第2話 スニーカーとアクセサリー

 翌日の夕方、わずかな可能性をかけて、俺は鉄板を拾った橋の下に来ていた。売られた鉄板にはなんとなく価値がないような気がして、もう一度鉄板を拾えないかと来たのだった。

 草むらをかき分けているところなんて誰にも見られたくないので、雑に草むらをかき分けておおよそで見る。週刊誌や空き缶は捨てられているが、鉄板はない。


 脇道に停めた車に早足で戻ろうとしたが、手元に鉄板がないという事実と、探し方が雑すぎたという後悔と、辺りに人の気配がないという感覚が、踵を返させた。

 今度はちゃんとしゃがみこんで、草の根っこまでかき分けた。五枚入りカードのパッケージとか、ビンの蓋とか、パチスロのメダルとか、さっきは見つからなかったものが何個も見つかった。でもやっぱり、鉄板は見つからない。


「なんか探してる?」


 突然後ろから話しかけられて、体が跳ねた。振り向くと、作業着を着た男が中腰で俺のことを見ていた。男は四十代くらいで太っても痩せてもいなくて、作業着はちょっと汚れているけど清潔な印象を与える人であった。俺があまりに驚くものだから、次の言葉に困っている様子だった。


「あ、いえ」


 俺も人と話すとは思っていなかったので、選ぶ言葉を持ち合わせていなかった。

 少し気まずい沈黙があったあと、


「一緒に探そうか?」


 と男は言った。

 なんて答えようか。落ち着いて、慎重に言葉を選ぶ。


「いや、何かを落っことした訳じゃないんですけど、前にここで鉄板を見つけたことがあって」


「鉄板が欲しいのか」


「そうです」


 すると男は作業ズボンの尻ポケットから、五センチ角の鉄板を取り出した。

 俺が持っている鉄板の錆びる前の姿のままだった。あまりの衝撃に「え」と大きい声を出してしまった。


「こんなんでいいか?」


「ベストサイズです。なんで」


 なんで、の後の言葉が続かなかった。「なんで、ですか?」


「前に見つけたっていうのも、多分俺がここに捨てたやつだな。仕事柄、こういうのを持ってたりするんだ」


 とは言うものの、なんだか腑に落ちなかった。

 俺が腑に落ちるような理由を考えていると、


「仕事で出た端材だ。本当は会社に廃棄物置き場があるんだけど、あとで捨てようと思ってポケットに入れっぱなしにしちまったりするんだ。また会社に持っていこうと思ってポケットに入れておくと、また忘れて洗濯したりするから、忘れない内にここに捨ててるんだ」


 あんまり他の人には言わないでくれよ、と胸元の社名のロゴを手で隠して男は笑った。


「とりあえず口止め料でこれやるよ」


 俺は鉄板を受け取った。多少の指紋と脂の痕はついているが、俺が中学生のときに拾ったものとほぼ同じものだ。ただの五センチ角の鉄板で、確かな質量を持った現実のものではあるが、それを持っているという俯瞰の第六感が、俺を幻想の世界に迷い込ませていた。


「こんなに都合よく綺麗なサイズが手に入るものなんですか?」


 あまり聞き過ぎるのも馬鹿みたいなので、これだけ聞いて、質問はもうやめようと思った。


「同じ案件の端材だからな。材料のサイズ決まってるから、残る端材のサイズは毎回同じなんだよ。あれだ、これはお兄さんが見つけたのと合わせて二枚目って訳じゃないぞ。ここ十年で五十回くらいはやってる。このサイズ、ポケットに入れやすいから何回もやっちまうんだ」


「そうなんですか」


 見た目よりも口調は乱暴で、よく喋る人ではあるが、多分良い人なんだと思った。

 意図せずして、同じような鉄板ではなく、同じ鉄板が手に入って俺は満足だったが、少しこの人と話してみたいと思った。今すごく気分が良い。

 でも適当な話題が見つからなかったので、お礼を言ってその場をあとにした。


 帰りの運転中、男が指輪をしていなかったのを思い出して、結婚していないのか、という質問をしたらどうだったか、と考えたが、よくよく考えると失礼なことだなと考え直し、やっぱり気分に任せて余計なことを言わなくて良かった、と思った。



 家に帰ると、やはりこけしとあべしが喜んで玄関まで迎えに来た。いつもと同じように、あべしが俺の手を咥えてリビングに引っ張る。それを見たこけしが俺の部屋に逃げる。

 あべしはリビングのソファに飛び乗り、腹をさらけ出して撫でて欲しいと主張する。撫でてやると前足も後ろ足も開いて、体いっぱいに愛を受け入れようとする。撫でるのをやめると、前足を招くように動かして撫でて欲しいと主張する。それでも撫でないと、今度は俺の顔を舐め回して愛を表現する。


