2.11 悪夢

 夢を見た。


 旧マンハッタン地区を突き進む遊覧船の底部、透明な強化プラスチックに覆われた船底は電気が消えていて、薄暗い船室には不自然な程に、海の青さが染み込んでいた。


 わたしの隣にはひかるがいた。


「旧ウォールストリートに入ります」


 聞きなれた声のアナウンスがどこかから聞こえた。天井から降ってくるようにも、心の底から湧き上がってきたようにも、耳元で囁かれたようにも感じる。声のした方が分からなくて、周囲を見渡すと、声の主は船底の中央に直立不動の姿勢で立っていた。その純白のスーツ姿は背後の窓プラスチックには反射していない。ただ、もうぞくっとしたりはしない。Rの人間じゃない。ARだ。


「連絡主はF2Fインタフェースによる対話を望んでるよ」


 どこかから、〈テラ〉の声が聞こえる。ああ、スマートスピーカーを彼女の背後のテレポートしてやらなきゃ、と思ってわたしは足元に置いた鞄をまさぐった。紙の本が並んで入っているだけだった。しかし、順番がいつもと違う。きっとジャイアンがいたずらしたんだ、とわたしは結論付けた。


「ねえ、真弓、こっち」


 ひかるに呼ばれ、窓に顔を寄せたわたしのすぐ目の前にレンガの壁が見える。割れたガラスの向こうを見ると、そこはわたしが通っていた小学校の教室だった。窓辺に保科くんが立っていて、今にも飛び降りようとしている。そんな彼を止めようと叫ぶ生徒たちの群れが向こう側の壁にいた。〈カメレオン〉を着た十七歳のわたしもその中にいて、〈カメレオン〉の色を奥の壁に同化させ、そのまま見えなくなった。


 彼は叫んだ。


「飛び降りれば、テレポーターでないと証明できるんだろ?」


 制止の声から逃げるように、彼は飛び降りた。危ない!


 わたしはいつの間にか〈ナビゲーテル〉を起動していて、テレポート対象に保科くんを念じていた。視界の文字が表示される。


 重量オーバー。対象物体に位相破壊を引き起こす可能背あり。


 わたしは迷わなかった。奈落へと落ち行く彼の体を船室にテレポートさせた。


 振り返った先、ヴィオラの目の前に〈断裂〉した保科くんの片割れが――上半身だけが横たわっていた。その断面はぐちゃぐちゃで、ブルックリン橋のワイヤーが垂れ下がるみたいに、ダンゴムシの神経が断面から飛び出しているみたいに、彼の腸らしきものが断面から強化プラスチックの上に投げ出され、どくどくと血を吐いていた。すぐに血は固まり、底部の一面は黒板みたいに黒くなった。彼の指はチョークを握っていて、気が付けば黒板には白く文字が書かれていた。

この船室にエウロパ人がいる!


 横に目を向けると、ひかるは窓の外の世界に没頭している。保科くんは上半身だけで叫んでいるが、過集中状態のひかるはまだ保科くんには気付いていない。


「だから違うって! 俺じゃない!」


 わたしは叫ぶ保科くんの上半身を船底のすぐ真下にテレポートさせた。彼はしきりに口を動かしていたが、ゴボゴボと空気を吐くだけで、彼の叫びは聞こえなくなった。ウォールストリートを進んでいるはずで、船底の両舷側にはビルの側壁が見えるのに、いつの間にか海底は遥か下方の闇に飲まれて消えていた。底の見えない奈落へと彼は息を吐きながら沈んでいった。彼の吐いた気泡が船底のプラスチックに当たる度、彼の血が作った黒板も融けて消えていく。黒板が跡形もなく消えた頃、船底を打ち付ける気泡もなくなった。


 程無くして、船底は更に青い光に包まれた。かつての摩天楼の側壁は遥か後方に流れ、わたしたちを乗せる遊覧船は海へと駆り出したように思えた。


「アッパー湾に入ります」


 再びヴィオラのアナウンス。


「真弓、上に行こう」


 そう話しかけてきたひかるの目の中で道案内ARの赤いラインが走る。〈ARトラッカー〉を起動するまでもなく、その矢印は船底から上部へと続く階段を指しているのが分かった。しかし、階段を昇ろうとしたとき、何か軋む音が上部から聞こえてきた。わたしは直感した。


