#2
「前から思っていたけど、赤が好きなの?」
夏が終わり、秋に差しかかってきた頃。お昼休みにいつものように絵を描いていると、隣で見ていたしおりちゃんが何気なく尋ねてきた。
その日は肌寒かった。これ以上伸びないと知っていても、七分袖の袖を引っ張ってしまう。
「うん、好きだよ」
私の絵には必ず赤色が入っていた。意識して入れていた。赤色はおばあちゃんが好き色だ。魔法のクレヨンの赤色で描いた絵を特に喜んでくれる。「お上手ですねぇ」と聞き慣れた間延びした声で褒めてくれた。
しおりちゃんとの毎日は楽しかった。二人でたくさん絵を描いて見せ合った。しおりちゃんが人を描き、私が背景を描いて合作した。夏休みのほとんどはしおりちゃんと遊んだ。しおりちゃんとテレビゲームで笑い合い、プールで泳ぎ、宿題に頭を抱えた。こんなにたくさんの時間を友達と過ごすのは初めてだった。
「ふぅん」
一緒にいるうちに、しおりちゃんがどういう子なのか少しずつわかってきた。この反応は不満があるときだ。しおりちゃんは我を通す性格だ。あれこれ自分で計画を立ててくれるけれど、変更があると不機嫌になってしまう。優柔不断な私には、予定を立ててくれる人がいるのは助かった。何がしたいと尋ねられても思いつかず、答えられないでいると「仕方ないなぁ、あたしがいないとだめなんだから」と笑って決めてくれた。
「ど、どうしたの?」
しおりちゃんは、ノートにべったりと頬をくっつけていた。丸い目をつまらなそうに細めている。ノートには描きかけの女の子の絵。しおりちゃんが好きなアニメのキャラクターだ。
「それはいいけどさ、いつまでクレヨンで描いているの?」
思いもしない質問にぽかんとした。
「クレヨンって小さい子が使うものだよ? あたしたち、来年から五年生になるの。高学年だよ。お姉さんになるんだよ。それなのに、いつまで子どもが使うもので描いているのかなって」
クレヨンは幼い子が使うものだと薄々気づいていた。周囲にクレヨンで描いている子はいない。図工は先生が指定した画材道具を使っているけれど、クレヨンを指定されたことはなかった。しおりちゃんはクレヨンではなくカラフルなペンを使っている。お小遣いを貯めて買っているようだ。漫画家になるのが夢だと話していた。
「で、でも、クレヨンを使っている大人がいるかもしれないよ」
「あたしの周りには、そんな大人はいない」
ぴしゃりと言われて口を噤んだ。
「クレヨンが駄目とは言っていないよ。そろそろ違うもので描いたらどうかなって」
しおりちゃんは、机に置いたクレヨンの箱からを一本手に取った。寝そべっていた上半身を起こし、黒色のクレヨンで私を指す。
「クレヨンなんて描きにくいよ。太くてねばねばしているし。あたしは好きじゃない」
しおりちゃんの口は笑っているのに、丸い目はちっとも笑っていなかった。
これは、私に同意して欲しい目だ。「そうだね」って言わせたいときだ。
「そ、そうなんだ」
私はどちらともつかない返事をした。
「……ふぅん」
しまった。機嫌を損ねた。
「じゃあ、もう一緒に絵を描かない」
がたんとしおりちゃんは乱暴に席を立った。
「将来、あたしが漫画家になったらアシスタントになってくれるって約束したのに」
「そ、それは」
その約束にはちょっとした誤解がある。漫画家になりたいと夢を語るしおりちゃんが眩しかった。私に夢はない。大きくなったら何になりたいか質問されるたび、適当に答えて誤魔化してきた。
大きくなっても、しおりちゃんは友達でいてくれるだろうか。「しおりちゃんが漫画家になっても、今みたいに一緒に絵を描こうね」と返したところ、「アシスタントになってくれるんだね」と喜ばれた。どうやら私の意図と違ったかたちで、受け取ってしまったらしい。
「わ、私、しおりちゃんの漫画の続きを読みたいな……」
夏休みから、しおりちゃんは漫画を描き始めた。描きかけの漫画を何度か見せてもらっている。不思議な力が使える少年少女達の物語だ。しおりちゃんの絵は相変わらず生き生きとしていて、漫画の続きが楽しみだった。
私は人が描けない。何度か挑戦してみたけれど、特に顔を描くのが苦手だった。人の顔はたくさんある。表情もたくさんある。あぁでもないこうでもないと納得できず、そのうち描けない自分に腹が立って顔を塗り潰してしまうのだ。
それに、私が描きたいのは人じゃない。
私が描きたいのは。
「漫画は頑張って描いてるから待ってて!」
漫画の話を振ると機嫌を直してくれる。先程とは打って変わって、にっこり笑ったしおりちゃんに安堵した。
「でも、それとこれとは別。許していないよ」
低く落とされた声に固まった。しおりちゃんは私の黒色のクレヨンを人質のようにぷらぷらと振って見せた。返してと手を伸ばしても簡単に避けられてしまう。しおりちゃんの高い身長では、私の手は届かない。
「あたしのアシスタントが、クレヨンでしか描けないってだめでしょ」
「そ、そのクレヨンは、おばあちゃんがくれたものだからっ」
「知ってるよ!」
しおりちゃんは吐き捨てるように叫んだ。私を見下ろす彼女の目は、酷く冷めていた。
「ずるいなぁ」
「え?」
「そうしていたらさ、誰かが助けてくれるって思っているんでしょ」
しおりちゃんには、そういうふうに映っているらしい。私はずるくて、卑怯なのだ。否定はできなかった。わかっている。私はいつも受け身だ。魔法のクレヨンのおかげで声をかけてくれる人がいても、なかなか関係が続かない。グループの中ではいつも聞き手で、いてもいなくてもどちらでもいい存在だった。学年が上がり違うクラスになった途端、私を忘れたように離れていく。リセットされてしまう。
しおりちゃんだけだった。
同じ「好き」を共有できたのは。
私を知ってもらえたのは。
「いいよね。あなたには、おばあちゃんっていう応援してくれる人がいるから」
何も言い返せずに黙っていると、しおりちゃんはわざとらしい大きな溜息をついた。
「テストをしよう」
「テスト……?」
「そうまでしてクレヨンにこだわるってことは、自分の絵に自信があるからでしょ。だからテストするの。来週、写生大会があるから、それで入賞したらこのクレヨンを返す。実力を認めてあげる」
来週は自然公園で写生大会がある。紅葉が色づく時期だ。今まで写生大会で入賞した覚えはない。私の顔色がさっと青くなったのを見て、しおりちゃんは口元を歪めた。
「できなかったら、もう二度とクレヨンで描くのはやめること。あたしのアシスタントになるためのアドバイスをしてあげるね」
クレヨンがしおりちゃんの手の中にある以上、拒否権はなかった。頷く私に満足げな表情になる。そのとき、かたかたと奇妙な音が聞こえた。音を辿った先にクレヨンの箱がある。横長のプラスチックの、一年生のときから使っている魔法のクレヨンの箱。見慣れた箱に私は疑問を抱いた。
蓋を、閉めただろうか。
いつも十二色揃っているか確認してから、蓋を閉めている。今は一色欠けていた。もしかしたら無意識に閉めたのかもしれないと思い直し、クレヨンの箱を机にしまった。
かたかたと何かを叩くような音が、机の中からかすかに聞こえた気がした。
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