2.8 マンハッタン事変

 先生に連れられ、わたしたちは海中通路に入った。床から壁まで一面透明な強化プラスチック張りのそこから、かつてマンハッタンと呼ばれたエリアの、海中の風景を見渡すことができた。思っていたより水は透き通っており、床越しに海底面が見える。透明度は五十メートル程あるだろうか、時が止まったかのような静寂の海の中で、無数のビルたちはゆっくりと死にゆく瞬間の顔をわたしたちに見せている。


 いったん海中道路から水上に戻り、歩みを進めると、海上に顔を出すビル群の全くない広大な水面がわたしたちを出迎えた。案内板に、旧市庁舎公園と記されていた。


 わたしたちはここで、当時の生存者からの講演を聞くことになっていた。出てきたのは、五十代と思しき白人女性だった。わたしは腕時計を口元に持っていき、〈テラ〉に同時通訳アプリ〈コンジャック〉を起動させた。


「日本ノ皆サン。初メマシテ」


 学習不十分な〈コンジャック〉が作り出した機械的な声色がわたしの内耳に響くと同時に、十分にシャットダウンできていない彼女の地の声による英語が混ざり、自己紹介はよく聞き取れなかった。


〈コンジャック〉が学習を進めると共に、わたしの内耳に届く日本語の声調はより自然になり、スマート内耳が彼女の地の声だけをカットし始める。やがて、当時の時代背景の説明を終える頃には、彼女の英語は完全にカットされ、本当に日本語で話していると錯覚する程になっていた。

そして、彼女の話はマンハッタン事変当日の出来事へと差し掛かった。


「二〇一九年一月一九日。わたしはブルックリン橋を渡る車にライドシェアさせてもらっていました。マンハッタン島の外に用事があったのですが、まだ自動車の個人所有が当たり前の時代で、ひどい渋滞にはまっていた時のことです。突然、大きな地響きの音がして、大地が大きく揺れました。ドライバーの人が右手を指さして叫びました。ガバナーズ島の向こう、アッパー湾から直立に突き出る巨大な黒い板が見えたのです。そう、マンハッタンの地盤――〈黒いモノリス〉です。でも、当時、そんなことが分かる訳がありません。私たちは呑気にその正体について話していました。ニューヨーク市民が進化させられるのでは、それとも、異星人に人類が滅ぼされる前兆かなど笑っていました。すると、自動車が突然、数十センチ程沈みこんだのです。タイヤがパンクしたかと思いました。ただ、窓の外を見ても景色の高さは変わりません。タイヤの不調ではなさそうです。怪訝に思っていると、もう一度、沈み込むような感覚に襲われました。今度は異変に気が付きました。微かに、車体が後部側に傾いているのです。私は思わず振り返りました。そしてバックウィンドウ越しに見えたのは、衝撃の光景でした。


 ビルの一本が、崩れ落ちていく様が見えました。それだけではありません。まるで海面が急上昇したかのように、沿岸部を波が飲み込んでいるのが見えました。ビルは崩れ、崩壊を免れても傾き、そして低地部分は荒波の中に沈んでいく。ブルックリン橋のマンハッタン側も、それに引きずられるように海に沈んでいこうとしていました。逃げないと。私はすぐに車を出ました。ドライバーと一緒に、マンハッタンの反対側へと駆け出しました。最初は車の合間を縫ってすいすいと進めたのですが、事態に気づいた他の車の人たちも皆避難しようとしたために、すぐに道路はドライバーを失った車と逃げ惑う人々で埋め尽くされ、私たちはすぐに身動きがとれなくなってしまったのです。


 やがて傾斜がきつくなり、自動車が滑り落ち始めました。その濁流に飲み込まれるように、道路上にいた人々は流され、海へと消えていきました。私はたまたま欄干寄りにいたために柱にしがみつくことができました。途中、誰かの腕が私の足を掴みました。でもその引っ張る力は強く、このままでは私も飲み込まれてしまいそうで、思わずもう片方の足でを蹴りました。蹴った方向は見ていなかったから、正しいかは分からないけれども、きっとその人の顔を蹴ったのだと思います。その時聞こえたうめき声は、今でも私の耳の裏側にべっとりと張り付いていますし、しばらくは助けてくれ、と海底から黒い手が伸びてきて私の足を掴む悪夢を何度も見ました。


