第二章 知らない人
知らない人 (1)
霧の中を歩いていた。近所の住宅街に似ているがなにか違和感を感じる。人の気配がしない。水の流れる音を聞いて坂を上る。その先に会ったのは、海に架かる高架橋であった。なぜ坂の上に海があるのか、よくわからなかった。
足が自然と前に向かって進んでしまう。橋を渡る。人と思しき影とすれ違うが、影しか見えない。話し声が、特急電車のように聞こえては一気に遠ざかっていく。
いつのまにか橋を渡り終えていた。今度は祭囃子のような鼓の音が聞こえてきた。断続的な音がする方に山がある。その先の山道の階段に向かって歩いてみることにした。ごく普通に歩いているつもりだが急激な速さでなにかを追い抜いていく、それも次々と。
頂上が見えてきた。なにか光輝いている。それを見たくて近づき、手を伸ばした。体がとけていき、光に包まれていく。輝きを発するもの、それを見ようと……目を、開いた。
「う……」
異様な気だるさを感じる。おかしな夢を見た。体を起こして、軽く伸びをした。頭はまだもうろうとしており、どうも意識がはっきりしない。
窓から日が差し込み、目元を照らす。眩しさから細目になってカーテンを閉めようと身を起こした。
「……?」
なにかおかしい気がした。カーテンの色かと思ったが違う。窓そのものがおかしい。こんな窓は自分の部屋にない。
「……え?」
机の上に置きっぱなしにした置時計を見ようとするも、机がない。
「あ……」
首を回した先に見知らぬ本棚が見えた。
さらに辺りを見回す。
「……⁉ あ……! え……⁉」
ここが、自分の部屋ではないことにようやく気付いた。
立ち尽くして、改めて周囲を見る。薄暗く、広々した部屋。たった今自分が身を臥せていたベッドは妙に大きい。当然自分の部屋のものではない。
どこ……? どこだよここ……?
壁時計に目がいった。十四時十五分。どれだけ寝ていたのか、いや眠らされていたのか。
焦燥が波のように体を覆っていく。今の状況に対する理解が追いつかず、頭は混乱の極みだった。
恐る恐る窓の外を見る。ごく平凡な住宅が見えた。小鳥がさえずりなんとも牧歌的な雰囲気な場所であるようだ。
まさか……。俺……さらわれ、た……?
寝ている間に何者かに拉致されこの部屋に閉じ込められた可能性を疑った。
自分の衣類を確認、ハーフパンツに半袖の白シャツ。昨日の部屋着はただのパジャマだったはず。
服の上から、自分の体に手をあてるが特に拘束されているような箇所はない。顔を上げると、ドアが目に入った。
震えすら帯びてきた足を前に出してドアノブを握る。閉じられているだろう、と思ったが、
「あっ……」
あっさり回った。ドアが開かれていく。
わずかに顔だけ出して廊下とおぼしき空間を確認した。
「ここは……?」
やや奥行きのある住宅、としか思えない。暖色系の壁、床は木製のようで人を閉じ込めるような建造物には到底思えない。先の方には階段が見えた。
冷や汗をかきながら、壁に背をつけつつ進んでいく。
階段から下を見る。誰かが見張っているのでは、と思ったがそういう気配はない。
「……なんだ」
なにか歌声が聞こえる。女性の声。
本格的に怖くなってきた。ひょっとして自分は死んだのだろうか、ここはあの世か。そんなことすら考えそうになった。
汗をぬぐい階段を降りる決意を固めた。一つ一つ慎重に降りていく。歌声が近づいてきた。
「これは……」
昔、聴いたことがある。なにかの童謡、だった気がした。誘拐犯がなぜ童謡を歌っているのだろうか。意味がわからなくなる。
階段の下まで来ると、日光と思しき光が差す方向から歌が聞こえてきている、とわかった。なにか武器になるものはないか、と周りを見回すも期待に沿えるようなものはない。覚悟を決めて自分をここまで運んできた誰かと対峙する道を選んだ。
一歩一歩音を立てずに進み、ようやく曲がり角までやって来た。そして、
「……ッ!」
敢然たる表情を形成して、声の主を見た。そこにいたのは……、
「あら、起こしちゃった?」
一人の、女性だった。
外に開かれた戸口の前で正座をしながらこちらに顔を向けた。
「あ……」言葉が出ない。なにか肩透かしをくらったようが気がする。
「フフ、どうしたの?」
柔和な微笑。
この人が……俺を、さらった……?
とてもそうは思えないが自分を油断させるための罠の可能性もある。改めて女性を見る。年は二十代だろうか、背は低め。髪はショート。楚々、とでもいうのだろうか。どこか奥ゆかしさを感じる女性だった。
「ふー」
動物のような声がした。この女性のものではない。慌てて身構える。
「んーちょっと待ってね」
その時、初めて女性がなにかを抱えていたことに気づいた。それを床に降ろす。それは、
「え……?」
子ども、だった。小さな幼児、の女の子。女性の膝から降りると、キョトンとした目でこちらを見てくる。修二も呆然と見つめ返してしまった。
なんでこんな小さな子が……。
とても見張りには見えない。というより幼児に拉致した中学生を見張らせるわけがない。考えあぐねていると、
「うわ!」
なにかが目の前に迫り、思わずのけぞった。
「なにやってるの?」
女性がクスクス笑う。手にはタオルを持っていた。それで、
「すごい汗……大丈夫?」
自分の顔を拭いてくれた。
この人は一体……?
