1.17 どいつもこいつも、何も分かってない

「わたしに……」絞り出せる声はもう残っていなかった。


「大層な使命を背負わせないでよ……」


 掠れた嘆声をヴィオラは流すことなく受け止め、飲み込んだように見えた。彼女は黙ったまま、わたしの次の言葉を待っていた。まだ絞り出せというのか。


「わたしはね」大きく息を吸う。


「ただ、平和に、仲良く、毎日を過ごせればそれでいい。一体何なの、テレポーターと非テレポーターって。一体いつ、誰が、その線引きをした訳? その線引きは本当にいるの? だからわたしはテレポーターでも、非テレポーターでもないの。一人の人間なの。そのためなら何だってする。息苦しい人間の仮面だって被ってやる。たとえこの秘密を墓まで抱えていったとしても、わたしという出来損ないの歯車が、人間として、社会の中できちんと回るのなら、それでもいい!」


「あなたの感じる息苦しさを、これから生まれる未来のテレポーターにも背負わせるという業と向き合っても、同じことを言えますか? それだけじゃありませんよ。確かに、今までのあなたはそうやって適応して、人間の振りをして生き抜いてこられたかもしれません。でも、大学に進学して、社会に出る――あなたが思い描いている未来のレールは、あなたが思っている以上にもっと、ずっと息苦しいものなんです。このままでは、あなたはいつか窒息死する。きついことを言うようですが、あなたの考えはただの甘えた子供の幻想に過ぎません」


「だったら独身を貫いて死ねば満足? 一人で生き抜く頭脳だってわたしにはある! それとも、クリスパーでテレポーター遺伝子を除去すれば許してくれる? この忌々しい遺伝子なんて、絶やすことに未練なんざ全くないっての! あんな夫婦を見てきたから、結婚願望からは小学校と共にとうに卒業した! 秘密を抱えて、加護に縋って、ねじくれたのはわたしの自己責任。勝手に一人で死なせてくれよ!」


「あなたはそんな人じゃありませんよ」


 虚を突かれて、返答に窮した。それも束の間、腸が沸々と煮えくり返った。


「何を根拠に」


「勝手ながら、当社がMI以外に保有しているあなたについての情報を分析させていただきました。統計的には、あなたがそんな無慈悲で自分勝手な人間である可能性は棄却されました」


「個人情報を盗み見たね。悪趣味」


「情報銀行から弊社への全データ提供に同意しているのはあなたですよ」


 返す言葉が見つからず、聞こえるように舌打ちを返してやった。


「あなたが知っているかどうかは分かりかねますが、使命を果たさずにはいられない――そういう人なんですよ、脇坂真弓という人間は」


「買いかぶり過ぎじゃないの。わたしはそんなできた人間じゃない。使命に燃えるなんて、ハッ、まさか」


「どうでしょうか」


 ヴィオラは含み笑いを浮かべ、腕時計に目をやる仕草をして見せた。


「夜も遅いですし、今日のところは、これで失礼させていただきます。色好い返事が聞ける日を、楽しみにしています」


 瞬きの合間に、彼女の姿は消えていた。




 大きく息を吸う。長い潜水を終えた後のように、息があがっていた。


 椅子に深く腰掛けて、ヴィオラが消えた空間に目をやった。その向こう、ベッドの上に乱雑にスピーカーが置きっぱなしなのが気になって、定位置に転移させた。ただ、どうにもうまくできた気がしなくて、振り返って机上に目をやった。案の定、定位置を示す線から二ミリずれていた。投げつけたい衝動をこらえながら、今度は手で直した。


 かすかに、階段を昇る足音が聞こえてはっとする。あれだけ声を張り上げたんだ。階下の母に聞こえないはずがない。


 ノックもなくドアが開いた。


「真弓、どうしたの」


「何でもない」


 わたしは目を伏せた。


「何でもなくない。今の怒鳴り声、真弓でしょ。……誰?」


 わたしが押し黙っていると、母の足が一歩前に踏み出されるのが見えた。


「同級生と喧嘩でもした? まさか、約束を破った訳じゃないでしょうね」


 母と幼い頃に交わした約束――テレポーターであることを、人に悟られてはならない。


 わたしは肩をすくめてみせた。「まさか」


「ちょっと、秋のアメリカへの修学旅行のことで、班のメンバーと揉めただけ。大したことじゃない」


 嘘は吐き慣れていたが、母の顔を見ると、険しい目つきはわたしの表情の裏側を見据えているようだった。母が扉を閉める。〈ソフィスト〉という諸刃の刃をかつて握っていたの手の中の空隙を風がひゅうと流れる。