 辛うじて車の大波をかわし終えたとき、背後には誰も何も残っていはいませんでした。その後は柱を伝って移動し、無我夢中で対岸を目指しましたが、よく覚えていません。

 柔らかいベッドの上で目覚めたとき、長い悪夢から覚めたような気分でした。あれは現実じゃない。夢だ。そう自分に言い聞かせました。ただ、テレビの中継を見て、心臓が止まるかと思いました。ヘリからの中継で映るマンハッタン島は、平地に無数の岩峰が並ぶ桂林コイリンのように、海面から突き出るビル林に様変わりしていました。それがあの摩天楼の成れの果ての姿だと、どうして信じることができましょう。私がいたはずのブルックリン橋も半分以上が海に消えていました。夫も、娘もその日は家にいました――マンハッタン島にです! 私はテレビに食いつき、半狂乱になって彼らの名前を叫びました。


 通りかかったニューヨーク市警察NYPDの男性にも食い掛りました。『夫と娘を助けて』。しかし、彼は『任せて』とは言ってくれませんでした。今から思えば、彼だってきっと憔悴しきった焦点の合わない目をしていたはずです。しかし、わたしは立て続けに叫びました。『あんたそれでも警官か』。私は彼に悪いことをしました。沈みゆくマンハッタンに警察が何をできましょう。被害者の中には警察官も多く含まれていたのです。けれども、当時の私は混乱していて、そこまで考える余裕はありませんでした。


 やがて少し落ち着いて、見つからないスマートフォンの代わりに電話を借りようと看護師を呼ぼうとしたときになって、病院の様子が尋常ではないことに気が付きました。私と同じように半狂乱になった人々。響き渡る慟哭。駆け回る看護師たち。あの日、マンハッタン近郊の病院はどこも同じような有様だったと聞いています。ただ、運よく借りられたスマートフォンから夫や娘たちへかけた電話は一向に繋がりませんした。……結局、私の手元には帰ってきたものは何もありませんでした。彼らの遺骨さえも。


 犠牲者九十万人にも及ぶマンハッタン事変を私は運よく生き延びることができました。でも、それが幸運なこととは思えませんでした。しばらく、フロリダの親戚のところにお世話になりましたが、毎晩のようにあの日の光景が悪夢となって私を苛みました。夫や娘が助けを求めながら溺れる夢を何度も見ました。私が蹴飛ばした人が、ブルックリン橋の崩落に飲み込まれた人たちが、暗い海から無数の手を伸ばして私の足を掴んで海に引きずり込もうとする悪夢も何度も見ました。何故、私だけが生き残ったんだろう。何故、神様は私を殺してくれなかったんだろう。私だけ生き延びてごめんなさいという罪悪感が私の心を支配しました。最初、沈みゆくマンハッタンを目撃した数少ない生存者としてメディアからのアプローチは数多くありましたが、私はそれを断り続けました。私を放っておいてくれ、と思っていたのです。私はただの臆病な死に損ない。奇跡の生還者なんて大それたものじゃない。私が浴びるべきは奇跡を褒めたたえるような賛辞じゃない。何故あなただけが生き延びたのかという礫――そう本気で思っていたのです。


 そして翌年、かの〈ゼウス〉によって、事変を起こした〈新人類同盟〉は滅び、エウロパが水平線から昇るようになって、ようやく平和が訪れるようになりました。事件から丁度二年が経過した頃には、かつてのセントラルパークの上に慰霊碑が建設され、私はそこを訪れました。そこで、同じような奇跡の生還者たちと対面しました。話している内に、同じような罪悪感に苛まれているのは自分だけではないことを知りました。そして、私の中に、まるで啓示のように、一つの考えが下りてきたのです。


 この事件を風化させてはならない。既に、崩壊を免れたビルも、ゆっくりではありますが波風によって崩落しつつあります。あの〈黒いモノリス〉も少しずつ傾いていることが判明し、二、三十年後には崩落するとの予測もありました。つまり、この旧マンハッタン地区が波風によって完全な海原になるのは時間の問題です。そして、あなたたちのように、事変以降に生まれた人間たちが徐々に増えていく。彼らはマンハッタン事変を知らない。最早第二次世界大戦のことを語れる人がいなくなってしまったように、事件は風化していくのだと初めて悟りました。そして、それを怖いと思いました。この惨事を、歴史の教科書に載っているような、過去の出来事の一つにしてしまってよいでしょうか。私は、私が生き残った意味をようやく見つけることができたのです。