なにものなんだろうか。少なくとも害意は感じない。だが見たことのない人である。かなり迷ったが、
「あ、あの……!」
話をしてみることにした。まさか子連れの女性に組み伏せられるようなことはあるまい。そう思いたかった。
女性が吹きだす。
「はい、なんでしょう?」
どこか芝居がかった笑顔。
なにか、からかわれているような気がしてきた。ひょっとしてこれはドッキリなんじゃないだろうか。両親と祖母がなにか大掛かりないたすらでも仕掛けているのではと考え始めた。
「あの……あなたは……どなた……でしょう?」
「……ハァ……」
女性が、鳩が豆鉄砲くらったような顔になる。すると、
「この子の母ですが」
なにかキめたように目を閉じながら胸を張ってそう言った。
どうもこの二人は親子らしい。しかし、額面通りに受け取っていいものか、まだわからない。子どもを使って自分を困惑させる作戦かもしれない。次の質問を思案する。
「それで……ここは……?」
「はい?」
「だ、だから、ここは……どこ……ですか?」
「もう、なんの遊び?」なにか苦笑している。
「い、いや、遊んでるわけでは……ないんですが」
「ここはあなたの家ですよー」
女性はニッコリしつつもすまし顔でそう言った。ほんとにバカにされているような気すらしてきた。
改めて部屋の様子をうかがう、すぐ近くにソファがあり奥の部屋にはテーブル、さらにキッチンが見える。LDKのようで、とても牢屋の類には見えない。他に人がいないか目を走らせると、
「うん……?」
女児と目があった。ジッとこちらを見つめてくる。修二も女児に視線を移してみた。まだ未就学児だろう。髪形はボブ、まともに会話できるかどうかもわからない年に見えた。
この子は……?
ひょっとしてここはなにかの介護施設なのだろうか。なにかの精神病を発した自分を両親が、ここに入所させたのではないだろうかと、口に手を当て考えた。
この人は職員でこの子は、その子供で……。
「あかり、お菓子にしよっか」
女性が女児に向けてそう話した。この子の名前、だろうか。
「あ、あの……!」
「あーはいはい、あなたもお菓子ですか」
「地図ありませんか! このあたりの!」
大声が出てしまった。
女児がびっくりして女性の後ろに退避する。
「もう、驚かさないで」
「地図を……」
「地図? それなら……」
女性が壁にかかっていたプリントのような紙を取る。
「はい」と差し出してくる。
警戒しつつそれをそっと受け取った。
東区災害時緊急避難経路、とある。
ひ、東区……⁉
修二が住んでいる西浜区を一区またいだ先にある区である。
それほど自宅から遠くないところであることに安堵しつつも、なぜ自分がここまで運ばれたのか改めて疑問が沸々と浮かび上がってきた。
「なにか探してるの?」
女性が横からプリントを覗き込んできてギョッとする。
「う……あ……」口ごもる。どうも悪い人、ではないようだが、いかんせん正体がわからない。
と、とりあえず、家に戻って……。
経路を確認する。近くの私鉄を使えば自宅の最寄り駅まで一本で行けるようだ。だが、今はハーフパンツにシャツ一枚、財布を持っていない。思わず、
「……なに?」
女性をまっすぐ見た。果たしてこの、誘拐犯、かもしれない女性に支援を頼んでいいものか。
「あ、あの、お金……貸してもらえません……!」
思い切った。女性が呆けたような顔でこちらを見る。
「えっと、五百、いや四百円でいいんで……! 後で必ず返します!」
自分をさらったかもしれない相手にお金をせびる自分は、なんと滑稽なんだろうか。
「……なにかお買い物?」
何を言っているのだろうか。
「そ、そうじゃなくて……! その、行きたい場所が……」
「行きたい場所って……?」
口を半開きにして怪訝な表情でこちらを見つめる。
「無理……ですか……?」
「……ちょっと待ってね」
女性がラックからなにかとりだす。
「数百円でいいんだよね?」
それを手渡してきた。小銭入れのようだった。
おぼつかない手つきで四百円だけ拝借した。
「あ、ありがとうございます……! 必ず返しますんで!」
「はぁ……どういたしまして」
身を翻して、廊下に出る。玄関を探して、辺りを捜索。あっさり見つかった。やはり拘束されている、というわけではないと確信。それでも焦燥は拭えず、一刻も早く自宅に戻り、状況を確かめる必要がある。
自分のシューズは見当たらない。どれか借りていくしかないだろう。サンダルが目に入った。この施設のようなところの備品だろうか。
「あ、あの!」
振り向いて叫んだところ、ちょうど女性がやって来た。
「ねえ、さっきからなにやってるの?」
「サンダルお借りします!」
もうこれ以上この人と話してもらちが明かないだろう。それだけ言うと、サンダルを足にはめて外に飛び出した。
ショートヘアの女性は、突然の事態にわけがわからない思いだった。
「修二さん……?」
その独白は飛び出していった彼に聞こえるわけもなかった。
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