第3話 芋掘りおじさん
あべしの火葬が終わり、俺の家にはあべしの代わりにあべしの遺骨が置かれた。
火葬のとき、俺は十年ぶりくらいに泣いた。あべしが死んでいることはわかったときは泣かなかったけど、火葬の直前の悲しみったらなかった。撫でる体がなくなることがこんなに悲しいことだとは思っていなかった。
次の日には、何も問題なく生活も時間も進んでいた。寧ろ支障をきたしてくれた方が、救われたかもしれないとも思った。でも、遺骨はあべしの代わりにはなり得なかった。あべしが喜んで走り回ったり、家族が笑いながらあべしとじゃれたりするような、実際の愛の受け渡しがなくなったことは俺にその喪失を実感させた。喪失感のことを"心にぽっかり穴が空く"と言ったりするけど、本当に穴が空くのは自分の方じゃなくて世界の方だ。もう使われることのない骨の形のオモチャや餌入れが取り残されている。俺の家は行き場を失った愛で散らかっていた。
あべしの死因はわからなかった。あまりに突然の死だったので、獣医師になんとも説明できなかった。例えば毒物を飲み込んだとか、鳥の骨を食べて内蔵に刺さっただとか、体の中に異変は見受けられなかった。熱中症の可能性もあったが、犬を残して外出するときは必ず家の中にエアコンは付けっぱなしにしている。現に俺が家に帰ったときも、室温はひんやりしているくらいだった。
でも、俺には死因がわかっていた。あべしが倒れているそばに、四辺にセロハンテープがたくさん付いたビニールが落ちていた。あべしは錆び付いた鉄板を舐めたのだ。
あべしが鉄板を舐めようとし出した頃に、錆を舐めることが体にどんな影響を与えるのか調べたことがあった。いくつかのサイトを見たが、そのどれもが特に問題はないと書いていた。サイトによっては、鉄分が補給できるかも、みたいな文言も書いてあったと思う。
でも、錆はあべしの体に対して作用したのではない。あべしの存在に対して作用してしまったのだ。
俺の中の愛は方向性を失っている。カナミがスニーカーを履き始めた頃から、既にそれは錆び付き始めていた。カナミがスニーカーを履き始めた頃に俺もスニーカーを履き始められていたのなら、鉄板を貼らずにいられたのなら、カナミのことをずっと好きでいられたのかもしれない。
あるいは、鉄板を捨ててしまい、俺は一途な人間なんかじゃないと割り切って、ナコスへの愛を真に認めてしまえば良かったのだ。鉄板なんてなんの理由にもならないくらいに、好きになってしまえば良い。
でも、そうすることができなかった。
そうして錆び付いた愛にあべしの無形の愛は侵され、その存在を失ってしまったのだ。
卓球が終わり、また俺達は石段に座っていた。今日来ているOBは俺とカナミだけだった。
同級生の男は出張で東北の方にいるらしい。こいつは最近よく出張に行かされている。他のOBがいない理由は知らない。
「とりあえず結婚おめでとう」
「ありがとうございまーす」
「苗字何になるの?」
「井口」
カナミの元々の苗字は藤沢だ。
「画数減って楽になったな」
「そうだね。会社でもサインが頭の一文字だけだから、井だとすごい楽」
「井口かあ」
苗字にはまったく興味がなかったが、頭が空っぽのまま適当な相槌を打つ。
先週のナコスの言葉が急に頭をよぎる。ものが自分に与える影響がある。カナミがつけているネックレスは、彼氏にもらったものらしい。ネックレスがカナミに与える影響って、何なんだろう。
「カナミってなんでネックレスつけてるの?」
ナコスにはなかなか聞けなかった質問が、カナミにはすぐに出せる。
「なんでって聞かれても」
少しカナミは黙る。
「多分だけど、これを付けることを彼氏に期待されてて、それに応えたいからだと思う」
「そっか」
カナミの顔を眺めてみる。俺はカナミの何が好きだったんだろう。
カナミの耳たぶにはほくろがある。カナミの髪がまだセミロングだった頃は耳がよく隠れていて、髪を耳にかけないとそのほくろも見えなかった。でも正直俺は耳を隠していた方が好きで、なんでわざわざ耳を出しちゃうんだろうと思っていた。今は耳が出るくらいにはショートなので、隠すも隠さないもない。
でも別に、耳が隠れているから好きだとか、耳が隠れていないから好きじゃないとか、そういう問題ではなかった。その前から、愛自体は無条件に存在していた。
そもそも、何が好きだったかと問うこと自体が間違っているのではないか。俺は、あべしを今でも愛している。カナミとあべしにある共通項は、あまりに抽象的過ぎるのではないか。愛は普遍、という言葉がよぎる。そうなのかもしれない。そういう意味では、今でもカナミに対して少なからず愛情を抱いている。じゃあ、恋愛感情との相違点は、なんだ。
「マサル」
カナミが改まって俺の名前を呼ぶ。
「お願いがあるんだけどさ」
「なに?」
「あたしに何かアクセサリー買ってほしいんだ」
「え? ああ」
一瞬、何を言っているのか理解できなかったが、すぐに結婚祝いでということだと思った。
「結婚祝いで、ってことね」
口に出して、違和感が形になる。
結婚祝いで他の男からアクセサリーをもらう。そんなことがあるのか?
