2.6 自由の女神は血の涙を流す

 夏休みが明けると、「夏休み明け確認テスト」の洗礼がわたしたちを襲う。長期休みが終わった気だるさと、現実を突きつけられた悲壮感とが相まってクラスの雰囲気がどんよりと沈んでいるが、それも数日限り。


 アメリカへの修学旅行を一か月後に控えて、その準備がすぐに始まったために、夏休み明けの憂鬱もどこかへ消えたかのようにクラス中が浮足立ち始めた。今日は、放課後に班行動の時間のスケジュール決めをする予定だった。


 一部の授業カリキュラムも修学旅行仕様に変更された。今回の目的地である旧マンハッタン地区と関わりの深い現代史についての授業だ。高校進学後は選択授業だらけのために、クラス全員が教室に集まって受ける授業は中学以来だった。その密度の懐かしさに皆がそわそわし、教室は小学校のクラスのようにざわついていた。


 しかし、教室にやってきた世界史の先生は表情を終始崩さず、重いトーンで話し始めた。盛り上がる生徒たちも一瞬で話をやめ、ほぼ全員が先生に視線を注いだようだった。


「今日は、皆さんが生まれるちょっと前、二〇一〇年代の話をします。テキストの一九六ページを出してください」


 わたしはすぐには入力せず、周囲に目をやった。指定されたページ番号をタブレット端末に入力した直後の反応を観察していた。


 左隣の生徒は明らかに表情を強張らせていた。その奥の生徒は、タブレットに目を向けたまま、静かに唇を噛んだ。その前の生徒は天井のシミとにらめっこしていた。その更に前に座っていた金髪の緑メッシュ――佳は左手で頬杖をつきながら、右手で画面をどんどんスクロールしていた。右隣の生徒はエディタを開いていた。内職中らしい。


 わたしも入力すると、大きな見出しが目に飛び込んできた。


「二〇一〇年代のニューヨーク、抗争と惨禍」


 その十年の後期、テレポーターたちによる犯罪に怒った過激派によって、〝異端者狩り〟と称した罪のない善良なテレポーター狩りが頻繁に起きてしまった街の一つがこのニューヨークだった。わたしの母のように、テレポーターというものはほとんどがひ弱で、女性ばかり。〝異端者狩り〟はまさしく脅威だった。中には異物の体内転移で応戦、返り討ちにしたテレポーターもいたが、その正当防衛に一瞬にして倒れる男の姿を映した動画がSNS上で拡散したこともあり、テレポーターに対する恐怖心や反抗心は助長されていったという。


 それを見かねて立ち上がったのが後の〈新人類同盟〉の前身となる団体だった。善良な罪の無いテレポーターを守ろう――それが力あるテレポーターによって結成された彼らの理念であったはずだが、〝異端者狩り〟の激化や、当時の米国大統領によるテレポーター排斥政策の強化により、それに反発する形で相互作用的に〈新人類同盟〉の前身団体も過激化していった。そこから分裂した下部団体はやがて独立し、彼らは自らを〝新人類〟と謳い、力ない旧人類の上に立つ者であると主張し、団体名も〈新人類同盟〉と呼称するようになった。〝異端者狩り〟を行っていた者と間違えて善良な市民を殺害してしまったという事件も起き、次第に社会は〈新人類同盟〉を、更にはすべてのテレポーターを敵視していった。警察も彼らを犯罪者として指名手配するに至った。やがては軍も動き、そして国家との、国連との抗争の果てに、〈新人類同盟〉は事件を起こした。


「それが、マンハッタン事変です」


 地盤ごとごっそり。まるでだるま落としのように、その上にあったマンハッタンの街並みはハドソン川に飲み込まれた。犠牲者九十万人。テキストを見進めると、事変直後のマンハッタンの写真が載せられていた。海中に半分沈んだかつてのウォール街。そしてかつてマンハッタンを支えていたはずの、定規のように細長い地盤が――〈黒いモノリス〉が海から垂直に突き出ている。


 前身団体を飲み込んだ〈新人類同盟〉はこうして全世界から危険視される最恐のテロリスト集団(テロポーター)となったが、それから一年と経たずして、突如として〈新人類同盟〉は崩壊することになった。


 それを成し遂げたのは、誰かは分かっていない。ただ、できるのは、エウロパを召喚した、あの〈ゼウス〉くらいであろう。




 ――自由の女神が、血の涙を流している!


