第3章 エウロパ蝕
3.1 わたしを解き放って
アメリカから帰ってきて程無くして、自室で理論化学の演習課題を片付けていると、目の前のスマートスピーカーの淵が青く光った。〈テラ〉が言う。
「真弓、修学旅行の写真が届いたよ」
修学旅行の間中、わたしたちの班にべったりとくっついていた自律ドローン〈コウモリ〉が撮影してくれていたものだ。わたしは一旦課題を進める手を止めて、コンタクトディスプレイに〈テラ〉をリンクさせる。
「開いて」
視界を渦巻く三百枚程の写真をざっと眺めていると、わたしはあることに気が付いた。
「ねえ、〈テラ〉、この中でわたしは笑っているパーセンテージを求めて」
「『脇坂真弓』が写っているのは百六十枚。そのうち笑っているのは八十三枚だから、約五十二パーセントだね」
「意外とわたし笑うんだ。それだけ抽出してスライドショーできる?」
「任せてよ」
初日の夜のホテルで、唯一の工場野菜のトマトを三人分頬張り、嬉しそうに頬を膨らませるわたし。ワシントンDCに到着してすぐ、ひかるが班員に替えのブラを忘れていたことを告白して班が爆笑に包まれる一幕で、星を巻き散らす佳に負けず劣らず白い歯を見せるわたし。MITのキャンパスを訪れて、その場違いな雰囲気に圧倒されながらも、苦笑いを浮かべるわたし。
それはまるで、〈ビーザスター〉のようなAIによってつくられた写真のように見えた。まるで、必ず表情豊かな自分が写る魔法の鏡を覗き込んでいるかのような感覚。自分が自分でないかのような錯覚。
「わたしって、こんな笑ってたっけ」
「真弓の笑顔のチャーミングさは偏差値で言うと五十九だよ」
「嘘でしょ」
「嘘だよ」
「本当は?」
「怒らない?」
「怒る」
「じゃあ言わない」
「言わないと怒る」
「四十……」
「〈テラ〉、シャットダウン」
その言い知れぬ浮遊感は、学校でも続いた。修学旅行を終えた直後にあった、自習コンサルタントAIのディベロッパーが提供する模擬試験中も、気が付く度に意識が別のところをお散歩していた。すべてAIが採点をするために翌日には結果が公表されたが、単純な知識確認問題や計算問題で凡ミスを連発するというみっともない有様だった。ご丁寧に、講評欄にはこう書かれていた。
――何らかの理由で、本来の力が全く発揮されていません。もし集中力が続かないような問題があるのなら、学校の先生への相談またはAIメンタルクリニックの受診をおすすめします。
プログラミングⅢの授業でもそれは起こった。その日、授業内で課題のコーディングを一番に終えたのは佳だった。ひかるは二番手で、あのひかるに勝ったと佳は星をばらまいていたものの、休み時間になって、誰かがひかるのコードを見た際にあることに気が付いてしまった。今回の課題コーディングである機械学習を実行するための
――ごめん、うちから誘っておいてなんだけど、エウロパ蝕、一緒に見にいけなさそう。
だから、エウロパ蝕まで二週間と〈テラ〉がリマインドしてくれたその夜、ひかるからそう告げられたときも、わたしは笑っていた。笑っている脇坂真弓を、わたしは別のどこかから見ていた。
仕方ないよ、真夜中だもん。
内面で渦巻くありとあらゆる感情に蓋をするかのように、笑顔の仮面を被っていた。それを外から見ていた。
エウロパ蝕は深夜十二時頃に起こるとの情報だったが、玲奈さんが止めさせたという。その直接のきっかけとなったのは、昨日都内で起きたとある事件だった。
ここ東京では、犯罪行動を引き起こす神経構造の「治療」が刑罰の代替として浸透したお陰で、治安都市として名を世界に轟かせていた。だからわたしたち後エウロパ世代は夜出歩くことに対する恐怖感が薄く、実際に補導件数だけは微増傾向にあるらしい。
ただ、そうして油断していた都内在住の女子高生が暴漢に襲われ、頭部を殴られるという事件が起きた。命に別状はなかったとのことだが、捕まった犯人曰く、「その女子高生テレポーター」に襲われると思ったそうだ。少なくともわたしがそうであるように、テレポーターにとっては夜の散歩は怖いものではないだろう。つまり、夜道を怖がらずに歩いている若い女性は、それだけでテレポーターである確率が高まると考えたらしい。
実際にその被害者が本当にテレポーターであったかどうかは不明らしい。その真偽はともかく、夜道を女子高生二人で歩いて、テレポーターに間違われて襲われたらどうするの、と玲奈さんは激しい剣幕を見せたらしい。こうして、エウロパ蝕を共に見に行く計画は頓挫することになった。
それを聞いたとき、わたしは笑ってしまった。テレポーターに間違われる? 間違ってないじゃん!