 あべしと触れ合っていると、これ以上に純粋な愛はないんじゃないかと思う。こけしや他の犬が必ずしもそうでないことを考えると、本当はそうでないのだろうけど、少なくとも環境や思考に大きく影響を受ける人間よりは、よほど純粋なのだと思う。そして俺は、鉄板にそんな純愛を見ている。


 あべしの頭を撫でて、鉄板にカッターナイフでハートマークを書く作業に移った。角ばったハートマークを書くのはそれほど難しくないし、元々のハートマークにかなり近いものを書けたのではないかと思う。でも、前の鉄板を剥がすということに抵抗を感じ、結局新しい鉄板は小物を入れる引き出しにしまった。

 俺はどうしたら満足できるのだろう、と思って、ひとまずビニールを貼るセロハンテープを新しいものに交換した。






 明日はナコスと買い物に出掛ける。(本名はナコというのだけど、俺が勝手にナコスと呼んでいる)適当に服を見たり、電気屋を見たり、飯を食ったりする。

 一般的にはそれをデートと呼ぶのかもしれないけど、俺とナコスは付き合っていない。それどころか、ナコスに彼氏がいるのかどうかも知らない。でも、俺はナコスのことを意識し始めていることを自覚していた。

 カナミへの恋を忘れた後も、その一途に恋をしていたという事実だけは大事にしたくて、少しでも好意を覚えそうになった女も忘れてきた。そんな気持ちでいなければうっかり恋をしそうになってしまっていたのも二十歳くらいまでだったけど、それ以降はまったく恋から無縁でいた。


 ナコスとは専門学校で出会った。当時はお互いに顔見知り程度であったが、一昨年専門学校の最寄り駅の駅前で友達と待ち合わせをしていたときに、偶然再会した。そのときは少しの話と連絡先の交換をしただけであったが、二ヶ月に一回くらいの頻度で暇な日があるとナコスから連絡が来て、一緒に出掛けるようになっていた。


 最初の頃は友達とのコミュニケーションの一つくらいに思っていたが、去年の秋頃からこの時間を楽しみに感じ始め、その次の買い物のときにはもう恋かもしれないと思ってしまっていた。大人になるとは、自分への興味を失うことなのかもしれない。

 でも、俺にとっての恋とは一途で、ハートマークが書いてある鉄板を机の裏に貼り付けることだったので、スニーカーに履き替えてしまった俺はその足跡をつけられずにいた。

 今日の夜、卓球をするのはやめよう。



 いつも俺達は再会を果たした駅前で十二時に待ち合わせをする。思い出の場所だからという訳ではなく、単純にお互いの家からの距離が丁度いいからだ。しかも、駅にはデパートも併設されており、駅から三分くらい歩いてもショッピングモールがある。学生のときにはゲームセンターや雀荘にしかお世話にならなかったので、デパートやショッピングモールとは無縁だと思っていたが、今はこちらの方がありがたい。


 ナコスは待ち合わせ時間の十分前に来た。ナコスは小柄で、太っているわけではないけど顔の形とショートボブの髪型で丸い印象を与える。いつもと同じように、ナコスは小さく微笑んで、無言で小さな手を振る。グレーの少しゆるい半袖のカットソーと、淡い緑の少し丈の短いガウチョパンツ、黒いショルダーバッグ、紺のサンダル。アクセサリーはつけておらず、過去にもつけているところを見たことがない。


 レディースのファッションは、なんかこういう服装流行ってるなあくらいでしかわからないし、そもそも女の服装というものをカナミも含めほとんど気にしてこなかった。でも、ナコスを意識し始めてから、ナコスの服装だけ気になるようになった。多分それは、似合っているという理由付けをしたいがためなんだと思う。ただ、気になるようになったという割には、そこにある哲学までは理解できていない。


「おひさ」


「毎回おひさだけどね」 


 ナコスはふふと笑う。


「昨日、スリッパで芋掘りおじさんから逃げる夢見てさ」


 とナコスはいきなり始めた。


「芋掘りおじさんて誰」


「わかんないんだけど、わたしはその人のことを芋掘りおじさんだと思ってて。みんな芋掘られちゃった、わたしも芋掘られちゃうー、って逃げてるの」


「芋掘られちゃうーの感覚わかんねえよ」と俺は笑う。


「そう、わかんないの」とナコスも笑う。


「それで、スリッパだからすごく走りづらくて怖くて、でも、そういえばスリッパだから空飛べるって思って、空飛んで事なきを得たんだけど」と言って、いっひっひとナコスは笑った。


