1.16 招待状
わたしの通う中高一貫の進学校では不思議な神が信仰されている。
勉学だ。
校内で一番偉いのは、ジャイアンのような声の大きいやつでも、保科くんのように運動神経が抜群なやつでも、わたしみたいに強いやつでもない。勉強ができるやつ。真面目に勉強に取り組むやつ。卒業後の進路は大学進学かそれに向けた浪人がほとんどで、それ以外の進路を選択するとまるで犯罪者のような目で見られるらしい。佳みたいにぶっ飛んだファッションに身を染める人もいるけれど、彼女はファッションテックの革命を起こすと情報技術の勉学に余念はないから、彼女は「偉い」。先生たちも皆彼女の意志やその格好に好意的だ。もちろん、ひかるみたいにアンバランスながらも飛びぬけたセンスを持つバケモノは一目置かれる存在だし、わたしみたいに勉学そのものに対し情熱を持ってはいなくとも、なんだかんだ真面目に課題をこなしながら受験の準備を着々と進めていれば人権はもらえる。そういった意味ではここは居心地が良かった。
大学を中退せざるを得なかった母にとっても、有名私大を出た父にとっても、歴史は浅いながらそういった有名大学に多くの卒業生を送り込んでいるこの進学校への進学は嬉しいことだったらしい。家庭教師の松村さんだって自分のことのように喜んでくれた。
だから、わたしも〝人間〟として生きたまま大学へと進学するのが当然だと思っていた。それなりに勉強し、それなりの大学へ進学して、そこから先の人生はまだ分からないけれど、きっとそれなりにいい人生を送ることができるだろう。わたしの人生にはテレポート能力なんて関係ない。これはあくまでわたしのプライベートをちょっと彩るスパイスのようなもので、自分のためにしか使わない。ネイバーフッド社に入社して、〈ガニメデ〉みたいにテレポート能力を社会に還元しようだなんてつもりは毛頭なかった。再来年ネイバーフッド社がシンガポールに開校する世界初のテレポーター養成大学に行くつもりだって毛頭なかった。そのことだけは母に完全に同意だった。わたしはもう第二の保科くんを生み出したくはなかった。
その女――ヴィオラが現れるまでは。
街中を飛ぶとき、無人バスや建造物の上面でよく見かけるネイバーフッド社の広告には、必ず純白のスーツに身を包む黒人女性の姿が写っている。空を飛べるテレポーターなら誰もが知る存在。
その姿がわたしの前に現れたのは今から二週間前、プログラミングⅢの期末課題のコーディングに追われていたときのことだった。
締切は明後日。難所を一気に畳みかけて攻略してやろうと意気込んだそのとき、〈テラ〉がスマート内耳経由で控えめに囁いた。
「真弓。重要度Aのメッセージが届いたけど、どうする?」
カチューシャ型脳波リーダを外す。このまま一気にコーディングを仕上げたかったが、〈テラ〉に設定させた連絡の重要度判定で最高値のAが出てくるものがどんなものか、興味を拭えなかった。それに、
「そろそろ休憩したら、真弓。BMIデバイスが集中力の低下を警告してる」
わたしは一旦脳波リーダを外した。
「そうする。で、どんなメッセージ?」
声で〈テラ〉に指示すると、わたしは背後から微かに息遣いを感じて振り返った。姿見の前に、純白のスーツに身を包む黒人女性が直立不動の姿勢で立っている。けれども、姿見には目を見開くわたしの姿しか映っていなかった。AR表示されていると気づくまでの一瞬、血の気が引いた。
彼女の姿には見覚えがあったが、その当時のわたしはまだ、どこで見たかまでは思い出せなかった。
「連絡主は
昔からSF映画でよく見られたインタフェース。ARやホログラムを用いて、目の前にいない相手と対面しているかのように話すことができる。ただ、わざわざF2Fを選ぶ意味が見出せなかった
「で、連絡主は?」
「ネイバーフッド・コーポレーション」