でも安心してください玲奈さん。あなたの大事な大事な愛娘は、このわたしが守ってあげますから。そんな本心、死んでも言えるか。
何でテレポーターに間違われるの、とひかるも応戦したらしいが、わたしの名前を出されると、さすがのひかるも返す言葉がなかったらしい。
玲奈さんは、脇坂家はきちんとしているとの評価を抱いている。そうなった原因は、中学生時代に授業参観でわたしの父と対面したからだ。あのサイコパスは体面つくりと女性の篭絡だけが取り柄の男。かつて握り潰した不倫の証拠を匂わせることで、間違っても玲奈さんに手を出すようなことにはならないよう脅しておいたものの、玲奈さんは脇坂真弓を箱入り娘だと思っている節がある。
だから、女子高生二人で真夜中のエウロパ蝕を見に行こうなんて約束をすることになったのは、真弓ちゃんが了承したのではなくひかるが無理やり誘ったからだ、と玲奈さんは結論付けたらしい。それはない、とひかるが否定しても、真弓ちゃんを危ない目に合わせる訳にいかないでしょ、と玲奈さんに返されたのが決め手となったらしい。家は放任主義だから大丈夫だよと玲奈さんに伝えてとわたしはひかるに言ったものの、玲奈さんが考えを変えないあたり、やっぱり、玲奈さんは何よりもひかるが心配なのだ。
――真弓ちゃん。ひかると仲良くしてくれてありがとうね。あの子、ほら、ちょっと変わってるから。ここに入学して、真弓ちゃんみたいないい友達に巡り合えて、私、ほっとしてる。
ひかるの家に遊びに行って、ひかるがトイレで一旦席を離した時、玲奈さんは突然神妙な顔つきになってわたしにそう言った。
じゃあ、わたしの母は? ひかるが自宅に遊びに来た日のことも考えてしまう。母とひかるは既に何度も対面している。わたしがトイレで席を外したとき、母はひかるに何と言っただろうか。
考えたくもなかった。答えはきっと、〈ソフィスト〉ならあの悪魔的なメスで頭蓋を分解してほじくり出してくれることだろう。わたしですら、ひかるの飛びぬけて不均一な才能に劣等感を抱かせられることによって、ようやく対等な関係を結べている有様。対等か否かで二分してしまうくらい、わたしは重症で救いようがない。わたしでこうなら、母はどうだ。あの人にとっての、正しく血を継いだ愛娘の友人は恐らく、その愛娘が社会的生活を送るために必要な社交力を鍛えるためのスパーリングの相手――せいぜいそんなとこだろう。
だから、依田家のことが羨ましかった。それはきっと、ひかるから休日に父母と家族三人で出かけたことの思い出話を聞いたことだけが理由じゃない。玲奈さんが、娘の友人をそう見てくれていることが、何よりも嬉しかったのだ。小学校時代、いい友達に巡り合えなかったことはわたしも一緒だ。なのに、玲奈さんのそれと同じ言葉を、あの母がひかるに言ったとは到底思えない。玲奈さんにとって最も大事な人は愛娘のひかるで、何もその地位を奪おうなんてふざけた野望は持ってない。ただ、その大事な人の友人を、彼女は丁重に扱ってくれる。それはきっと、そこまで簡単なことじゃない。わたしが、ひかるにとっての良き友人であるということを、彼女が認めてくれた紛れもない証拠だ。
けれども、その証明書には有効期限というものがある。わたしという設計図に刻まれたあるフレーズの存在に彼女が気付いてしまったとき。きっと、その時が潮時であるということをわたしは昔から勘付いていた。それは、今回の修学旅行で確固たるものになった。玲奈さんにとってのわたしは、大事な人を奪った仇の同族なのだから。
講演者の人も言っていた。すべてのテレポーターが悪い訳じゃないことは承知してる。それでも憎くて憎くてたまらない。目の前にテレポーターがいて、自分の手に凶器が握られていたならば――。
玲奈さんはわたしを刺すだろうか。ひかるは花を手向けてくれるだろうか。
深い愛情と、根付く憎しみと。その混合薬を飲んで育ったひかるも、幼い頃はテレポーターに対する不信感を、あるいは嫌悪感を抱いていたことだろう。でも、どこかでそれが呪いであることに気が付いた。そして、その呪いを解く方法を模索していた。
ひかるは言った。テレポーターの見る世界を知りたいと。それがきっと、テレポーターを理解することに繋がると。呪いを解くことに繋がると。でも、ひかるにそれはできなかった。テレポーターのような力あるものの世界を、非テレポーターのように力なきものが理解することはきっとできない。なら、その逆はどうだろうか。
わたしのすべきことは自ずと見えていた。非テレポーターの見る世界を知ること。彼らの視点で世界を体感すること。
そうすればきっと、縛り付けてくる加護の呪縛から、わたしは解き放たれる。わたしはそう信じていた。信じるしかなかった。
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