#3
写生大会の日は曇りだった。
その日はいつもに増して私の口数は少なく、しおりちゃんは饒舌だった。私は緊張していた。朝食は喉に通らなかった。画板と絵の具セットが重たく感じる。あれからしおりちゃんは黒色のクレヨンを返してくれない。その話を振っても、「テストの結果しだい」と返される。本気だったんだと今更知って、さらに気が重たくなった。
所狭しとビルが並ぶ都会の中に、どかんとある広大な自然公園は異空間のようだ。真面目に描かずに遊んでいる生徒たちを引率の先生が叱っている。お昼になる前にはスケッチを終わらせたかった。
しおりちゃんとは別行動をとっていた。ついてこようとした私を止め、一人で行ってしまった。
どこにしよう。ここでもない、あちらでもないとふらふらと歩く。見かねた先生に、描く場所が決まったかと尋ねられて首を振った。隣のクラスの新任の先生だ。若い女の先生は「困ったね」と膝を曲げて私に視線を合わせる。
「湖はどう? スワンボートがあるあそこ。ボートを描いている子が多かったよ」
先生が指した先には大きな湖があった。公園の人気スポットだ。湖を泳ぐ、とぼけた顔のスワンボートをぼんやり見ていると、描いているクラスメイトの中にしおりちゃんの姿が見えた。
いつもなら、隣に私がいたのに。
額縁の絵のように、そこだけ切り取られたような違う世界に見えた。頭から冷えていく感覚がする。
「同じ場所にしたらきっと怒るから……」
「怒る?」
さらに聞かれる前にもうちょっと探してみますと逃げた。「あまり遠くに行ったら駄目だよ!」と心配する先生に返事ができる余裕がなかった。
こういうとき、おばあちゃんはなんて答えてくれるんだろう。しおりちゃんの話をしたら真剣に聞いてくれるはずだ。おばあちゃんなら、こうしたらいいと知恵を貸してくれる。
でも、今は。
歩くたびに、かたかたとリュックサックに入れたクレヨンの箱が鳴る。写生に使わなくてもお守りとして持ってきてしまった。一本足りない十二色の魔法のクレヨン。私の頭の中にきちんと順序よく並べられている。背丈がばらばらのクレヨンは、どの位置に何色があるのか簡単に想像できた。
特に短いのは、赤色。
おばあちゃんが好きな色。
私が絵を続けられたのは、おばあちゃんの笑顔があったからだ。何をしても褒めてくれるけれど、絵は特に喜んでくれた。褒められたくて、喜んでもらいたくて、両親に呆れられるほどたくさん描いた。
大きくて温かくて柔らかい皺の入った手で、私の頭を何度も撫でてくれた。完成した絵を意気揚々と見せたとき、おばあちゃんはいつものように褒めたあとにこんな話をした。
「好きなものを好きなだけ好きなように描くのは、案外難しいものですよ。特に、大人になってからは」
好きなことをするのは楽しいはずなのに、どうしてそんなことを言ったのか、あのときの私は理解ができなかった。
子どもの「好き」と大人の「好き」は違うのかもしれない。
しおりちゃんと会わないように反対側の湖畔の周辺を歩いていると、茂みの中に耳が見えた。石で出来た三角の耳だ。草をかき分けると、するりと細長い体の狐が二匹、向かい合っていた。
小さなお稲荷様の祠があった。
木製の赤い格子の奥に、白い狐の置物がある。御神体だろうか。目があったような気がして、視線を外した。鳥居も祠と同じ大きさで、塗装が剥がれ落ちている。祠に吊された注連縄は、引っ張ると切れてしまいそうだ。雑草に囲まれた祠は明らかに手入れされていなかった。
小さな神様のお家に、自然に引き寄せられていた。
迷いはなかった。腰を下ろし、スケッチブックを開く。濃い鉛筆で線を描きながら、ここはこの色にしようと決めていく。私の目の前に寂れた祠がある。だけど、頭の中には作られたばかりの祠があった。
おばあちゃんは、夏を境に忘れる病気が悪化して子どもに戻ってしまった。
また、私の名前を呼んでくれるだろうか。私の絵を喜んでくれるだろうか。
「写生大会で賞が取れますように」
絵を描き上げたあと、祠の屋根の落ち葉を払って周りの雑草を引っこ抜いた。完璧に掃除したとは言えないけれど、初めて見たときよりも見栄えはよくなったはずだ。お供え物としておやつのビスケットを置き、手を合わせる。
早くしおりちゃんにクレヨンを返してもらいたかった。十二色揃った魔法のクレヨンで絵が描きたかった。
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