その名を聞いて合点がいった。この女を見たのがどこか思い出した。
「応対を許可する。耳元で囁かれるのは嫌だから、音声はすべてスピーカーからお願い」
「スピーカーは真弓の真後ろにあるよ」
「分かってる」
〈テラ〉の忠告を受け流し、背後の机上に置いてあったスマートスピーカーをノールックでベッドの上、ちょうどARの彼女の背後にあたる位置にテレポートさせた。
突然、目の前の女性が肩の力を抜いたように少し重心を移動させ、口元を綻ばせた。
「初めまして。脇坂真弓さんですね。私はネイバーフッド・コーポレーションのヴィオラと申します」
やけに機械的な口調で、スマートスピーカーを借りたヴィオラが言った。話し相手がAIであることをわざと匂わせるために、意図的に旧時代的なぎこちない口調を再現したものだろう。
「何の用でしょう」
「毎度、我が社が運営するMIテストをご利用いただきありがとうございます」
今度は、イントネーションの流れの中に浮かぶ違和感の塊は砕けているような口ぶりだった。ヴィオラは続けた。
「今年度、あなたが残した八十一というスコアは大変素晴らしいものです。ミリ単位での正確無比な制御に、精密機械の中から指定したトランジスタだけを使用可能な状態で抜き出すA難度のノールックテレポート。さらに位相破壊〈不全〉の課題は成功率一パーセント未満のS難度。感服の限りです。
さて、私どもはあなたのスコアを鑑みて、あなたこそ再来年度シンガポールに開校予定のテレポーター養成大学に入学する生徒として相応しい人物であると判断いたしました。私どもは、ぜひあなたに入学していただきたいと考えております」
「本当だったんだね、その噂」
ネイバーフッドがテレポーター養成大学の入学者をヘッドハンディングしているという噂は二か月前くらいから出回っていた。噂が流れてから二か月。わたしは無駄に心を搔き乱されていた。ネイバーフッドは強力なテレポーターを集めている。つまり、ネイバーフッドからの誘いは、世界最大のテレポーター事業者が自分の力を認めたことの証左だ。そして、何も声がかからないことは、その逆を意味する。ただ、質の悪いことにその話は噂であり、公式が何も言っていないことから、真実かどうか分からなかった。だから仮に自分がネイバーフッドの認める存在だったとしても、声がかからないことだってある。
二か月。それが早い方か、遅い方かまでは分からない。
「通常はいくつかの試験に合格していただくことが入学の条件ですが、脇坂真弓さんの場合には、既にMIテストでそれより高難度の課題をいくつもパスしていることから、特待生待遇として、試験のパスおよび学費や寮の施設利用料の免除をいたします」
「それはありがたい話だけどさ」
わたしの脳裏を過ったのは、大勢の報道陣の前で堂々を話す〈ガニメデ〉の姿だった。わたしは、彼のようにはなれないし、なるつもりもない。テレポーターは趣味やプライベートに添えるスパイスのようなもの。わたしもひかるたちのように大学入試に向かうレールをひた走るつもりだった。もちろん、それで済ませる気は毛頭なかったけれども、訓練は人の目を忍んでやればいいだけのこと。
「私どもも、何も、今ここで即決してくださいとは言いません。あなたにはまだ大学入試まで一年以上の時間が残されています。ご家族と相談し、ゆっくりと自分の進路について考えていただきたいと考えております」
家族と相談という言葉がひっかかった。仮に、未来のわたしがシンガポール行きを熱望たとしても、母親の説得のために〈ソフィスト〉をまた使うと考えると胃がむかついた。
「仮にその話をわたしが受けるとしたら、いつまでに返事すればいい?」
「高校三年生の、十二月頃までには」
