2.10 空っぽなわたし

 郊外のホテルに戻った後、同室のわたしとひかるの間に会話はなかった。互いに淡々とシャワーを浴びて、淡々と寝る準備を進める。


「ねえ、ひかる」


 重い沈黙にわたしは耐えきれなかった。ベッドに座ってタブレットをいじっていたひかるはわたしに目を向けた。こっちを向いたひかるの目に宿る光は案外、優しい色をしていた。


「ごめんね、重苦しい話しちゃって」


「いや、それはいいの。全然。気にしないで」


 思わず声が上ずった。


「どうかした?」


 こちらをまっすぐ見たまま、ひかるは訊いた。わたしは薄氷の上に足を踏み出すように恐る恐る言葉を発した。


「一つ、聞きたいことがあって」


「何でも」


「どうして映像史展でテレポーターの空撮を体験しようと思ったの」


 ひかるは目を反らした。わたしは続ける。


「テレポーターはひかるの祖父母を殺した悪人だよ。その彼らの世界を体験したいと思う?」


「真弓なら、すべてのテレポーターが悪人じゃないことくらい、分かるよね?」


 思わず返ってきた反駁にこちらも迎え撃ちたいと思ったが、ひかるの放った言葉は思っていた以上に、わたしの腕にのしかかっていた。


「だからね」ひかるは続ける。


「彼らの見る世界を知りたかったの。このままじゃ。うちの母みたいに、テレポーターを憎むだけの人間になっちゃう。彼らがどんな人間なのかも知らずに、ただその一部の人間が起こした犯罪だけでその全員に対して悪人というレッテルを張るのは間違ってる。

 わたしたちがまだ小さかった頃、東海地震のことは覚えてるでしょ? わたし、テレビで見たんだ。襲い来る津波から人々を救うテレポーターの雄姿をね。そこには〈ガニメデ〉の姿もあった。うちは、彼らを悪人とみなすべきだとは思えない。


 でもね、悲しいことに、うちという――依田ひかるという人間の、理性以外の部分はそう考えてくれないみたい。憎しみ。怒り。そういった負の感情が染み出すように沸き上がって、うちの心を支配しようとしてくる。だから、それを少しでも抑えたかった。彼らテレポーターを今まで以上に知って、彼らを憎まずに済む自分になりたかった」


 その結果は? 思わずその言葉が口を突いて出そうになった。わたしはすんでのところで食い止めた。けれども、その答えを自ら発したのはひかるの方だった。


「でも、だめだった。うち、結局はテレポーターも非テレポーターも同じ人間だって納得したかったんだと思う。でも、テレポーターの生きる世界は、人が蟻のようにしか見えない神の視点の世界だった。あれじゃ非テレポーターを旧人類と見下す気持ちも分かる――そう本気で思っちゃった。だからこそ、〈ガニメデ〉みたいに非テレポーターと共同で大きなプロジェクトに取り組んだり、〈カリスト〉みたいに悪意を直に向けられても我慢できたりするテレポーターを見るとね、思うんだ。どうしてあれだけの力があって、どうしてあんな世界に生きながら、驕らずに謙虚でいられるのって。うち、テレポーターのことを理解しようと思っていたのに、ますます理解できなくなっちゃった。

 だからさ、世界史の授業でマンハッタン事変のことをやったときもね。テキストで写真見たり、当時の状況についての文章を聞いていたりしてたらさ、そんなことを考え始めちゃって、思考に歯止めが効かなくなって、それで気分悪くなっちゃって……」


「やっぱり、貝に当たったってのは嘘だった」


「ごめん」


 ひかるはうなだれた。わたしもベッドに腰かける。


「ねえ、真弓」


「何?」


「無知なうちに教えてよ。どうやったらさ、テレポーターのこと理解できるの?」


 わたしは視線を下ろし、ひかるに見えないようにこっそりと右掌の月に目をやった。教えてよはこっちのセリフだよ。


 ねえ、兄さん。テレポーターって、何?


「真弓の意見も聞かせてよ」


 わたしのがら空きの側頭部に、ひかるの言葉が叩きつけられた。


「うち、聞いたことないよ」


 思わずひかるに目を向けると、そのまっすぐな目が、わたしの瞳孔の奥を覗こうとしてきていた。


「真弓はさ、どう思ってる訳? テレポーターのこと」


「わたしは、わたしは――」


 何か言葉を紡がなきゃと思った。記憶と思考が乱雑に押し込まれた書庫をひっくり返しひっかき回して、こぼれ落ちた中から使えそうな言葉を手繰り寄せる。何かしら、体面という虚像を形作れる意見を練ろうと苦心する。けれども、空漠な骨組からできた意見が出来上がる度、空中楼閣であることを知らしめるように、その虚像は瞬く間に霧散し、わたしが伸ばした手の中からするりと抜け落ちていく。嘘と加護とで塗り固めたわたしに、掴めるものなどなかったということを突きつける。