 誰かいる。


 ひかると共に足を忍ばせながら階段を昇る。そこは自宅の二階だった。奥のドア――わたしの部屋へと続くそれを開ければその向こうに甲板があるはずだったが、そのドアの前に立つと、向こうから女性の喘ぎ声が聞こえてきた。聞き覚えがあった。


 松村さん。


 どうしようとひかると顔を見合わせていると、階段を昇る足音が聞こえた。そちらに目を向けると、ヴィオラが昇ってきたところだった。


「甲板へ行きたいなら、テレポートすればいいことでしょう」


 わたしはひかるの目を見た。ひかるもまた、わたしの目を見返し、首を傾げた。わたしはヴィオラを睨んだ。


「ひかると縁を切れっていうの?」


「仕方ないことでしょう。それとも、ノブリス・オブリージュをという言葉をお忘れですか?」


 ドアの向こうから聞こえるベッドの軋むリズムが速くなった。


「あなたには、テレポーターと非テレポーターとの溝を埋める義務がある。それを放棄し、今まで通り非テレポーターの振りをしてのうのうと生きることは、後代のテレポーターすべてを苦しめることと同じなのです」


「そんなこと分かってる!」


 そう吠えた直後、わたしの右手に添えられる手があった。ひかるだった。


 ひかるはそっとわたしの右手を胸程の高さまで持ち上げて、わたしの掌にある丸い月をまじまじと見つめた。


「ねえ、真弓」


 ベッドの軋む音と喘ぎ声の不協和音が耳を圧迫し、靄がかかったように、視界を白く染め始めた。


「これ、何?」


 わたしは右手を引き抜いて、助けを求めるようにヴィオラを見た。ヴィオラの顔は既に〈ナビゲーテル〉が視界に表示させた靄に包まれていて見えない。辛うじて見えた口元が動いて何かを言った。声はかき消されて聞こえなかったが、それでも何と言ったかは読み取れた。


 ――自分にどれだけの力があるか、認めなさい。


 掴もうとしてくるひかるの腕も、卑猥な声も、包みゆく白い靄もすべてを振り払うように、わたしは声にならない叫び声を上げた。


 次の瞬間には、聞こえるのは波の音とエンジンの唸る音が奏でる単調なリズムだけだった。時折、海鳥の鳴き声がアクセントに彩りを加えている。


 わたしは遊覧船の甲板にいた。逃げてきた。一人で。ひかるを置いて。


 雲一つない青空と青い海を行く船の上から後方に目をやる。既に、マンハッタンの海上摩天楼の林は遥か遠くの水平線に飲まれようとしている。


 突然、甲板が黒い影に覆われた。振り返ると、船が行く先には、微かに傾いた黒い板が海上から突き出ているのが見える。脇にある自由の女神像と比べると、そのサイズはあまりにも巨大で、一体どれ程の高さか、どれ程の遠さか皆目見当もつかなかった。船は〈黒いモノリス〉の麓へと向かっているらしい。


