2.5 ありがとう、さようなら

 わたしが小学校六年生のとき、わたしが最も感謝している人物の一人である松村美智は当時大学生で、不登校に陥ったわたしのために母がつけてくれた家庭教師だった。理工学部の生物系の学科に通う彼女はわたしが忘れかけていた理科への興味を、情熱を思い出させてくれる話を数多くしてくれた。足し算のできる賢い馬。分離脳患者に見られる第二の意識。ローマ数字や漢字において、四番目の数字から四本線でなくなる理由。衛星の潮汐力と生物の関係。特に、エウロパが昇るようになってからコウモリが謎の大量死を遂げて絶滅に追い込まれたことや、大潮によって産卵場所を失ったウミガメがいかにして新たな営巣地を発見したかについて彼女が紹介してくれた様々な説は興味深かった。そんなわたしの知的好奇心をくすぐるSF小説も数多く紹介してもらった。


 松村さんが家庭教師として家にやってくるようになって一ヶ月程が経過した頃。彼女が与えた難問に詰まりながらも、さも平然を装ってみせる十二歳のわたしの無防備な横顔に、彼女はそのフレーズを突然投げかけてきた。


 ――真弓ちゃんさ、挫折、味わったことないでしょ。


 わたしには何も返す言葉はなかった。それでも、真意を悟られたくなくて、言い訳をこしらえたことは覚えている。


 ――だったら、可能な限りレベルの高いとこ、行った方がいいよ。そうすれば、今まで会ったことのないようなバケモノに出会えるから。そして打ちのめされて、プライドずたずたにされたらいい。そのとき初めて、人間になれるから。


 当時、わたしは松村さんの発言の真意の一割も汲み取れてはいなかった。ただ、松村さんが教えてくれる科学の世界の一端をわたしも見てみたくて、一人自宅で受験勉強に取り組み、わたしは今の中高一貫校に入学することができた。わたしは親よりも早く、松村さんに連絡した。


 けれども、事件は卒業式間際の二月、雪の降る日に起きた。


 その年は近年稀に見る厳冬で、雪が強くなるからと学校は午前で終了になった。受験を終えた頃から、紺色のランドセルも最後の仕事の出番が増えてきていた。相変わらず友達はできなかったが、週に一回、松村さんが来て色々な話を聞かせてくれるのが楽しみで、わたしも彼女の話についていこうと授業中ですら本を読み漁る生活をしていた。先生たちも、都内の有名校に受かった変わり者の才女を注意するだけ無駄なことは分かっていたから放っておいてくれた。ジャイアンたちも、既にわたしに構おうとはしなかった。


 その日は松村さんが来ない日だったから、図書館でブルーバックスを二冊程借りて、家でじっくり読もうと思っていた。帰ると鍵は開いていた。嫌な予感がわたしの中を突き抜けた。リビングに母の姿はなかった。買い物にでも行ったのだろうと思ったが、あの暗黒期を生き抜いた母は鍵をかけ忘れる程平和ボケしていない。


 リビングのソファに座り、そっと息を殺していると、二階の床が軋むのが聞こえた。聞き間違いだと思った矢先、確かにもう一度聞こえた。わたしは直感した。


 誰かいる。


 わたしは足を忍ばせながら、そっと階段を昇り始めた。泥棒かもしれないが、当時のわたしは既にテレポートで自分の体を転移させられるようになっていた。何かあっても逃げられると思うと、足はまったく震えなかった。


 二階に上がると、一定のリズムで何かが唸るような音がかすかに聞こえた。わたしの部屋の方からだ。足音を立てないように細心の注意を払いながら、わたしの部屋へと繋がるドアへと近寄った。ドアは閉まっている。ただ、その向こうから、何かが軋む音が聞こえた。


 わたしは自室のドア前に置いておいたペンを手元に呼び寄せようとした。今朝、自室を出た後に、ドア前に特定の位置に特定の角度で置いておいたものだ。ドアを開ければ必ずペンは移動する。開けた者が元に戻そうにも、角度まで正確に戻せる訳じゃない。それに、ノールックテレポートは、ペンのような小型物体であっても、わずかな角度のずれが破綻を――位相破壊を招く。


 わたしは思い切って転移に踏み切った。次の瞬間、わたしが手に握っていたのは真っ二つに切られたボールペンの片割れだった。位相は壊れていた。間違いない。


 誰かがこの扉を開けた。


 そのとき、女性の喘ぐ声が聞こえた。開けてはいけないと思ったが、その声色には聞き覚えがあった。


 松村さん?


 わたしは思わずドアを開けていた。わたしのベッドの上で、彼女に跨る全裸の男がいた。それが父とはすぐには気づかなかった。


 わたしはどうすればいいのか分からず、そこで立ちすくんでいた。早送りした映像のように、二人は目にも止まらぬ速さで服を着て、そのまま何事もなかったかのようにわたしの脇を風のように抜けて部屋から立ち去って行った。しばらくして、誰もいないわたしの部屋に入ると、わたしの枕が流した涙が、お気に入りの水色のベッドシーツを濡らしていた。


 翌週、父はピンク色の可愛らしい新品の寝具一式をプレゼントしてくれた。


 それを見た母は何かを悟ったようにわたしに訊いた。


 ――もしかして、松村さん?


 わたしは驚いた。母さんは、父さんの裏切りに勘付いているの?


「ねえ、怒ってないの?」


 だからわたしは訊いてしまった。怒ってる、と当然の答えを期待していた。当時、加護には懐疑的はなっていたものの、それでも、母は母。わたしにとっての一番の理解者は彼女だと思っていた。


「別に」


 母は淡々と答えた。


「あの人がそういう人だと、最初から分かってるから」


 まだ初心な心が残っていた当時の私は、夫婦というものへの幻想を少なからず抱いていたことだろう。小さい頃読み聞かせてくれた物語が、二人が結ばれて、いつまでも幸せに暮らした――そうやって幕が下りるように、現実の夫婦もそうなのだと思っていた。例外があるとすれば、片方が他方を裏切った場合だ。父の裏切りは最初から分かっていた。だから、加護を疑いつつも、わたしは母に同情していた。間違った人を、夫に選んでしまったのだと。それに、父は非テレポーターなのだから、精神的に弱くても仕方ないと考えてもいた。


 それは違った。彼女があの人を夫に選んだのは、彼が間違った人だから。そんなの、


 その一件で、わたしの目は完全に覚めた。


 この家は、脇坂家は、最初から壊れていた。


 松村さんはそれから連絡がつかなくなった。もう彼女の興味深い話が聞けないと思うと残念だったが、受験後の図書館通いで、図書館が松村さんの代わりになっていた。松村さんはわたしの目を覚まさせてくれた。そして忘れていたものを思い出させてくれた。わたしは彼女への感謝の気持ちを噛み締めながら、小学生最後の春休みを図書館で過ごした。


 そして寒気が後退り、桜が咲き乱れ、わたしは依田ひかるに出会った。中学一年A組で、隣の席に座っていた生徒だった。


 ひかるは授業中、意識が別の場所をお散歩していたり、落書きしていたりと落ち着きのない生徒だった。ただ、驚きはしなかった。小学校にはそんな生徒は山程いた。進学校だけあって、落ち着いて授業を受けるのが得意な生徒が多い中、ひかるは目立っていた。タブレットの充電器を貸してあげたり、リリースされたばかりの〈テラ〉の設定をいじってあげたり、苦手な暗記物の授業のところを教えてあげたりしていた。さすがに、この学校に受かるだけあって、飲み込みがだいぶ早かったが、わたしは安心していた。この学校にもこういう生徒はいるもんだと。でも、ひかるの鞄にはキャラクターものの安いやつじゃなくて、エッフェル塔を象ったキーホルダーが光っていた。そして、その裏には、依田ひかるとシールが貼られていた。


 はじめての定期テストで、わたしは数学で平均割れの点数を取った。ただ、ひかるはもっと悪かった。クラスで最低点を記録していたと思う。ただ、夏前に受けた模試でひかるは学年一位を取った。


 何故、彼女が。わたしは思わず成績表を見せて、と言った。ひかるは恥ずかし気にタブレットをわたしに手渡した。


 見たことのない難問に皆が苦戦する中、ひかるだけがすいすいとそれを解けたようだった。


「どうしてこれが解けたの?」


 解説を〈テラ〉にさせても理解に詰まる難問を、彼女は学内で唯一解けたようだった。結びつくはずのない二点を結びつけるような離れ業だ。ただ、当の彼女は「まぐれだよ」とけろっとしていた。


 その日、家に帰ってわたしは泣き続けた。〈テラ〉の慰めも、母の無言の抱擁も、すべて向こうの世界の出来事のように遠く感じた。わたしはわたしの心に、深い切り傷が入っているのを感じた。松村さんの言った通りだ。あれこそ本当のバケモノだ。


 でも、当時のわたしにはまだ加護があった。


 翌日から、わたしは頭の中でひかるをずたずたに切り刻むようになった。わたしには力がある。わたしこそ特別な人間。ひびの入った加護という刃で、何度も彼女を切りつけた。それでも、彼女は血の海に沈むやわな人間じゃなかった。そして忘れた頃に、彼女が垣間見せる圧倒的なまでの知能という刃がわたしを軽く一閃する。


 ある時、わたしは気づいた。彼女を切り裂く必要などないのだと。わたしは刃を捨てた。加護を捨てた。わたしには力がある。彼女には知能がある。簡単に優劣などつけることはできない対等な存在なんだと。ひかると仲良くなるまで時間もかからなかった。難問をひかるに考えてもらい、ひかるの苦手な暗記をわたしが手伝う。わたしたちはいつも二人で行動するようになった。そしてある日、彼女は言った。


 ――今度、うちに遊びに来ない?


 ひかるの母親が是非友人を自宅に招きたいとのことだった。わたしは嬉しかった。同級生に煙たがられ、その親たちに奇異の目線を向けられる――そんな時代とは遂におさらばだ。でも、当のひかるはあまり乗り気ではないように見えた。わたしが怪訝そうに首を傾げると、ひかるは恥ずかしそうに言った。


 ――うちの母さん、アメリカ人とのハーフだから、ちょっと変かも。


 それでも、わたしは嬉しかった。初めて、本当の友達ができる――そんな予感に、現実を甘く見ていたわたしはまだ浮足立っていた。

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