2.7 海中の摩天楼

 長いフライトを終えて空港を出ると、既に日は沈みそうだった。わたしたちはホテルに直行した。部屋に荷物を置いた後、ホテルの食堂で夕食を取ることになっていた。同じ班のひかる、佳、茉鈴と同じテーブルに座り、大皿に盛られた料理を見た途端、わたしはアメリカに来たと実感した。ダイエット管理アプリ〈エディエット〉が表示した推定カロリーは、わたしの夕食の平均値の軽く三倍はある。脂ぎったステーキに同じく油塗れのポテト。申し訳程度ではあったけども、グリーンサラダがついていたのが救いだった。


 藁にもすがる思いでがっついたものの、噛むと同時に泥の味が口の中に広がって、吐き出すのを堪えてなんとか飲み込んだ。それ以上は食べれなかった。そういえば、農業大国アメリカではまだ天然野菜の方が安いんだっけか。


 幸い、トマトは工場産らしく、わたしは天然レタスを除けつつ、トマトだけを選んで食べていた。


「脇坂さんって天然野菜ダメなの?」


 茉鈴が怪訝そうに言った。


「どうしても、なんか泥臭くって」


「真弓の舌は清潔すぎるんだよ」


 ひかるが笑う。ドレッシングを口元につけたひかるのサラダボウルは既に空だった。


「私のトマト、食べる?」


 横から佳がサラダボウルを差し出してきた。


「私、トマト苦手だからさ」


「ありがとう」


 結局、その日は三人分のトマトとステーキを半分とライスを半分だけ。カロリーのオーバーは二百程キロ度で済んだ。


 食糧難問題を除けば、時間は飛ぶように過ぎていった。ひかるが替えのブラを忘れたためにワシントンの自由行動時間になると、無人タクシーをまず無人コンビニに走らせる羽目になったり、ケンブリッジで大学生気分に浸ってみたり、リモート観覧では味わえないRのスミソニアン博物館に心を躍らせたり。学校も班に一台、専属カメラマンとして〈コウモリ〉をレンタルしてくれていて、そのすべてを写真に収めてくれていた。


 そして、いよいよ最後の目的地へ向かう行程に入った。早めの昼食を終えたわたしたちを乗せたバスは今、ニューヨークへと向かっている。海外ということもあり、和室で皆で布団を被りながら夜通しで喋り明かすといったイベントはなかったものの、移動のバスの中で他の班の話に耳を傾けると、こっそりどこかの部屋に集まって話し通していたところもあったらしい。死んだように眠っている一団や、昨晩の話の続きか、他校の文化祭で知り合った男子とのあれこれを小声で話す一団がいた。彼の家で彼の妹に見られて気まずいのと相談する子もいた。どうか、その子が小学生でないことと、その現場が妹さんのベッドでないことをわたしは祈るばかりだった。

話の続きは、担任の谷原先生のアナウンスでかき消された。


「あと十分で、ニューヨーク市に入ります」




 雲一つなかったはずの青空が突如黒雲で覆われた。それがバスの車内からでも分かる程、辺りが薄暗くなった。屋内に入ったかと思ったが、窓に顔を寄せて空に目をやると、高層ビルの頂上を飲み込む黒雲の正体は無数の〈コウモリ〉であることに気が付いた。


 その暗雲下の世界で、無数のホログラム広告と、行き交う人々のホロアクセサリとが不協和音を奏で、サイケデリックな光の濁流となって網膜に突き刺さった。バスの中もその奔流で満たされて、わたしたちはまるでドラッグに当てられたかのように言葉を失い、バスの外で波打つ虹に目を奪われていた。


 新マンハッタン橋に差し掛かると、夢が覚めたみたいに、アッパー湾で反射した陽光がバスの中を白く染め上げた。目が慣れると、海面の煌めきの中央に、天に向かって手を伸ばす女神がいた。ただ、それよりも目に焼き付いたのは、空と海の溶け合う境界線を跨ぐように、その青いキャンバスに大きく口を開いた、細長い長方形型の空隙だった。それが遠くの海上で空へと斜めに突き出る一枚岩モノリスだと気づくのにしばらくかかる程にそれは遠く、巨大で、黒かった。


「皆さん。右手を見てください。海面から突き出るあの巨大岩が、かつてマンハッタン島で多くの人の生活を人知れず支えていた地盤にして、多くの人の命を奪った元凶――通称、〈黒いモノリス〉です」


 谷原先生が言った。周囲に目を配ると、全員がモノリスの斜塔に目が釘付けになっていた。


「〈新人類同盟〉がマンハッタンを沈没させるために、あの島の地盤をあの位置に転移させたんです。海面上に突き出た板の高さは今でも三百メートルを超えます。ただ、崩落の危険性があるので、周辺海域への立ち入りは禁止されているみたいです」


 一人の生徒が訊いた。


「昔見た映像だと、直立していたはずだったと思うんですけど」


「徐々に傾いているんです。数年後には倒れ、沿岸部に津波を起こすと言われています。今、ニューヨーク州はその撤去プロジェクトの考案をしているそうです」


 バスの中がざわついた。あれを撤去? どうやって? 〈ガニメデ〉様以外ありえない!


 やがてバスは橋を渡り終え、わたしの視界を摩天楼の外壁が覆うようになった。ただ、その壁面は橋を渡る前のそれとは全く異なる様相を見せていた。壁面を縦横無尽に走るひび割れ。抜け落ちたガラス窓の向こうに佇む闇。思わず二度見すると、白波が壁面に砕けた。


 海だ。


 その廃ビルは海の中から突き出ていた。バスは間もなく停車した。下車した生徒たちは皆、目の前に広がる光景に言葉を失って立ち尽くしていた。海から突き出る無数の廃ビルの森。風雨に飲まれ今にも崩れ海底へと落ちていってしまいそうな無数のビル群に白波がレクイエムを奏でている。ビル群の間を縫うように作られた海上遊歩道や水路を進むボート、遊覧艇がなければ、それはまさに人類文明の終焉の光景だった。わたしは反射的に、掌の月を隠すように右の拳を握った。

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