「わあ!」


 背後から無邪気が飛んできて、思わず振り返ると、船底へと続く階段からひかるが上がってくるところだった。


「あれが〈黒いモノリス〉か。でかいねー」


 何もなかったかのように目を輝かせたひかるはわたしの脇を抜け、甲板の淵へと駆け寄る。わたしは振り返れなかった。


「ひかる、ねえ……」


 わたしは振り返らないまま呼びかけた。


「なあに?」


 甘い間延びした声でひかるは答える。


「あれ、凶器じゃないの? 〈新人類同盟〉がひかるの祖父母を殺したときに使った」


「そうだよ」


 今度は声のトーンを下げ、唾を吐くようにひかるは言った。翻って、手すりにもたれかかったまま〈黒いモノリス〉を見上げるひかるの背中を見据える。


「憎く……ないの?」


「憎いよ」


 ひかるは即答した。けれども、他人事のようにあっさりとした口調だった。海を駆け抜けた風がわたしたちの間を抜け、ひかるのスカートをはためかせる。


「憎いに決まってるじゃん。何の罪もない祖父母が殺されてるんだよ。それで許せって方がおかしいよ――そうでしょ、真弓?」


 ひかるは振り返り、両腕を開いて手すりに寄り掛かった。モノリスがもたらす影は黒く、ひかるの表情を闇の中に隠してしまう。


「ねえ、真弓、教えてよ。テレポーターとして生きるってどういう気持ち?」


「わたしは――」


 相変わらず、わたしは両手を後ろに回し、右手で左手の腕時計端末を探ろうとする。けれども、わたしの左腕にそれはなかった。


「悪いけど、〈ソフィスト〉も〈プロンプター〉も今回はなし」


 ひかるはポケットから、わたしがしているのと同型の腕時計型端末を取り出した。端末が震えた。


「真弓、僕だよ、〈テラ〉だよ。助けて!」


「わたしは、テレポーターと非テレポーターが手を取り合える世界をつくりたい!」


 反射的に叫んだが、ひかるは口角を少し上げただけだった。


「嘘」


 低く呟き、腕時計型端末を海に向かって放り投げた。


「うわあああ!」


〈テラ〉が悲鳴を上げる。何とかテレポートして手元に呼び戻そうとしたものの、モノリスの影がそれを隠してしまった。腕時計型端末は見えなくなったが、それでもテレポートを実行した。


 わたしの手の中に、真っ二つに切れた腕時計型端末があった。


 その断面から、〈テラ〉の声が漏れる。


「おやすみなさい、真弓」


 腕時計型端末はすべての光を失い、〈テラ〉は消えた。


「うち、知ってるよ。本当はうちのこと、テレポーターじゃないからって馬鹿にしてたんでしょ」


「そんな、違――」


「じゃあさ、証明してよ。真弓が、謙虚で、善意ある、無力な人間にも優しいテレポーターであることを」


 地鳴りが海を揺らし、甲板が大きく傾いた。思わずよろけそうになるのを何とか堪えると、今度は空を覆う影が大きくなった。いや、違う。


〈黒いモノリス〉が、こちらに向かって倒れてきている。


「真弓はさ、強力なテレポーターなんでしょ。だったら、あれ、何とかしてよ。このままだったら、うち死んじゃう」


 わたしは〈ナビゲーテル〉を起動した。視界を青いラインが迸り、わたしの念に応じるように空を覆う黒い影を認識し、その輪郭を青く縁取る。


〈ナビゲーテル〉はすぐにそれを〈黒いモノリス〉と認識した。そして、その青く縁取られた輪郭の脇に警告が表示された。


 テレポート不可。


 わたしは念じ続けた。すべての力を振り絞り、歯を食いしばり、血を沸き立たせ、念じる。小さな月が刻まれた右手をかっ開き、掌の月とモノリスとを突き合わせる。


 それでも、テレポート不可の文字が消えることはなかった。


 やがて、空は黒く染められて、輪郭を縁取る青いラインは視界の外へと出ていった。


「真弓、助けて!」


 ひかるの叫び声が耳の裏にこべりつく。


 わたしは目を閉じた。




 目が覚めると、暗闇の向こうでひかるらしき影が丸まっているのが見える。かすかに寝息が聞こえる。


 掛け布団を引っ剥がし、汗でこべりつくようなパジャマを脱ぎ捨てた。


「おはよう、真弓」


〈テラ〉が優しく耳元で語り掛けてきた。


「無事だったんだ」


「夢の中で僕を殺したの? 真弓のいじわる」


「今、何時?」


「午前四時三分だよ」


「ああ、それならおはようで合ってるか」


 自分でそう言って、自分で引き笑いしながら首を傾げた。何言ってるんだ、わたし。


「悪夢を見た後に相応しい、心洗われるレクリエーションVRを三本レコメンドできるけどどうする?」


「コンタクトディスプレイ外してるからやだ」


「だったら、スマート内耳経由で、AI作曲家のクラシック名曲集百選なんてどうかな」


「遠慮しとく」


「真弓、ストレスは肌荒れの元になるよ。それに、今の精神状態だと真弓が三十分以内に寝られる可能性は二十パーセント以下と推定されるから、心を鎮めないと。フライトに差し支えが出るから、今回ばかりは僕のアドバイスを聞――」


「〈テラ〉、


 彼の声がぷつりと消えた。枕元のスマートライトに照度を伝え、ひかるの安眠を邪魔しない程度の薄明かりをつけさせると、スーツケースの中から替えのTシャツを引っ張り出して着替えた。シャワーを浴びたい気分だったが、立ち上がるとふらふらしたからやめた。


 スマートライトに消灯を命じた後、わたしは体をベッドに投げうった。汗っぽくて生温かくて気持ち悪い。わたしは目を無理やり閉じたが、極圏の夏の太陽のようにわたしの意識の灯は沈む気配はなく、煌々と忍び寄る睡魔をいつまでも跳ね除け続けていた。

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