第8話 そばにいるには眩しすぎて

私のそばで穏やかに寝息をたててくれる存在が現れるなんて思ってもみなかった。


伊織ちゃんは細い腕に柔らかそうな頬をのせて、机の上に突っ伏している。


私の絵を描くところを黙って見ていたり、私が貸した本を読んだり、他愛のないお喋りをしたりした後に、私が帰るまでこうして寝ていることが多くなった。


先に帰ってくれてもいいのよと言っても聞いてくれない。


私がいないと先輩は一人で帰ることになるじゃん!と頬を膨らませる彼女に私は決して敵わない。


伊織ちゃんの大きな目は喜怒哀楽を映してキラキラと輝きの色を変える。私にはきっと出来ない素敵な感情の表出を、羨ましいような眩しいような気持ちで見ている。


こんな素敵な彼女が私のそばにいてくれるのは、彼女が加害者で、私が被害者という関係だから。


確かに彼女に傷つけられた絵は元には戻らないし、それはとても悲しいことだけれど、涙を流しながら謝罪してくれた彼女のことはもうとうの昔に許しているのだ。


伊織ちゃんは優しくて、責任感の強いこだから、もう私が悲しむことのないように、自虐的な私を変えようとしてくれている。


先輩は素敵な人です!と自信満々の笑顔で言ってくれる伊織ちゃんを信じたいけれど、私自身のことがどうして信じられるだろう。


私を嫌う人は大勢いる。私は人の感情がうまく読めない。心と違うことを言う人の言葉を額面通りに受け取って人を傷つける。自分の感情もまた伝えることは苦手だ。そのせいで、家族のような近しい人間にすら疎まれてきた。


欠落した私は、不良品がライン作業で弾かれるように、世界からつまはじききされるのは当然だと思っていた。側に居てくれる人が現れるなんて思いもしなかった。


私はそっと伊織ちゃんの髪をすく。小さくて、華奢で、柔らかくて、大きな瞳と小作りでも形の良い鼻と唇。人形みたいに綺麗だなと思う。


抱擁した時の感触を思い出して、胸が熱くなる。伊織ちゃんの甘い体温が、切ない鼓動が、制服という薄皮一枚を隔てて私に伝わってくる。伊織ちゃんの体がこんなに柔らかいことを、私の細腕ですっぽり覆ってしまえるほど華奢なことを、髪からは脳を溶かすような甘い匂いがすることを、私以外の誰が知っているだろうか。


出会えないと思っていた、私の特別。伊織ちゃんに出会えただけでも、私の人生残りの幸運全をもって賄えないほどの僥倖だと思う。それでも、一度幸せを知ったらきりがなくなるのだということに気付かされた。私には伊織ちゃんしかいない。たった一人の特別な人。叶わないと知ってなお、伊織ちゃんにとっての私もそうであってほしいと願ってしまう。例えば服を脱いで直に肌を合わせたなら。例えば伊織ちゃんの唇に、私のそれを重ねたなら。誰も知らない彼女の奥深くに、私の存在を刻みつけられるだろうか。


側で眠る伊織ちゃんの薄い唇は、危険なほどに無防備だ。私が少し屈んで、体を近づけたら、伊織ちゃんは私のような人間を信頼したツケを払うことになる。


「伊織ちゃんが思うような人間じゃないのよ、私」


伊織ちゃんは私に自分の持つ純真さを投影している。伊織ちゃんのように恵まれて生きてきた人間は、心にドロドロとした情念を澱のように溜めて生きている人種がいることを知らない。


「どうせ、いつかは貴方も離れていくのでしょ」


そんなことは、分かっている。分かっていてなお、切なさは消えてくれない。


願わくは、伊織ちゃんを想う甘さも、切なさも、痛みも、黒い檻に飲まれてその色をなくしてしまえばいいのに。


いや、きっとそうなるのだ。今までもずっと、そうやって生きてきたのだから。

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不器用センパイとお馬鹿コウハイ 北上獺 @harienju

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