 二○一九年の十月某日、衝撃的な一枚の画像がSNS上で拡散した。


 水没したマンハッタンを望む自由の女神像の頭部をズームした写真で、彼女が赤黒い血の涙を流しているというものだった。よく見ると、被る冠の七つの突起に一人ずつ、人間らしき黒い影が串刺しにされている。テキストにはその写真は掲載されていなかったが、モラルなきネットの荒海をサーフィンしていれば嫌でも目に留まる。隣の生徒のタブレットにちらりと目をやると、その画像が写っているのが見えた。モザイクがかかった様子はない。


 当初、テロポーターによる更なるテロと恐れられたが、被害者たる男性五名、女性二名が〈新人類同盟〉の幹部であるという不確定情報もすぐに広まり、世間は名もなき〈粛清者〉の登場に歓喜の声を上げた。実際に、その日を境に、〈新人類同盟〉のSNSアカウントの更新はぴたりと止み、活動の足音も聞こえなくなった。その後、相次いで世界各地のテロポーターは次々に粛清された。こうして、テレポーターによる悪事は嘘のように消え去り、そしてその翌年、二百数十回目の独立記念日、多くの血と涙が流れたニューヨークの街を、エウロパの光が照らすようになったのだ。そしてそれが、〈粛清者〉――改め〈ゼウス〉の最後の大仕事だった。


 講義が終わると、ディスカッションの時間になった。〈ゼウス〉がエウロパを召喚した理由について近くの席の生徒同士で話し合うというものだった。四人で島をつくると、ある生徒が言った。


「建物や人間の記憶は風化しても、エウロパの光が風化することはないからじゃない?」


 私たちみたいな後エウロパ世代の人間にも、悲劇があったことを実感して欲しかったんだと思う。お母さんが言ってたんだけど、百年前にあった第二次世界大戦が親の世代にとって歴史上の出来事でしかなくなったのと同じように、わたしたち後エウロパ世代はテレポーターと人間との争いの歴史もタブレットの中の出来事でしかなくなってる。でも、エウロパという巨大な証があれば、より身近な問題だと思えるから」


 別の一人が頷いて、もう一人、わたしの隣の内職好きの生徒も反対するような素振りを見せなかったが、わたしは釈然としなかった。


「何か思うところあるの、真弓」


 わたしは躊躇いがちに切り出した。


「エウロパは警告だと思う」


「人間に対する?」


 最初に意見を言った生徒が首を傾げた。


「人間に対しても、テレポーターに対しても。異端者狩りをやめなさい。力のない人間を傷つけるのをやめなさい。エウロパが空に昇るようになってから、確かにいがみ合いは減ったけど、それってただ、どちらの側も〈ゼウス〉という圧倒的な〈粛清者〉による報復を恐れているだけなんじゃないかって気がしてさ」