「ノブリス・オブリージュを忘れた訳じゃないでしょうね。どんなに嫌なことがあっても、人に当たらない。責めない。憎まない。それが本当の強さだと、教えたはずだけど」


 わたしは反射的にしおらしく謙虚な娘になった。俯きながら、ごめんなさいと声を絞り出す。息を止め、思考を止め、目を閉じて、すべての入力に謝罪という出力を返すだけの単調な関数になる。母は満足せず、呪詛の言葉を延々とわたしに浴びせかけた。その度に、わたしの脳内でスパークが帯電していく。


 限界はすぐにやってきた。そのスパークは脳髄を飛び出して、わたしの運動神経をひた走り、わたしの腕を動かした。母の声を掻っ切るように横に突き出された腕はクローゼットの扉の方に伸ばされる。左から二十二番目のハンガー。壁面からの距離百十センチ。次の瞬間には、わたしの手はクローゼットの中のそのハンガーの取っ手を掴んでいた。ネイビーのウインドブレーカーをかけたものだ。


「真弓!」


 母の怒声をひらりと躱すように体を半回転させながら、ウインドブレーカーを羽織り、ハンガーを投げ捨てる。床に当たる直前に、元の場所にテレポート。


 カーテンの隙間から覗く満月目掛け、わたしは夜空へと駆け出した。




 鋭い秋の夜風がわたしの頬を切っていく。無慈悲なまでの冷たさが心地よかった。


「ねえ、〈テラ〉。ちょっと聞きたいんだけど」


 夜の街を駆けながら、わたしは腕時計型端末に話しかけた。


「どうしたの、真弓」


 彼の声が耳元で響く。


「ヴィオラが〈ソフィスト〉を搭載していた可能性は?」


「僕にはその判定はできないかな」


「それなら、〈ソフィスト〉の販売実績のデータは? なければ、ニュースでも、IRでもなんでもいい。〈ソフィスト〉の主戦場を教えて」


「でも、真弓、僕はその情報に関するアクセスをしちゃいけないって」


「いいから、やるの。さあ、十五秒でサマライズして」


「ちょっと待ってね……〈ソフィスト〉は元々企業向けのプレゼン用AIが大本みたい。そこに聞き手の属性を考慮したアルゴリズムが付随していって、説得用に特化させたバージョンが〈ソフィスト〉として売られるようになったという経緯がある。商談にも有用みたいで、売り上げの九割が法人らしいよ」


「そう、ありがとう」


 わたしは安心した。あれだけ感情を搔き乱す悪魔の話術は〈ソフィスト〉だけで十分だ。わたしは既に住宅街を抜けて、ビル群の上空を闊歩していた。


「でも、ヴィオラが言ったこと、嘘じゃないと思うよ」


 空にテレポートした直後、〈テラ〉の思わぬ発言にわたしは着地に失敗しそうになった。受け身を取り損ね、雑居ビルの屋上に膝を打った。


「どの発言のこと?」


 ぶつけた膝をさすりながら問いかける。


「真弓が無慈悲で自分勝手な人間じゃないってこと」


「あんたのその機嫌の取り方、あからさま過ぎて嫌い」


 わたしの真下、ネイバーフッドの電子広告の中で、ヴィオラは満面の笑みを浮かべていた。彼女がわたしに囁くかのように広告内に文字が出現した。


 ――テレポーターと非テレポーターと、手を取り合える世界を共につくって参りましょう。


 わたしはヴィオラの顔を踏みつけた。何度も、何度も。



* * *


 どいつもこいつも、何も分かってない。


 高層ビルの屋上から足を投げ出すようにして腰掛け、色とりどりのネオンLEDの海を見下ろすと、神にでもなった気分になる。


 道路なんて飛んで渡っちゃえばいいものを、群れをなす蟻たちはご丁寧に赤信号にせき止められてうずうずしている。スクランブル交差点の信号が青になると、ダムが決壊したように蟻の波は一斉に流れ出して交錯する。それはまるで荒波と荒波とがぶつかり砕きあい、飛沫をまき散らすよう。そして信号は再び赤になり、ちょっと遅れてダムの水門は再び閉まる。行き交う鉄の塊が逃げ遅れた蟻をひき殺す瞬間を見たいと思う自分がいる。


