2.2 デモ集団
週末。昼過ぎの上野駅でわたしはひかると落ち合った。
会うなりひかるはわたしのコーデを上から下から舐め回すように見て、最後にわたしの両肩に手を置いた。
「ここはRだよね、VRじゃないよね?」
「当たり前でしょ」笑いながらわたしはひかるの手を下ろした。
「さあ行くよ、ひかる」
わたしは颯爽と上野公園口へと歩み始め、「待ってよ」のひかるの声を背中で引っ張る。
上野公園の空は幼少期を思い出させる。
昼間だというのに、偽物の無機質な〈コウモリ〉たちが飛んでいないからだ。景観維持区域に指定されているここでは、低高度ドローンの通過は禁止されており、〈コウモリ〉たちの姿に辟易することはない。遥か上空を駆る〈ペラゴルニス〉の影だけが時折見える広い空は、はじめての運動会の玉入れですべて外しきった後の爽快感を思い起こさせた。
「そのブラウス、〈MAI-Style Chameleon〉だよね」
博物館の特別展の列に並ぶなり、わたしが着るダークグリーンのブラウスの生地を触りながらひかるが訊いた。
「父に誕生日プレゼントに買ってもらったんだ」
あながち嘘ではなかった。
「一体どんな心境の変化?」
「秘密」
わたしは立てた人差し指を口元に当てて口角を上げる。
「えー気になる」
とは言いつつも、ひかるの興味はわたしのコーデそのものに移っているようだった。
「ダークグリーンのブラウスにカーキのロングスカートねえ」
珍獣でも見たかのような言い方だった。今日はテレポートを使う予定もないからスカートを履いているし、普段はゴムで束ねる髪も今日は下ろしたままだ。
「相変わらず質素なスマートスニーカーを履いているのは別として、何これ? 新しいスタイルコーディネートアプリでもインストールしたの?」
「〈MAI-Style〉だよ」
「ん、〈カメレオン〉のこと?」
「スマートウェアだけじゃなくて、〈カメレオン〉のMAI社が提供するオンラインコーディネートAIのサービスのこと。情報銀行からMAI社に体格や好みに関するデータの公開を許可して、後は追加で所持アイテムリストにシチュエーションなんかを入力するとコーデを自動的に選択してくれるんだ。今回ダークグリーンに〝変色〟したのも、おすすめコーデに今回のがあったから」
「結構高かったんじゃない、これ」
「いや、〈カメレオン〉自体はそうでもないんだけどね。見た感じ、〝変色〟のテンプレート使用料が結構かさみそうだった」
「使用料?」
「今回のはね、特典の一日無料体験だからタダなんだけど、以降は二十四時間レンタルで百二十円。永久利用権の購入で八百円。月額で二千五百円払えば、ほとんどのコーデもフリーで使い放題だって」
「母さんに言ったらそれ驚きそう。衣服も〝配信〟が当たり前の時代か。で、そのロングスカートはどうしたの? そっちは〈カメレオン〉じゃないよね? 真弓がスカート履くなんて珍しい」
「ああ、これ? おすすめアイテムにレコメンドされてたから一緒に買った。セット購入だと三割引きだったから」
「真弓がスカート履くなんて、明日は雪かな」
明日は快晴だよ、と突然〈テラ〉が耳元で囁き、そのポップアップが視界にAR表示された。わたしはそれを無視し、ひかるに返答する。
「他にもレコメンドコーデが二つあったんだけど、どっちも酷かったから」
「うちも買おうかなと思ったけど、その分だと金飛びそうで怖いね」
「ほんと」
「ねえ真弓。あと推定並び時間何分?」
ひかるに訊かれ、わたしは目線で列を辿った。視界の隅に現れたポップアップに「推定待ち時間:七十分」の文字。ひかるに伝えると、彼女は空を見上げながら巻き角のような寝ぐせの部分を引っ張った。
それからも雑談に花を咲かせ、列も半分ほどに到達した頃、先の方が騒がしいのに気が付いた。わたしはそれを指さした。
「ひかる、あれじゃない。例のデモ集団」
視線の先で、プラカードならぬホロカードを宙に浮かべた集団が何やら喚いていた。
――映像史展、見に行かない?