「確かに、〈ゼウス〉らしき人物のSNS上での唯一の呟きとも矛盾はないよね」


 わたしの隣の生徒が慌ててタブレット上に指を走らせた。テキストの隅の方にそのフレーズが書かれていた。


 ――人類とテレポーターに告ぐ。二○二○年七月四日、新たな時代の〝夜明け〟が訪れるであろう。


「じゃあ真弓はさ、今の世界は〈ゼウス〉の思惑通りの世界だって言いたいの?」


「いや。まさか」


 思わず声が大きくなってしまって、タブレットをいじっていた隣の生徒がびくっと体を震わせた。


「だって、テレポーターと非テレポーターが手を取り合って仲良くしてる――そんな風に見える?」


 わたしが問いかけると、前の二人は顔を見合わせて、少し間を置いてから一人が違うと答えた。


「そういえばさ、夏休みの頃に上野であった事件知ってる?」


 もう一人が思い出したように言った。他の二人は知らないと答えた。わたしも黙っていた。彼女は続ける。


「上野の博物館で夏にやってた映像史展にね、テレポーターの視点を再現したVRを体感するブースが設置されていて、ネット上の過激な反テレポーター派たちは過剰に反応してたらしいの。おまけに無鉄砲にもプラカードを掲げて博物館前でデモをしてたら、有名なテレポーターと鉢合わせたらしくってトラブルになったってニュースで聞いた。誰だっけかな、そのテレポーター。ええと……」


「〈カリスト〉」


 わたしが我慢できずに答えると、彼女は「それそれ」とトーンを上げた。


「真弓、知ってるの」


 別の生徒が聞いてきた。


「わたし、あの日現場にいたんだ」


 三人とも目を丸くし、「え!」と大きく声を上げた。


「どんな感じだった?」


 ネットで調べれば動画だって没入型再現VRだって転がってるよ、とは言わなかった。わたしはその出来事について覚えている限り事細かく説明した。


「よくテレポーターにつっかかるよねえ。テレポーター空撮家ってことは、〈カリスト〉は人間をテレポートさせることもできるんでしょ。殺されても知らないよ」


 さっきまでタブレットをいじっていた生徒が鼻で笑った。わたしは彼女にあからさまな作り笑いをみせた。


「非テレポーターだって、いっぱい人殺してるけど?」


 彼女は一瞬ひるんだ。


「わたしにとって一番印象的だったのはね」と言いながら、改めて目線を他の二人へと移した。


「デモ隊が連行された後、列に並ぶすべての人が、まるでそんな事件なんてなかったかのように振舞っていたこと」


「どうして」


 最初に意見を言った同級生が眉をひそめた。


「テレポーターと非テレポーターの間の溝を無視している方が、精神衛生上気楽だからじゃないの。わたしは平和主義者です。テレポーターと非テレポーターの争いには何も関知しません、って」


 わたしは投げやりに言った。机に転がったわたしの言葉を誰が拾うべきか示し合わせるように、他の生徒たちは顔を見合わせ、互いに譲るように全員が考え込む振りをし始めた。


「だからさ」自分の出したゴミの後始末はしないと気が済まない質だった。


「〈ゼウス〉の警告は、争いをやめさせるという意味では成功だったかもしれないし、悲劇も確かに風化しないのかもしれないけれど、根本的な問題を何も解決してはくれなかった。非テレポーターはまだ、テレポーターを怖れてる。テレポーターもそれを分かっているから、何もできず、ただ非テレポーターの振りをする」


 わたしが時計に目をやったのと、先生が「そろそろ時間ですね」と言ったのは同時だった。


「え、待ってよ! 私の〈ガニメデ〉様との関連の持説の解説がまだ――」


 佳の喚く声が聞こえた。そちらに目を向けたとき、また別の生徒が無言で佳を睨んでいるのを見かけた。彼女のかける眼鏡には見覚えがあった。拡張感覚が苦手だからと旧来のスマートグラスを愛用していると自己紹介で言っていた覚えがある。以前、佳がわたしに話しかけてきたときにも佳を睨んでいた生徒だ。名前は確か――村上葉子。表立ってテレポーターに対する反感を示すことはないが、ああいう輩には不要にテレポーターの話題を振らない方が賢明だ。わたしは彼女の名前を、顔を記憶に刻み込んだ。


 レポート課題が出されて休み時間に入ると、ひかるの姿がないことに気が付いた。ひかるの隣の生徒に訊くと、気分が悪いから保健室に向かったらしい。


 昼休みが終わっても、放課後になってもひかるは戻らなかった。ひかるの鞄はまだ教室に置きっぱなしになっていた。放課後に班行動のスケジュール決めを約束していたからと、同じ班になった佳と茉鈴と共に保健室に向かった。


「依田ひかる、いますか? 同じクラスの生徒なんですけど」


 保健室の養護教諭に尋ねると、彼女は目を細めた。「同じクラス?」


 佳が「そうです」と答えると、養護教諭は手で口元を押さえながら咳払いをした。


「ひかるさんなら、帰ったはずだけど」


 わたしたち三人は顔を見合わせた。佳の頭の上に浮かんだ特大の星は飛び回ることもなく彼女の頭頂部から転げ落ち、床にめり込んだ。




 どうやら、ひかるは鞄を持って帰ることも忘れてしまったらしい。佳たちと共に教室に戻ると、同じく班ごとの集まりで賑わう教室の中、エッフェル塔のキーホルダーがついた鞄がぽつんと机に置かれたままになっていた。


「ちょっとひかるにメッセージ送ってみる」


 佳と茉鈴に告げて、腕時計端末を介して〈テラ〉に話しかけてメッセージを送らせると、返事を示すレター型のポップアップがすぐに視界に表示された。


 ――軽い食あたりかも。今は大丈夫。ごめんね、心配かけて。


 訊いてみると、昨日天然の貝類を食べたらしい。スケジュール決め延期しようかとも提案したが、任せるよとひかるは答えた。ただ一か所だけどうしても行きたい場所があると彼女は書いていた。遊覧艇で旧セントラルパーク乗船場に行って、三十分程時間が欲しいとのことだった。


 そのことを佳たちに告げると、二人とも快諾した。遊覧艇による海中見学を軸にわたしたちは行動計画を練り上げ、完成版をひかるに送った。


 家に帰った後、わたしはスマートスピーカーに話しかけた。


「ねえ、〈テラ〉」


 スマートスピーカーの輪郭を縁取るように青い光が走る。


「おはよう、真弓」


「おはよう、〈テラ〉」


 突っ込む気にはなれなかった。


「真弓、違うよ。今は日没後だからこんばんはだよ」


「ねえ、最近の貝毒の被害状況って分かる?」


「ちょっと待……エウロパによる海の環境変動に伴う貝類の激減と価格高騰から、有毒プランクトンや貝毒量のモニタリングの調査が杜撰な違法貝の出荷例は時折あるみたい。あ、この間真弓がひかると言ったウナギチェーンにも卸しているアサリ卸売業者が不適切な検査をしてたという理由で三日目に摘発されてる。その影響で、ウナギチェーン、しばらくの間アサリ汁の販売休止だって」


「そう、ありがと」


 ひかるにそのニュースのことを教えると、しばらく時間を置いてから返事が来た。


 ――そうそう、母さんがよく行く天然食品の店にも卸していたみたいでね。まったく、困っちゃう。


 そのメッセージを読んだとき、わたしの中を嫌な予感が突き抜けた。嘘だ、と直感的に思った。良くないとは思いつつも、わたしは〈テラ〉に訊いてしまった。


「摘発されたアサリ卸売業者だけどさ、扱ってるアサリで養殖じゃないのってあるの?」


「日本産のアサリはね……百パーセント養殖だよ」


 やっぱり。私は唇を噛んだ。


「ただ」と〈テラ〉は付け加えた。


「違法な検査をするような業者だから、輸入品を産地偽装した可能性もあるみたい。そして、海外では一部天然のアサリ漁が行われている地域もある。つまり、卸されていたアサリの中には天然食品があった可能性も否定はできないよ」


「そう」


 翌朝、遅刻すれすれで登校してきたひかるは嘘のようにぴんぴんしていた。


 朝礼を終えた後、ひかるがわたしのところにやってきた。


「昨日はごめんね、心配かけて。行動計画決めもありがと。あれでオッケーだよ」


「いいよ、気にしないで。それより、ひかるが無事でよかった」


 わたしは笑顔でそう言うと、ありがとうとひかるはひきつった笑みを浮かべた。わたしはそれ以上、何も言わなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る