 過去を後世に刻むのです。そうやって、私たちの時代の過ちを二度と繰り返させはしないのです。実を言うと、私はテレポーターが憎くて憎くて溜まりません。もし目の前にテレポーターを名乗る人物がいて、私の手に凶器が握られていたならば、私は刃を突き出してしまうかもしれません。もちろん、すべてのテレポーターが悪人でないことを承知しております。だからこそ、私自身のこの考えを私は健全だとは思いません。皆さんには、このように負の感情に囚われた大人にはなって欲しくはないのです。一人の人間として、テレポーターに接してあげて欲しいと思っています。彼らを排斥しようとすれば、その先に平和な未来はありません。憎しみを断ち切り、許す――それこそ、あなたたちに課せられた使命なのです。私にはそれは到底無理な話ですが、その使命を後世に伝えるメッセンジャーとしての役割ならこなすことができます。その使命を、私はこの命尽きるまでやり遂げようと思っています。


 ただ、力は時として人を狂わせます。この事件は私たち非テレポーターへの教訓である以上に、テレポーターに対しての教訓でもあると思っています。自分には力がある。他人にはない、特別なものがある。その優越感も行き過ぎては、かつての優生学のような差別を助長しかねません。実際に、この惨事を引き起こしたテロリストたちも自らを新人類と謳い、優れた人種だと自負していたそうです。だから、もし、この話を聞いているあなたたちの中に、テレポーターがいたならば、どうかこれだけは覚えておいてください――」


〈テラ〉に呼びかけ、わたしは〈コンジャック〉を強制終了させた。スマート内耳は閉じたまま。すると、聞こえる音は波の音だけだった。他の生徒たちは皆、一言も喋らず、彼女の話に耳を傾けていた。


 程無くして、万雷の拍手が波音をかき消した。わたしは〈テラ〉に命じた。拍手の音もカットしてくれ、と。


 目も閉じると、世界はかつての摩天楼を侵食する波の音だけで満ちていた。時折、風に乗って、終末へと崩れ落ちる世界の片隅で味わう孤独のように、甘美な潮の匂いが鼻腔を突いた。


「――真弓」


 ひかるに呼びかけられて、わたしは目を開いた。既に講演者は退場しており、生徒たちも皆鞄をかけ、各々の目的地へと向かおうとしていた。自由探索時間だった。ひかるたち班員が、怪訝そうにわたしの顔を覗き込んでいた。反射的に、掌の月を隠すように右の拳を握った。


「大丈夫?」


 佳が顔を覗き込んでくる。ほのかに香るローズの香りと共に、視界の中で花弁が舞い、フルートが遠く響く。〈共感覚香水シナスタフューム〉がもたらす共感覚を打ち払うようにわたしは何度も首を縦に振って、大丈夫とはにかんで見せた。

 



 自由行動時間になり、次の目的地へ移動し始めたところで、広場の隅っこから動こうとしない班があるのを見つけた。わたしの視線に気づいたのだろうか、歩きながら茉鈴が言った。


「一人、話を聞いていて気分が悪くなってしまったらしくって」


「誰?」


「葉子ちゃんですよ」


 スマートグラス越しに佳を睨んでいた子だ、とすぐに思い出した。確かに、テレポーター嫌いらしい人にとっては、マンハッタン事変の生々しいレポートは心臓に悪いだろう。


「彼女の友人から聞いたんですけど、昔住んでいたマンションでテレポーター絡みの殺人事件があったらしいんです」


「なるほど」


 よくある話だ、と思った。理由は何であれ、怒ったテレポーターは包丁を振るうよりも、引き金を引くよりも早く、小石を相手の脳内にぶち込むだけで相手を殺すことができる。



「へ?」


 思わず気の抜けた声を上げてしまった。前を見ると、佳が操って空を翔ける星をひかるが猫のように追っかけている。


「そのマンションの屋上がテレポーターの空路の経由点によく利用されていたらしいんですけど、住人の一人がそれをよく思っていないらしくって、ある朝そこで待ち伏せをして、降り立ったテレポーターに殴りかかって、気絶させた後に突き落としたらしいです。その落下現場の第一発見者が葉子ちゃんだったとか」


 わたしは口元を押さえた。


「それはまあ、ショッキングな」


「それで、そういうテレポーター絡みの諍いには敏感みたい」


「ふうん」


 頷きながらも、釈然としないところがあった。どうして彼女は佳を睨んでいたんだろう。


 それを問う間もなく、佳が叫んだ。


「停留所こっちだよ、来て」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る