第3話 カーテンを閉じて

「私、結婚することにした」

「おめでとう」


 彼は何気ないような態度で祝福した。

 残酷だった。

 所詮はサンドウィッチの男だった。


「喜ぶのね」

「だって、お前幸せになるんだろ? 当たり前じゃん」

 冷静に考えれば、浮気相手とは言えども、お前の彼女が結婚するのだぞ。何を喜んでいるのだ。

「恋愛結婚なんかじゃないから」

 私はベッドの横の彼にそっぽを向いた。

「じゃあなんでするの?」

「するしかないから」

 手が勝手にシーツを握る。

「したくないなら、やめなよ」

 あくまで真摯な風で語りかけてくる。

 手汗が滲む。

「そうなんだけどね、でもね…」

「事情とかわからないけど、俺はお前とこうして遊べればなんでもいいから」

 最低だ。本心はこれだったのだ。この男は薄っぺらい。その軽薄さを隠そうともしないのは恥を知らないからなのか。

「だからさ、結婚しても会いにきなよ。大学とか夢とか夫とか家とか、そんなの悩んでも意味ないよ。悩んでも何も進まないから」

「進まないからどうするの? 私はあなたに会ってどうするの? 助けてくれるの?」

 目が涙を流していた。ぽろぽろと垂れて枕を濡らす。この男は何が言いたいのだろうか。良いことを言って関係を続けようとしているなら、毛ほども達成できてはいない。

「無理だよ。だから全部忘れて、俺と会うときは」

「え?」

「俺と会うときは俺のこと以外考えなくていいよ。好きなだけ、現実から逃げていいよ。お前は何にも悪いことはしてない。俺が勝手に誘惑してるだけだから。騙されて俺を好きになったお前はただの被害者だ。だからーー」

「だから?」

「好きなだけ、俺を愛していいよ」

 悪魔だ。

「悩んでも進まないなら、進まなくてもいいから楽しめばいい」

 この男は悪魔だ。

「酷いよ、私破滅しちゃう」

「そんなお前も愛してるよ」

 ひどい、ひどいと呟きながら私は彼に抱き締めてもらった。ああ、なんて暖かいのだろう。このまま何も考えられなくなりそうだった。いや、何も考えなくても良いのだった。


 大学は休学することになった。私は既に藤木家の人間だった。藤木家のものが、勝手に家のこと以外をしてはならない、らしい。おそらく休学から退学になるだろう。私の夢はどうなってしまったのか。

 公園で一人空を仰ぐと、厚い雲が垂れ込めていた。今にも雨が氾濫しそうな危うい気配がする。会食で見た藤木家の人間を思い出した。当たり障りが良くて礼儀正しい人々。しかし、人を虚仮おろしにすることを我慢できない残忍さを隠しきれていなかった。私の父が無自覚の罵倒の犠牲者になるのを黙って見るしかなかった。経営も上手くいかず人望もないのは確かなのだが。

 雨がぽつりと落ちて、頬を濡らした。私は鞄から折り畳み傘を探そうとして、潰れたサンドウィッチを見付けた。

 ベンチに座って、サンドウィッチの包装を開く。あの男お手製の貧相なサンドウィッチだ。貰ってから食べるのを忘れていた。きっと具材は傷んでいるだろう。

 一口食むとぶにゅりと感触がする。ごわごわするレタスを無理やり噛み千切る。トマトの嫌な酸味が口に広がる。

「ほんと不味い」

 勿体ない気はしないのに、なんだか無性に食べたくなる。

 無理やり一口一口頬張りながら、私は雨に打たれるままに座っていた。

 私はサンドウィッチを噛み締めながら昔のことを思い出した。小学生の頃だ。雨に打たれ、泥にまみれたランドセル。もってあげると言われて盗られて、わざと転んで泥まみれ。上辺だけの憐れみと、隠しきれない下品な笑い。遊びにギリギリ見えるように行われていた陰湿ないじめだった。私の告発は証拠不十分として葬り去られた。私の思い込みすぎとして処理された。今でも、ひとつとして許せる所業はない。

 私のような目に合う子を出させてはいけない、そんな決意があった。だから先生を目指した。結局、誰かを助ける側にはなれず、助けを求める側のままだ。雨が目に垂れて、上手く目蓋を上げられない。

「三百円だったのになあ」

 故郷からはあの男の家まで遠くなる。これから、いくら掛かるのだろうか。

 高いサンドウィッチだなあ、と呟いて私は最後の一切れを飲み込んだ。


 


 


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サンドウィッチの男 延期 @kishou-muri

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