「不思議じゃない? 夢の中だと考えてることまでおかしくなっちゃうのって」


「そうだね。夢の中って、なんか常識が違うっていうか。俺もこの間、鉄板の上で犬と卓球する夢見たわ」


「なにそれ、わたしもやりたい」


 特にどこへ行くと決めていたわけではなかったけど、足はショッピングモールの方へ進んでいた。ナコスもよくわからないで付いてきていると思うが、そのままショッピングモールに向かった。


 ちょっとギリギリかもしれないが、昼時の混む時間を避けてイタリア料理店に行こうという話になり、遠目からイタリア料理店の混み具合を見た。それほど混んでいるようには見えないので、そのまま向かう。中を覗いても空席が見えたので、ここで昼食を食べることにした。


「わたしカルボナーラ」


 ナコスは座るとメニューも見ずに言い放った。


「決め打ちかよ」


 メニューになかったらどうするんだろう、と思ったが、イタリア料理店だったら流石にあるだろうと思い直した。


「じゃあ俺ミートソース」


 と、俺もメニューを見ずに言った。


「ミートソースは逃げだよ」


「カルボナーラも変わらんでしょ」


 結局どちらもあって、さっと食べ終わった俺達はまたあてもなくブラブラと歩き出した。



「ナコスってアクセサリー付けないよね」


 一般的に誓いというものは有形化される。陶芸で成形した粘土を焼いて固めるように、"そういうもの"にしてしまう。そうすることで、それは扱いやすいものになるし、完結したもののような安心感を覚えることが出来る。

 だが逆に、無形のものを無形のまま扱うからこそ、純粋な価値がそこにあるという考え方もある。あべしの愛のように。すべてがそうできるのであればそうしたかったが、俺は自分がそんなによくできた人間だとは思えず、鉄板に頼らざるを得なかった。


 もしナコスが無形のものを無形のまま扱える人間であったら、形にはしていないものの確かに存在する愛を聞き出してしまうのではないか。そして、俺は鉄板を裏切ってしまうのではないか。そう思って、今まで話してこなかった話題だ。

 でも、俺はナコスのことを知りたいと感じていた。少なくとも、鉄板があるところまでは。それに、愛を暴くようなことになる可能性は低いと、漠然と感じていた。


「ピアスとか、ペンダントとかってこと?」


「そう」


「付けないねー」


 ナコスはそう言うと黙った。

 あまり触れられたくない話題なのか、何かを考えているだけなのか。

 触れられたくない話題だった可能性を考えると俺は言葉を続けられないのでそのまま待つ。


「例えばさ、服って着ると温かかったり、世間体を保てたりするでしょう? で、ついでにオシャレできるじゃん」


「うん」


「でも、アクセサリーってオシャレしかできないじゃん。わたし効率的なんだよ」とナコスは笑った。


「なるほど」


「冗談だけど」


 俺は困った。


「ものが自分に与える影響ってあるじゃん。えっと、例えば、自分がかっこいいと思ってる靴を履いているときと、ダサいと思ってる靴を履いてるときって、別の人間になったんじゃないかってくらいの気持ちになるし、行動だって変わってくるでしょう?」


 全部見透かされているような気がする。


「わたしの場合、何かがない、っていうこともそこに入ってくるんだ。ピアスがあることによる影響よりも、ピアスがないことによる影響の方が、わたしは好き。ってこと」


 俺はナコスのことを知りたかったが、鉄板が立ち塞がってそれ以上のことは聞けなかった。


 十六時くらいになると、ナコスは用事があると言って帰った。

 俺は夜ご飯も一緒に食べるものだと思っていたので、物足りない気持ちのまま帰路に着いた。その電車の中で、カナミから「結婚することになった」というLINEが入った。結婚式も挙げる予定だから、詳細が決まったらまた連絡する、と続けられていた。

 


 家に帰ると、こけしが喜びながら出迎えてくれた。今日は家族も出かけており、家に誰もいなかったので寂しかったのだ。

 だが、いつまで経ってもあべしが来ない。もしかしたら家族がどこかへ連れて行っているのかもしれない、と思ったが、こけしだけ残っているのはおかしかった。

 とりあえず、リュックを下ろそうと自分の部屋に戻ると、あべしが横になっていた。寝ているのとは明らかに違う絶望が漂っていた。

「あべしっ!」

 あべしはもう死んでいた。


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