終業式の帰りのメトロ内でそう誘ってきたのはひかるの方だった。わたしは最初、素直にうんと頷けなかった。
その展覧会は、写真を含む映像の起源からその発展の歴史を辿り、映像史を俯瞰することができるというものだった。しかし、ドローン空撮やVRコンテンツなど最新鋭の映像コンテンツも紹介するコーナーで空を飛ぶテレポーターの視点を再現したVRがあるとして物議を醸している特別展でもあった。
わたしも以前どんな声があるのかネットの海を〈テラ〉にサーフィンさせてそのレポートを聞いたが、中々興味深いものだった。
――多いのは、「テレポーターにもっと忖度しろ」との意見だよ。とは言っても、テレポーターに好意的なセリフではなくて、テレポーターに恐怖を感じているがゆえに、テレポーターの感情を逆撫ですることに極度に怯えてるよう。
ただ、本当に怖いのは臆病な忖度派ではなくて、今でも残る一部の過激派たちだ。エウロパが昇って以降、凶悪なテレポーターが一掃されたこともあり、犯罪に手を染めるテレポーターは激減していた。軽犯罪すらほとんどなくなり、異端者狩りを再発させまいと、暴言に対し反撃するテレポーターも稀になっていた。それをいいことに、一部の過激派たちだけは公の場でテレポーターを糾弾することが今でもある。今回彼らはこの展覧会に目をつけ、その付近でテレポーターの視点再現VRの中止を訴えるデモをしているとのことだった。
だから、ひかるからの誘いを受けたとき、わたしは思わず確認した。
「Rで行くの?」
ひかるは即答した。「もちろん」
「実物には劣るけど、リモートVRブース対応の展覧会だよ。何も現地(R)で見なくたって、渋谷のテックモールからリモート観覧するってのも手だよ」
「真弓ちゃんさ、もしかして、トラブルに巻き込まれるの怖い?」
ひかるがそうにやついているのを見て、わたしは頭を抱えそうになった。
そう。トラブルに巻き込まれるのが怖いの。わたしじゃなくて、ひかるが。
何かあってもわたしなら逃げられる。けれども、背の高く重量のあるひかるを安全にテレポートできる保証はなかった。
「わたしはね、ひかるが心配なの」
ひかるの横顔を見上げながらわたしは言った。わたしにはひかるのような背も運動神経もないけれど、本当はわたしの方が強い。だからひかる、あんたはわたしが守る。
「今まで負傷者って出てないんでしょ。じゃあ大丈夫でしょ」
ひかるが笑った。ひかるがいいと言うのなら、わたしには反対する理由はなかった。
わたしの視力では、デモ集団の掲げるホロカードの文句を読めそうにはなかった。
「ねえ、ひかる。あのホロカードに何が書いてあるか読める?」
こんなときはズーム機能付きのひかるのコンタクトディスプレイが頼りだ。
「ちょっと待ってね」
ひかるは目を細め、ホロカードの集団を見やる。それから、素早く二回まばたきをした。そして今度はやや長く目を瞑る。再び瞼を開けたひかるの目は黒目が大きく見えた。倍率を上げ過ぎたのか、三度のまばたきを挟んでから、もう一度目を瞑り、そして開く。黒目はもう少し小さくなっていた。
「どう、読める?」
「『テレポートで芸術を汚すな』とかとか『上野から飛び去れ』とか、他にはね――」
ひかるは淡々とホロカードの主張を読み上げた。
「――『テレポーターの視線から世界を見れば、テレポーター遺伝子が目覚めるぞ』とか」
わたしは思わず噴き出した。どんな似非科学SFに触れて育ったらそんな主張ができるようになるのか是非聞いてみたいと思った。
「ひかる、そのホロカードを掲げている人の写真、投げて」
数秒後、ひかるの方からレター型のARポップアップが視界に投げ込まれた。わたしの「
似非科学には似非科学を。なるほど、人相学によればその男は義務教育すら満足に理解できなさそうな顔立ちをしていた。
列が前へと進み、その集団に近づくと、彼らの主張も聞こえるようになった。
「お前たちはエウロパ人の撮影した映像を芸術として認めるのか!」
客の反応は大方一通りだった。目を反らし、声は聞こえない振り。まるでそこにデモ集団などいないかのように振る舞い、連れとの会話に没頭する。それを見ているとまるで、デモ集団そのものがARの中の架空の人々であるかのように見えた。
