうか。修二も椅子から離れて後を追う。
着いた先は普段は使わない奥の和室だった。示された先になにかが置かれている。
「これ……?」
仏壇、であった。そこに置いてある写真、
「……」
祖母の写真であった。それが意味するものは、もう一つしかない。振り返った。母が、不可解極まるという顔で口を開いた。
「おばあちゃんなら、お前が大学に入った年の暮れに、心臓の発作で……」
「もう十年以上前のことだぞ……!」
父も、いよいよただ事ではないという顔をしている。
「あんた、ほんとにどうしちまったんだい⁉」
徐々に呼吸が乱れてきた。一連の現象がなんであるのかは依然としてわからないが、少なくとも、今、自分の両親が嘘を言っているようにはとても思えない。
「あ……あ……」
脱力したように膝を床に落とした。昨日、邪険にするかのような態度で追い払ってしまった祖母、その最後の顔すら自分は見ていないのである。
「く……ああぁ……」
床に額をつけて泣き崩れるしかなくなった。
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