「わたしは――」


 それでも、取り繕わないといけないとわたしの中のわたしが叫んでいた。わたしはその声を一刻も早く治めたくて、わたしの頭の外へと手を伸ばした――ネットからそれらしき考えのテンプレートを引き出そうとした。


 後ろ手に、腕時計端末でこっそり〈テラ〉の標準搭載アプリケーション〈プロンプター〉を起動した。〈テラ〉の一時メモリに保存されていた一連の文脈分析とそれに伴うネット上の世論分析から、瞬時に当たり障りのない発言候補をレコメンドしてくれる。〈ソフィスト〉が商人の相棒なら、〈プロンプター〉は政治家の相棒。複数の発言候補がわたしの視界に表示された。わたしはその一つを選び、口調を変えて読み上げた。


「正直なところ、テレポーターとの共同生活がちょっとだけ怖い。でも、こうやって発言することすら、本当は怖い」


 わたしが声を発し始めても、ひかるはわたしの瞳をずっと見続けていた。コンタクトディスプレイに映る逆文字を読み取られないかと不安にはなって、またその瞳を見返す資格がない気がして、目を反らす。次のセリフが視界に浮かんできた。


「テレポーターのほとんどは、自分がそうであると隠して人間社会に生きている。だから、たとえ自分の隣にいる人間がテレポーターだとしても、気が付かない。もちろん、善良なテレポーターの方が多いのだから、それで仲良くできているならそれでもいい。でも、体内への異物転移だったり、それからマンハッタン事変だったり……こういった事例を見せられると、その力を持っているというだけで怖くなる。でも、その微かな不信や不安を誰かと共有しようにも、その誰かがテレポーターだったらと考えただけで、足が竦む。だから、その感情を抑え込んで、自分一人で噛み締めないといけなくなる」


〈プロンプター〉の意見は以上だった。足の震えを堪えながら、ひかるの返答を待つ。


「うちだってそうだよ」


 ひかるは視線を下ろし、力ない声を落とした。


「だから、うちはテレポーターに対する意見を大っぴらにするつもりもないし、祖父母がマンハッタンで命を落としたことも、大っぴらにするつもりもなかった。うちがどう思おうが、祖父母が殺された――それだけで、うちがテレポーター全般を恨んでる、と思われるだろうからね。そう感じてしまうのは半分は本当だけど、うちはそう感じることを望んでない」


「じゃあ何で、わたしたちに真実を話してくれたの?」


〈プロンプター〉をシャットダウンし、視界が完全にクリアになると、わたしの顔を覗き込むひかるの目があった。


「真弓たちを信じてるから」


「わたしたちがテレポーターでないと?」


「そうじゃない」ひかるはゆっくりと首を横に振った。


「真弓たちがテレポーターでも、非テレポーターでも、どっちでもいい。うちが信じてるのはね、仮に班員の中にテレポーターがいたとして、たとえうちの祖父母のことを知られても、うちがどう感じているかを悟られても、関係がこじれるようなことはないだろうってこと。だって、教えてくれたのは真弓じゃん。テレポーターは百パーセント遺伝性なんだよ。ただ、設計図にテレポーターになるように書いてあって、その設計図通りに育っただけだから異常でもなんでもないって。ねえ、真弓。一体、うちらは何と戦ってるの?」


 わたしは何も返す言葉を自分の中に見つけられなかった。


 自分が犯した過ちがどれ程のものか今になって分かって、一分前の自分を刺し殺したい衝動にかられた。心を開いてくれたひかるに対して、わたしがした仕打ちはなんだ。同じように心を開くどころか、〈プロンプター〉で塗り固めた虚像を自分だと偽って売り渡した。


 わたしはひかるを直視できなかった。


 何か言わないと。そんな焦りから、またも〈プロンプター〉に縋りたくなる。その衝動を何とか跳ね除けるも、


「もう寝よっか、ひかる」


 わたしは、わたしの卑しさが嫌いになる。それでも、口が動いて言葉を発するのを止められなかった。


「明日はさ、長いフライトだから」


 努めて明るい声で自分がそう言ったのを聞いて、思わず右手で髪を掴んだ。そのまま引きちぎりたい気分だった。


「おやすみ、真弓」


 ひかるはそう言って、返答も待たずにわたしに背を向けるようにしてベッドに横になる。わたしが自分を髪の乱雑に掴んでいるのに気付いたようには見えなかった。


「おやすみ、ひかる」


 わたしはトイレに駆け込んだ。


 静かに、そして深く息を吸い、吐く。それを延々と繰り返した。


 トイレを出ると、暗闇の中にひかるのゆっくりとした寝息だけが波打っていた。わたしもひかるに背を向けて体を丸め、目を固く閉じた。


 テレポーターになる設計図DNA。わたしはそれを持ってこの世に生まれて、その設計図通りに育った。それだけのことだ。何も問題はないはずなのに、わたしの細い腕には問題ばかりが積まれていく。溢れた問題たちは次々とこぼれ落ちて、わたしの足の甲を穿っていく。


 一体、わたしはどこで何を間違えたのだろう。

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