ただ、周囲を見渡してみると、デモ集団を睨む人の姿もあった。警備員らしき制服に身を包んだ男性がところどころに配置されていて、その全員の視線がデモ集団に注ぎ込まれていた。警備服たちの上にはアシストスーツらしきベルトが何本も走っているのが見える。
だからこそ、警備服に身を包みながらも、アシストスーツをまったく着ていない華奢な女性に目が留まった。彼女もまたデモ集団に厳しい視線を注ぎこんでいるが、とても有事の際の戦力にはなれそうにない体格に見える。
彼女の傍には黒い板とパイプ状のものが何本か置かれていた。金属の建材だろうかと、こっそり〈ナビゲーテル〉を起動して材質判定をかけてみると、炭素繊維だった。思っていた以上に軽く、視界に現れた青い光はその輪郭を形成するように集まり、その脇に「テレポート可能」の文字を表示した。
「皆無視してるね」
ひかるが呟きに引っ張られるようにわたしは首を回して、再びホロカードに目を向ける。
「あんな連中と同じ考えだと思われるのは誰だってごめんでしょ」
「異物の体内転移の事件とか忘れられないもんね」
「もう何年も起きてないよ、それ」
ひかるが驚いたようにわたしにパッと目を向けた。
「そうなの? よく知ってるね」
「何かの記事で読んだ。忘れたけど」
わたしは適当に流しながら、目を伏せた。
テレポーターが直接的に恐れられる下人の一つが異物の体内転移だ。
高所にテレポートさせられて墜落死とか、背後を取られて攻撃されるとか、そういった一般的に思いつくような殺害手法は実は稀にしか用いられない。そもそも、用いることができないというのが実情だ。八割のテレポーターは自身の肉体のテレポートができない――つまり逃げることすらままならないのだから、硬貨や石などの異物を相手の体内に転移させることこそ、すべてのテレポーターにできて、そして誰をも死に追いやる最も簡単にして、最も凶悪な反撃方法だった。
――私、人を殺したことがあるの。
その言葉が脳裏を過って、口の中に苦みが広がる。母が焦点の定まらない目でそう告白したのは、時の地層の浅いあたり。わたしが中学生になったばかりの頃。父が土産にくれたマンデリンのコーヒーの味が、苦くて舌に合わなかった頃。
テレポーターによるテロ行為と人間による〝異端者狩り〟が横行した二〇一〇年頃。実家と縁を切り、大学は中退し、夜の街をさまよう中で、自身のテレポートすらできないひ弱な母は、財布や現金をくすねて辛うじて生きていたと言った。まだ日本では現金が主流だった頃で、ひったくりで生計を立てることは難しくなかったという。しかし、ある日、自分がテレポーターであると疑われ、複数の暴漢に追いかけられた彼女は廃屋に追い込まれた。逃げることのできなかった彼女にできた足掻きは、転がっていた小さなコンクリート片を相手目掛けてテレポートさせることくらい。
――コンクリート片はたぶん、相手の脳に転移されたのだと思う。
暴漢の一人は、突然動きを止め、そのまま地に突っ伏したらしい。他の暴漢が慌てふためく隙をついて逃げ出せたと母は言ったが、その告白した母の表情は娘に見せる親の顔とは思えないくらい、今にも壊れてしまいそうに脆かった。
異物の体内転移は、非力なテレポーターたちが自らの身を守るために縋りざるを得なかった最後の砦。しかし、異物と臓器を融和させる不可逆的な殺傷法による死体はキメラと言われ、それが頻発した二〇一〇年代、より一層テレポーターへの恐怖を、反感を助長した。
列が進み、わたしたちにも彼らの主張の礫が浴びせかけられる番がやってきた。内容はホロカードの文句と同じくらいスカスカで中身のないものだったが、単純に音量がでかいのは耳障りで、わたしは〈テラ〉に命じて一時的にスマート内耳から聴神経が受け取る電気信号をカットした。
特にトラブルに巻き込まれることもなくそこを通過し、ある程度離れてから音声のカットを取りやめる。世界に音が戻ると、何度やっても雑音にはレパートリーがあることを思い知らされる。デモ集団の罵声以外にも、並ぶ人々の雑談がそこかしにあふれ、それを包むような風の音も、どこか遠くで鳴く鳥の声も懐かしく思えた。