「結婚祝い…。そう、結婚祝いで」
「嘘だろ?」
また、カナミはまだ黙る。アブラゼミが遠くで鳴いている。俺の足元で砂利の擦れる音がする。駐車場の出入り口の交差点の信号が青になる。職員室の電気が消える。そのどれもがカナミを責め立てているようだった。
でも、きっとそのどれもがなくて、そこに完全な沈黙があってもカナミが責め立てられているような気になっていたと思う。ないことが与える影響、の言葉が浮かぶ。
しばらくカナミの横顔を見ながら答えを待っていると、
「ごめん、もう一つお願いがあるんだ」
とカナミは続けた。
「なに?」
「あたしはそのアクセサリーを付けられないけど、マサルにはあたしのこと好きでいてほしい」
俺は確信した。恋愛感情とは、相手に自分と同じ愛を期待する感情のことだ。
舗装されていない細い脇道に車を停め、人通りがほとんどないことを確認する。橋の上では多くの車が行き交っているが、橋の上からここは見えない。
コンソールボックスの上に乗せた錆びた鉄板が、今までほとんど見せることのなかった裏面に両面テープの残りを携えて、その異物感を主張している。
カーオーディオから若かりし頃の草野マサムネの「きみのおっぱいはせかいいちぃー」と、あまりに場違いな歌が聞こえて来る。俺の心境とその歌のアンマッチ具合が絶妙におかしくて、ついサビの最後まで聞いてしまった。そして、エンジンを切る。少し落ち着いた気がする。
草むらの周りには誰もいなかった。夕方だとあの作業服の人の仕事終わりと、朝方だと犬の散歩をする人とバッティングする可能性があったので、昼前を狙った。
草むらの前で、錆びた鉄板を改めて正面から見てみる。汚いし、ハートマークなんて全く見えやしない。
アクセサリー買ってほしいんだ、という言葉を思い出す。もちろん、何も買ってやるつもりはない。
この鉄板はカナミがいなかったら俺にとっての付けないアクセサリーにはなっていなかった。俺は思っているよりも大きなものをカナミからもらっている。でも俺達はもう、同じものを返すことが平等な関係ではない。
草むらの中に鉄板を放る。鉄板は草を倒し、その上に乗るようにして落ち着いた。せっかくならもっとちゃんと隠れて欲しかった。
涙が出た。我慢していたつもりはなかったのに、両目から一滴ずつ頬を伝った。一回拭ったら、次の涙は我慢できた。
俺はまだ何も諦めたわけじゃない。
涙でぼやけた視界が元の形を取り戻したところで、草の上に乗った鉄板の少し奥側の地面に穴が空いているのが見えた。この間鉄板を探しに来たときも、さっきも見つけられなかった穴だ。直径十センチくらいの、そこそこ大きい穴だ。一体、何の巣なんだろう。
すると、その穴から白いTシャツに黄土色の繋ぎ、緑にキャップを被った、白いふさふさの髭が特徴的なまるで毛糸の人形のようなおじさんがノコノコと出てきた。
芋掘りおじさんだ。
「君がマサルくんか」
芋掘りおじさんは、おじさん特有のトーンが高くて詰まったような声でそう言った。
芋掘られちゃうー、の心の中だけで思った。
「そうです」
「この鉄板、欲しかったんだ」
芋掘りおじさんは鉄板の端を掌で叩く。本来だったら聞こえてきそうな音が全く聞こえない。掌の面積が小さすぎるのかもしれない。
「人って、芋を掘られるとどうなるんですか?」
「ん? 人と芋は別物だろう? 芋を掘っても芋が出てくるだけだ」
どうやら、この芋掘りおじさんは俺の知っている芋掘りおじさんと少し違うようだ。
「その鉄板、どうするんですか?」
「なくすんだよ」
「なくす? 捨てるんじゃなくてですか?」
「いいや、綺麗さっぱりなくす。もっと言うと、なくすことが重要なんじゃなくて、ないことが重要なんだ」
「俺はあっても良いんじゃないかと思いますけど」
「これは元々ないものなんだ。枠組みを与えると、枠の縁が本質をちょん切ったり、隙間ができたりしていけない。枠組みがあっていいのは芋くらいのものだよ」
「そうなんですか」
「君はなんでそんなに形にこだわるんだ?」
俺は形にこだわっているのだろうか。こだわるってなんだろう。
確かに現実問題として俺には形がなければいけなかった。でも、俺はないならそれはそれで良いと思っている。それどころか、できることならその方が良いとまで思っている。
いや、何か違う。
「本質をねじ曲げてまで、何がそんなに欲しいんだ?」
本質なんて高尚そうな概念を出されても、俺は本質という形に興味はない。
そう、本当は、なんて考える必要がないのだ。
俺は自分を自分以外のものを明確に区別する必要があったのだ。形がない方が良いというのは、自分以外のものに対しての感情だ。俺はその区別が曖昧だったから、まさにないものねだりをしていたのだ。俺は形があることにこだわっている。
俺は一歩分だけ、他人よりも子供だ。そして、その一歩分だけ子供の自分でいたかった。
「好きなんですよ、ただ単に」
「形がか?」
「形にこだわる自分が、です」
「そうか、ならいいんだ」
芋掘りおじさんは「よっこいしょ」と言って、鉄板を持ち上げた。
「ところで、話は変わるんですけど、ナコスって知ってます?」
「いや、知らないな」
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