#5

 夜遅くまで探したが、それでもクレヨンの箱は見つからなかった。朝から落ち込む私に、今日はおばあちゃんに会う日だからと、気分転換も兼ねて施設に連れて来られた。

 緩やかな山に施設はある。できたばかりの真新しい四角い建物は、豆腐みたいに白い。施設に入るといつも給食に似た匂いがした。

 おばあちゃんは、施設に入っても私を思い出してくれなかった。

 でも、お母さんは肩の荷が下りたように優しくなった。お父さんとも喧嘩をしなくなった。二人のことを考えるのなら、これでよかったのだと思う。

 施設の職員曰く、一緒に住んでいたときのように、癇癪を起こしたり、嘘をついたり、物を隠していないと話していた。声をかけなければ、ほとんど部屋でぼーっとしているらしい。両親が職員と話をしている間、私は先におばあちゃんの部屋へ向かった。

「おばあちゃん」

 個室の扉をノックしても返事がない。あぁそうかと思い出して、おばあちゃんの名前で呼ぶと返事がきた。

「あらまぁ、まりちゃんですね」

 今日の私は「まりちゃん」らしい。私の名前でなければ両親の名前でもない。おっとりとした口調で、ベッドの上にいたおばあちゃんは嬉しそうに微笑んだ。おばあちゃんの記憶は退行しているが、どこまでなのかはわからない。少なくとも、私を忘れているのは確かだった。

「ひ、久しぶりだね」

 声が引きつっていた。わかっている。我慢しなきゃいけない。他人の名前で呼ばれても、否定しないほうがいいと職員に教えてもらった。言動を否定すると病気が悪化しやすくなると。頭では理解しているつもりでも、感情はそうもいかない。本当はおばあちゃんに問い詰めたくて堪らなかった。

 扉の前で突っ立っている私を気に留めず、おばあちゃんはお喋りを始めた。その大半は知らない話だった。私と暮らす前の、あるいは両親が結婚する前の、それよりもっと前の話かもしれない。

「そういえば、聞いてくださいよ」

 話が一区切りしたかと思えば、話題が変わるらしい。

「な、なに」

「昨日ね、せがれから連絡が来たんです」

 背筋に電流が走ったような気がした。

「孫が産まれたんです」

 心臓がばくばくと早鐘を打つ。言葉になっていない情けない声が口から零れていく。

「お、おばあ、ちゃん……」

「今日見に行きました。女の子なんですよ。とっても可愛くて。娘を持ったことがなかったから、実は初孫が女の子で嬉しかったんです。あぁ、倅には内緒ですよ」

 自然に足を踏み出していた。一歩一歩、おばあちゃんに近づいていく。

「名前はどうするんでしょうねぇ。ほら、私が口をだしたらお邪魔でしょう」

「ねぇ、おばあちゃん」

 ベッドのシーツを掴む。両膝をつき、震える声でおばあちゃんを呼ぶ。演じきろうと思っていたのに、私の我慢はあっさり崩壊した。

「私は、ここにいるよ」

 ここにいるのに、どうして認めてくれないの。

 私を認めてよ。おばあちゃん。

「おばあちゃん、どうして! ねぇ、どうして!」

「そうそう」

 おばあちゃんには泣いている私が視界に映っていないらしい。嗚咽を漏らし、惨めな思いに浸っていると、おばあちゃんはベッドを下りて、クローゼットから紙袋を取り出した。

「内祝いです」

 差し出された百貨店の紙袋は、綺麗とは言い難い。

「いいから、いいから。貰ってくださいな」

 強引に渡され、紙袋を覗くと雑多な物が詰め込まれていた。タオルに折り紙や造花など、使えるものから使えないものまで入っている。それらは都会のマンションに住んでいた頃、おばあちゃんがどこかに隠した物だった。お母さんがおばあちゃんを責め、おばあちゃんは知らないと叫んでいた。こんなところにあったなんて。

 丸椅子の上に紙袋を置き、中身を確認していくと筒を見つけた。賞状筒だ。蓋を開けて賞状を広げれば、私の名前があった。

 写生大会の賞状だ。

 太いマジックで「うそつき」と書かれた字の上から、おばあちゃんが好きな赤いクレヨンで大きな大きな花丸がついていた。

「凄いでしょう」

 おばあちゃんは、よく知る柔和な笑みを浮かべていた。

「自慢の孫なんです」

 私はぼたぼたと涙で頬を濡らしながら、紙袋を抱えて丸椅子に座った。

「あのね、おばあちゃん。私、話したいことがたくさんあったの。前の学校でね。しおりちゃんっていう友達ができたの」

 こんな話をしても、おばあちゃんに私の声は届かないのだろう。おばあちゃんの中では、私は今ここにいないことになっているのだ。それでも話したかった。声が届かなくても、言葉を理解してもらえなくても、話したかった。

 あの黒い塊も、私に何かを伝えたかったのかもしれない。

 両親が来るまで、ぐずぐず泣きながら私は話した。

 しおりちゃんのこと、魔法のクレヨンが折れたこと、『声』のこと、すずかちゃんのこと、石崎君のこと、家鳴のこと、それから。

「おばあちゃん。私、まだ絵を描いていいかな」

 私の絵は、今もおばあちゃんの目に映ってはいないだろう。私が描いた絵だとおばあちゃんは認めてくれないのだろう。

「描きたいよ、おばあちゃん」

 それでも私は、おばあちゃんが褒めてくれた絵を描き続けたいんだ。

 あなたの自慢の孫で在りたいから。

 かたかたと紙袋から何かが鳴る音が聞こえる。紙袋の奥に手を入れると、固いものに触れた。よく知るプラスチックの細長い箱。魔法のクレヨンの箱。

「こんなところにあったなんて」

 ことりと耳から何かが落ちた気がした。床に、あの小さな黒い塊が黒色の折れたクレヨンを抱えていた。

「もしかして、あなたは私の絵が好きだったの」

 『声』であり家鳴である異形は、歯を見せてにんまり笑ってからすうっと姿を消した。残された折れたクレヨンは、握られるのを待っているように転がっていた。

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