 目を脇に向け、車道脇の水路に目を向けると、交差点から追いやられた蟻の群れは狭い通路の中で蠢いていた。あっちに行きたい人とこっちに行きたい人と信号が青になるのを待ちたい人とがそれぞれの縄張りを主張しあい、ぶつかりあったいざこざが生む熱気は上昇気流に乗り、ビルの壁面を伝って私をくすぐってくる。


 そんな光景を見る度、私の歯の隙間からは笑みがこぼれ落ちる。でもその乾いた笑い声もビル風にさらわれて、自らの周りのちっちゃい世界に夢中な彼らの耳には届かない。きっと、見下ろされていることにすら気付いていない。


 この天空の玉座は、世界の連環から外れた監視塔のようだ。すべての俗事は些末なつむじ風の戯言に過ぎない。ここは、わたしと、ネオンの海と、そして空を舞う二つの月だけから構成されるシンプルな世界。その輪郭をなぞることに耽っていると、気づけば荒れていた心の海もいつの間にか穏やかな波紋に覆われている。


 わたしは頭を上げた。暗雲を退けて、空の中心で静かに微笑む円い光と相対する。太古の昔から、そしてわたしの生まれる数か月前まで、この星の夜を照らす唯一の存在だったもの。地球第一衛星月。今夜は彼女の独擅場だった。彼女の優しい光は風音の雑音を掻き消して、わたしの心の奥底まで温かく照らしてくれる。


 けれども、その眩い光輝を見ていると、穴の奥底でうずくまるわたしの卑しさが白夜のもとに曝け出され、わたしは、わたしが神でないことを知る。高揚感が剥がされた後に残った残滓が凝固して、黒い塊となって喉につっかえた。誰が神だ。彼らとわたしの何が違う。たった一つの遺伝子コードが神と人間とを隔てるなら、遺伝子編集クリスパーはどうして神を量産しない?

その黒い塊を飲み込んだ後も、しばらく胃はむかついていた。わたしは自ら望んで、下界を見下ろすことで心の安寧を図るようになったのではない。わたしをそうせしめるのは、忌々しい血と母の呪詛のせいだ。


 けれども、神も、ヒトも、天の玉座からいつの日か引きずりおろされたように、月ですら、夜の天下の座から降ろされる時はやってくる。忍び寄る暗雲はわたしの悲願を容赦なく飲み込んで表舞台から引きずり下ろすと、今度は別の暗幕の切れ間から青白い光が漏れ始めた。その潮汐力はわたしの胃の中から苦いものをこみ上げさせる。程無くして、その凶星は姿を現した。


 月の半分程の直径に見える、青色がかった星。地球第二衛星エウロパ。わたしはエウロパ目掛けて手を伸ばした。指をかっと開き、右掌に刻まれた円形の痣を――掌の月をエウロパに向ける。目をつむり、あの光を残さず握り潰すように、拳を握りしめる。恐る恐る目を開ける。指の隙間から青白い光は漏れ出していた。


 まだだ。まだ、わたしの力はあの星には届かない。

 

 既に十一時を回っていた。家に一人でいる母はさぞ物を飛ばし散らかしていることだろう。それがかえってわたしの腰を重くさせた。彼女が怒るのは娘の安否を心配しているからではない。娘を人間ごときが捕まえられないことは、彼女が一番分かっている。ただ、代々続く由緒ある家系で、その血を正しく継いだ最後の人間である愛娘が、責務を果たさず、矜持も持たず、鳥籠の外で自由に空を闊歩していることが、彼女の神経を何よりいらだたせるのだ。相応しい行動をしなさい、と彼女は叱責の雨を降らせることだろう。ただ、相応と錯誤は紙一重だ。彼女の時代は鳥籠の中にしか安寧はなかった。


 でも、時代は変わったんだ。何でそれが分からない。


 重い溜息をビルの屋上に残して、わたしはネオンの海に飛び込んだ。

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