デモ集団の罵声が一段と大きくなったのは、彼らとの距離が三十メートル程離れたときのことだった。
「そうやって俺らを〝旧人類〟って見下してるんだろ? 〝新人類〟様よお!」
列に並ぶ人々の視線がその一点に集まる。その一つたるわたしの目も、一人の壮年男性に突っかかるデモ集団を捉えていた。その男性が被る赤いニット帽に見覚えがあった。
「あの人、たぶん〈カリスト〉だ」
「カリスト?」
「テレポーター空撮家だよ」
ひかるが眉を吊り上げた。
「テレポーター? よく本人だって分かったね」
「あの人は覆面空撮家じゃないから」
ひかるは右手で口元を押さえた。テレポーターの見える世界をと、テレポーター視点の空撮をSNS上で投稿する空撮家は少なくないが、そのほとんどが本名や顔や肉声を晒さない覆面空撮家として活動している。〈カリスト〉は数少ない例外だった。
見るに、その〈カリスト〉は紳士的に冷静に応対しているように見えたが、彼に絡む男は顔に血が昇って我を忘れているように見える。
「大丈夫なの、それ」
「うーん。彼に対する殺害予告で何人も逮捕されてるとは聞いたことある」
「テレポーター空撮家ってことは結構強力なテレポーターでしょ。反撃されるのがオチだと思うけど、よく過激派も絡むもんだね」
「今のテレポーターが簡単に反撃しないってこと分かってるんでしょ。だから調子に乗ってる」
口ではそう言いながらも、わたしは再び〈ナビゲーテル〉を起動した。やっぱりスラックス履いてくるべきだったかなとは思いつつ、わたしはひかるの横顔を見た。〈ナビゲーテル〉はひかるの推定体重をすぐさま計算し、わたしの視界に警告文を表示する。
重量オーバー。対象物体に位相破壊を引き起こす可能背あり。
その直後、誰かが悲鳴をあげた。デモ集団のすぐ近くからだ。デモ集団の一人が警棒らしきものを振り上げ、〈カリスト〉に殴りかかろうとしていた。
わたしは警備服を着た女性の脇に置かれていた炭素繊維の建材の存在を思い出した。その場所は今の位置からでも視界に入ったが、目を向けた先に建材らしきものはすべて無くなっていて、女性も姿を消していた。
またも悲鳴があがった。目を向けると、〈カリスト〉と警棒を振りかざした男性の間、まるで〈カリスト〉を庇うかのように、炭素繊維の板が地面に突き刺さっていた。振り下ろされた警棒は炭素の板にねじ込まれていて、男はそれを抜こうとしたが炭素の板がしなるばかりで抜ける気配はない。
その直後、突然彼の上に影が現れて男に覆いかぶさった。男は地面に組み敷かれ、影は男を取り押さえている。影の正体は警備服を着た女性だった。テレポーターだ。
わたしは〈テラ〉に命じて、スマート内耳が聴神経に流す音声をその方角からのものだけに絞る。すると、組み敷かれた男の怒声が聞こえた。
「何だよお前は!」
「警察です。現行犯で逮捕します」
さらに、残ったデモ集団を取り囲むように無数の炭素パイプがテレポートされた。下部のわずかに地面に突き刺さり倒れることのなくなったそれはデモ集団を閉じ込める檻のように見えた。
「何が警察だ、新人類め! 国家権力にまで媚びを売りやがって!」
男は上に乗った女性を跳ね飛ばした。尻餅をついた女性に殴りかかろうとしたが、女性が両手を掲げた瞬間、アシストスーツを着用した警備服の男性二人が両者の間に召喚された。男が一瞬ひるんだ隙をついてアシストスーツたちは男を今度こそ手錠にかけた。
オーディエンスは無言でその光景を見ていた。警備服たちに連れられる男らに罵声を浴びせる人も、撃退したテレポーターの女性に喝采を投げかける人もいなかった。
デモ集団がいなくなった後は、まるでそんな連中が最初からいなかったかのように、並ぶ人々は各々の連れと談笑に耽っていた。
何回か振り返って後ろを確認したが、赤いニット帽の姿はもう見えなかった。それを気にしている素振りを見せる人は誰もいなかった。
「どうしたの、真弓」
横からひかるは怪訝そうにわたしを見下ろしていた。
「何でもない」
わたしは天を仰いだ。〈ペラゴルニス〉の姿はもう消えていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます