第2話 しおりちゃん 

#1

 私は社交的な性格ではない。

 それは前の学校でも同じだった。声が小さく口下手で大人しかった。作る努力を自分なりにしてみたけれど、学年が上がればクラス替えではなればなれになってしまう。違うクラスになった子とはほとんど会わなくなる。新しいクラスでグループを作られたら、その中に入れなかった。

 クラス替えはリセットボタンと似ている。せっかく築いた人間関係をなかったことにされてしまう。

 だけど、狭い教室に取り残される不安があっても、私には心強いものがあった。

 魔法のクレヨン。

 おばあちゃんがくれた大切なクレヨンだ。

 父方のおばあちゃんは、共働きで忙しい両親の代わりに私の面倒を見てくれた。手先が器用で可愛らしいお茶目な人だった。着せ替え人形の服をこっそり作り、翌朝目覚めた私に「お人形さんが買い物に出かけて服を買ってきたんですよ」とはにかんだ。テレビのように上手くできないと放り投げた紙粘土の熊を見て、ふてくされている間に一匹完成させ、「この熊さんはお母さんです。子熊を探しています」と悪戯っぽく笑った。私が作った歪な子熊をたくさん褒めてくれた。

 私の背中を優しく押して、応援してくれる人だった。

 小学校入学の前日、学校に行きたくないと駄々をこねた。あの頃から私は一人遊びを好んでいた。苦手な鬼ごっこで転んで痛い思いをしたり、ドッチボールでボールから怯えて逃げたり、おままごとでやりたくない役を押し付けられるより、一人で遊ぶほうが気が楽だった。学校は友達を作って勉強して遊ぶところだと両親に聞かされるたび、重荷になっていた。私に友達なんてできないと号泣してしまったのだ。

 おばあちゃんは泣き叫ぶ私を叱らないよう両親をなだめた後、そそくさと外出した。すぐに戻ってきたかと思えば、桜柄の包装紙でラッピングされた箱をくれた。入学祝いだと微笑むおばあちゃんに促され、赤いリボンを解く。プラスチックの箱に入った十二色のクレヨンが顔をだした。

「これは魔法のクレヨンです。これで絵を描けば、きっと友達ができるはずですよ」

 今思えば、自分が好きなもので人を惹きつけなさいと励ましてくれたのだろう。一人遊びの中で私は特に絵に熱中していた。真っ白な画用紙をひたすら塗り潰していく様子を、おばあちゃんはいつも見ていてくれた。

 魔法のクレヨンは効果を発揮した。このクレヨンで絵を描いていれば、必ず声をかけられるのだ。それがきっかけでグループに入れた。クラス替えでリセットされても、絵を描いていれば誰かがやってくる。描けば描くほどクレヨンは短くなっていくけれど、使いにくくなった頃に新しいものに取り替えられていた。おばあちゃんと両親に聞いても知らないと返される。ますます魔法のクレヨンだと思うようになっていた。

 小学四年生の春。私は休み時間にノートに絵を描いていた。クラスに仲の良い子は一人もいなかった。小学四年生にもなれば、グループが決まってくる。この子となら仲良くなれそうと似た空気の子を探りながら固まっていくのだ。相変わらず友達づくりが下手な私は、絵を描きながら誰かが話しかけてくれるのを待っていた。

「絵が好きなの?」

 声をかけられた。がばりと顔を上げれば、ボブカットの丸い頭に丸い顔と丸い目を持ったまぁるい女の子がいた。背は高く、唇の下にほくろがあった。

「う、うん」

 その子は、今まで話しかけてきた子と違っていた。たいてい「何を描いているの」と聞いてくるのに、好きかどうか尋ねてきたのだ。

「そっか。それじゃあ、あたしと同じだね」

 たんぽぽみたいに笑った彼女は、しおりと名乗った。

 私は初めて、共通の趣味を持った友達ができたのだ。

「前から絵を描いていたよね」

 しおりちゃんは一緒に給食を食べようと誘ってくれた。何度も頷くと可愛いと笑われ、恥ずかしくなってしまった。

「そ、その、どうして知っているの?」

「どうしてって。二年生のとき、同じくクラスだったよ」

 パンをちぎって口に運ぶ。私はクラスメイトの名前と顔を覚えるのが苦手だった。顔が熱くなる。覚えていなかったのに、しおりちゃんは覚えていてくれたのだ。

「ご、ごめんなさい。わ、私っ」

「いいよいいよ、そのときは違うグループにいたからさ」

 しおりちゃんは二年生のときから仲の良い友達がいたけれど、違うクラスになってから変わってしまったそうだ。他のグループの中に入り、話しかけても無視されると怒っていた。

「そういうのが一番むかつく! 嫌いなら嫌いって言えばいいのに! あなたはあたしを無視しないでね!」

 私はパンを慌てて飲み込み、何度も頷いた。

 しおりちゃんは人物画を描くのが好きだった。彼女の絵はきらきらしていた。表情が豊かで躍動感があった。紙の中で人物が呼吸しているようだった。アニメや漫画から影響を受けて描くようになったと話していた。

「しおりちゃんの絵、とても好き」

 しおりちゃんの絵を初めて見たとき、自然と口から零れていた。自分でも驚くくらい、珍しくはっきりした声だった。しおりちゃんは丸い目を大きく見開き、はちきれんばかりに嬉しさを詰め込んだたんぽぽの笑顔になった。あのときの顔は今でも焼き付いている。

 私は風景画が好きだ。日常の風景も幻想的な風景も、行ったことがあるようでないような風景画に惹かれた。

 絵が好きになったきっかけは、ある一枚の絵画からだ。五歳の頃、おばあちゃんの大きな柔らかい手に引かれて、ある画家の個展に行った。客のほとんどは画家の友人で、おばあちゃんもその一人だった。友人たちと話が弾むおばあちゃんの隣にいるのに飽きてしまい、一人で絵画を見て回っていたときだ。

 壁にトンネルがあった。

 蔦が絡まって作られた緑のトンネルの絵画だった。トンネルの向こうには赤色の花が咲いている。大きな花びらだ。根に毒がある花だとおばあちゃんに教えてもらった。でも、名前を思い出せない。絵に近づく。無意識のうちに手を伸ばしていた。

「これはね、向こう側をイメージしたんだよ」

 はっと手を引っ込める。そういえば、絵に触れてはいけない決まりだった。背中に手を回して体ごと振り返り、叱られるのを覚悟して上目遣いに窺う。

 そこにいたのは怒った大人ではなく、柔和なおじいさんだった。顔はうろ覚えだが、黄色の眼鏡が印象に残っている。

「む、むこうがわ?」

「彼岸のことさ」

 彼岸、お彼岸。トンネルの向こうにはあちら側の世界が広がっている。そうだ。あの赤い花は彼岸花だ。曼珠沙華と別名でおばあちゃんは呼んでいた。

「臨死体験をした友人の話を基に描いたのだけれど、友人に見せたら逆だと言われてね。全体的に明るすぎるそうだ。そのつもりはなかったんだけどなぁ」

「そうなんだ」 

「困ったことに、別の友人には暗いと言われたよ。見る人によって変わるかもしれないね。でも」

 おじいさんは言葉を区切り、絵をまじまじと眺めた。どこかぼんやりとした様子は、ここにいるのに違う場所にいるような気がした。

「私は惹かれてしまうのさ。ここではない異界に。君はどう見えたんだい?」

 そのとき私は、どう答えたのか覚えていない。

 あの日を境に、風景画を描くようになった。

 絵を始めた頃、トンネルの絵と同じ絵を描こうと思い、黒色ばかり使っていた。黒色のクレヨン、色鉛筆、絵の具と画材を取り替えては画用紙を黒色で埋め尽くしていた。

 いつだったか、おばあちゃんが真っ黒になった私の手を見て静かに呟いた。

「私はもっと、明るい色のほうが好きですよ」

 おばあちゃんは、この絵を喜ばない。

 画用紙には真っ黒な大きなトンネルがある。何もかもぱっくりと飲み込んでしまいそうな黒色が、さわさわと塊となって蠢いているように思えた。

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