ハートゴールド

だくさん

第1話 錆びた鉄板

 机の裏に貼り付いた五センチ角くらいの鉄板は、錆をまとってまだそこにいる。

 中学生だった頃、ゲームとか漫画とかのキャラクターと、その攻撃力やらレア度やらが書かれたシールが流行っていて、俺はそのシールを全部机の裏に貼っていた。

 今のカードゲームみたいに、戦わせたり、それを使ってゲームをしたりすることはできなかったから、机の裏に貼り付けたところで困ることはない。そのシールを持っていることが重要だった時代だ。


 当時、下校途中の駄弁りスポットだった橋の下の草むらにその鉄板はあった。綺麗な四角形の鉄板に魅力を感じた俺はそれを持って帰り、シールの並びに両面テープで貼り付けて、最強のシールということにしていた。

 でも、あまりに質素な見た目であったので、当時好きだったカナミへの一途な愛を象徴したいという気持ちも込めて、カッターナイフで角ばったハートマークを書いた。これで俺の最強のシールは完成し、他のシール達が剥がされていく中、今もずっと生き残っている。


 ただ最近、錆が酷くてもはやハートマークは見えないし、短パンから出た太ももが鉄板に触れて錆が付く。すごく体に悪そうだし、汚いのでいっそヤスリで削ってしまいたくなるが、ハートマークの傷は浅く、削ったらなくなってしまいそうで、何も手をつけられていない。

 今日も面倒だなと思いながら、俺は洗面所でタオルを濡らし、ゴシゴシと太ももを拭く。



 土曜の夜は地元の中学校の体育館で、卓球をしている。

 中学校の卓球部の子から、OB、地元のおじさんおばさんが集まっているのだけど、最近は集まりが悪くて、いても十人くらいだ。

 俺はOBにあたるポジションであるが、同じくOBとして来ているのは他に三人だ。その内の一人は、初恋の人のカナミだ。


「あつーい。アイス買ってきて」


 カナミは第一声でそういった。他のおじさんやおばさん達とは必ず「こんばんはー」と挨拶を最初に交わすが、俺達は中学生のときと変わらず、そういうクッションはない。


「俺は暑くないから、あなたが買ってきなさい」


「ならいいや」


 俺は同級生の男と、カナミは同級生の女と二時間卓球をして、汗を流した。

 卓球が終わると、大体いつも体育館の外の石段でOBメンバーと二時間くらい駄弁ることになる。メンバーは日によって違う。

 帰っても良いのだが、翌日も休日なのでまあいいだろうくらいの感覚で、ここに残っている。多分、他のみんなもそうだ。


 今日は、同級生の男は翌日に遠出、同級生の女は疲れたから、という理由で、俺とカナミだけが残った。 


「そういえば新しいマックシェイク出たよね。あれ飲んでみたい」


「そうなん? 知らなかった。何味?」


「メロン味。でも色が白いんだよ」


「へえ、今度飲んでみようかな」


「今度みんなで行こうよ」


「そうだな」


 多分行かないんだろうな、と思う。学生の時は学校があったから、部活があったからご飯を食べに行ったりすることもあったけど、今その理由となりうるものは思い浮かばない。昔と違って、今は何をするにも"わざわざ"がつくから、実態以上に面倒くさがりな人間になったように思えてしまう。あるいは、理由があったから実態が隠れていただけかもしれないけど。


「そのスニーカー、いいな」


 カナミは緑の地に黄色のラインが入ったスニーカーを履いていた。そのスニーカーに出会えることと、それを選ぶセンスと、それを先に履くことのすべてが羨ましかった。でも、そのスニーカーを欲しいとは思わない。


「これは彼氏が選んでくれたんだよね」


「お前の彼氏いいセンスしてる」


 中学三年のとき、俺達はまだいわゆるダサい運動靴を履いていたが、カナミは一早く(それでも周りよりは遅かったかもしれない)カジュアルなスニーカーを履き、髪をショートにし、いわゆるボーイッシュスタイルを取り込み、自らの魅力を主張し始めていた。多分その頃から、俺はカナミに魅力を感じなくなってきていた。

 そう振り返れるようになったのは俺が高校生の頃で、その頃には俺もカジュアルなスニーカーを履いていた。もしかしたら、俺もその頃から一色ずつ色彩を失ってきていたのかもしれない。


 この石段は駐車場に面している。そこには俺達が乗ってきた車と、グラウンドで野球をしている人達の車が停まっている。俺は実家の車だが、カナミは自分の車を持っている。


「あたし結婚するかも」


 カナミは突然そういった。ドキリともヒヤリともしなくて、そのことの方が驚いた。


「やったやん、おめでとう。俺の初恋は実らなかったけどね」


「いや、そんなこと言われても」


 困ったようなことを言うけど、カナミは普通に笑った。カナミの笑顔は種類が少ない。

 カナミは俺の手を取って、掌に指でハートマークを書いた。


「これで許してね」


 カナミの握っている方の手には指輪がついている。

 この駐車場も、少し禿げた砂利も、柵の内側に沿うように植えられた木の細さともっさりした緑も、変わらない。

 カナミもみんなも、多分言うほど変わっていない。変わった部分だけが目に付くからそう見えるだけだ。でも俺達はコンパスの針をそのままに楕円を描くことができるようになってしまったものだから、被るはずの場所が被らないモヤモヤを、寂しさとか呼んでいるのだ。

 夏の夜と言えど、汗をかいた肌が夜風にさらされて、少し冷えてきた。

「帰るか」



 家に着いたのはもう日を跨いだくらいの時間であったのに、二匹の愛犬の"こけし"と"あべし"が出迎えてくれた。

 あべしは飼い始めた当初から人懐っこく、すぐに家族の愛を受け入れ、また愛を表現するようになったが、こけしは臆病な性格で、飼い始めてから八年経った今も、立ち上がったり動いたりするだけで驚いて逃げようとする。

 そんなこけしも、おやつのときと家族が帰宅したときだけは喜びを体と頷きのような声で表現する。二匹をひとしきり撫でたあと、あべしが俺の手を咥えてもう電気の消されたリビングへと連れて行く。その動きを見たこけしは驚いて、俺の部屋のベッドの隅っこに逃げる。 


 あべしは最近、机の裏の鉄板を舐めようとする。変な病気になったら困るのでなんとかやめさせたいのだが、鉄板に何か手を加えるのも気が引ける。苦肉の策で、八センチ角くらいに切った透明なビニール袋を鉄板の上にセロハンテープで貼り付けている。俺の机は表面がビニールクロスなので、セロハンテープだと剥がれやすいのが不安だ。四辺に何重にもセロハンテープを貼り付けて、今のところは剥がれていないが、あまりに心許なかった。


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