その返答をわたしは聞き流した。自分で訊いて置きながら、興味は失せていた。テレポーター養成大学? 繰り返すだけで笑ってしまいそうだ。わたしは〈ガニメデ〉とは違う。〈ガニメデ〉を囲むのが報道陣の大口径のカメラなら、わたしを囲むのは同級生たちの礫のような視線。今度こそ、わたしはエウロパ人(テレポーター)とののしられる。
「一つ、補足ですが、テレポーターはその力のことを隠している方がほとんどであることは我々も認識しております。弊社所属のテレポーターでさえも、その実名や顔写真を晒さない者も多い。特に、自身の肉体の転移が出来ず、自衛能力の高くない方の中には、定期的に顔面の整形を行う方もいます。我々ネイバーフッドは、入学していただく学生の保護のため、仮面入学の補助制度を導入しております」
「仮面入学?」
「一旦、正規の受験ルートで一般の大学を受験していただき、そこに入学していただきます。テレポーター養成大学は九月入学ですから、四月からの半年を大学生として過ごしていただいても、休学して自由に時間を使っていいただいても構いません。そして九月、あるいは年度末に退学し、テレポーター養成大学に改めて入学する。これで、高校の入試実績にもその証拠を残すことなくシンガポールに行くことができます。ただし、補助費用は国立大学の入学費及び学費一年分相当額が上限値であることと、また一年足らずで退学することから推薦制度の利用をおすすめできないという留意点はありますが、どこかしらの国立に受かる学力があるならば、脇坂さんの負担はまったくなく、テレポーター養成大学に入学すると共に、高校の先生方や同級生に素性が晒されてしまう心配も回避することはできます。もっとも、脇坂さんの高校名を見るに、国立大に行くことは造作もなさそうですが」
「そこまでやるとは思わなかった。どんだけ本気なの」
「もちろん、すべての方にお声かけしている訳ではありません。将来、テレポーターとして活躍した方が社会的に、いや、世界的に大きな利益になる、と弊社が判断したごく少数の限られた方にのみ、こういった案内をさせていただいております」
「お世辞どうも。……でも、シンガポールに行くことになれば、当然、高校の同級生とは縁を切ることになる」
「それは」ヴィオラは言い淀み、目を伏せた。さすが最新鋭のAIだけある。こういう時だけ人間味を露出し、感情を逆撫でしないように気を配る。論理的にはわたしの癪に障るはずだが、悔しいことにわたしの心の中に燃え盛る黒い炎はない。
「テレポーターとして生きていくために、ある程度は致し方ないことなのかもしれません。弊社所属のテレポーターも、プライベートでは苦労されている方が多いのは紛うことなき事実です。テレポーターと、非テレポーターの溝はまだ完全には埋まっていません。我々の使命は、テレポーターの力を社会に還元することで、その溝を埋めることです」
「その使命のために、平穏な日常に、交友関係、果ては家族をも犠牲にしろと」
ヴィオラはすぐには答えなかった。ただ、フリーズしたかと思う程に、その表情は固まったまま、目線だけはわたしに向けられていた。
「脇坂さん」重い沈黙を挟んでから、ヴィオラが口を開いた。
「ノブリス・オブリージュという言葉を知っていますか」
母のそれと重なるようなヴィオラの声はわたしの中の記憶の地層に深く突き刺さり、その衝撃に誘発されるように、幼い頃の加護にまつわるすべての記憶が脳内でスパークした。それはわたしの頭を揺さぶって、平衡感覚を吹き飛ばす。大地が揺らいでいるような感覚が大潮のように押し寄せてきた。
「力ある側に、溝を埋める義務があると?」
AIとの会話中、人はすぐに喧嘩腰になると言うが、今のわたしも例外ではなかった。ヴィオラはやや気圧されたような表情を浮かべてみせたが、その裏で彼女が実際に苦しみを感じている訳ではないと考えると、こちらの気分も悪くならない。むしろ、もっと悪態をついてやりたくなる。
「〈新人類同盟〉に代表されるテレポーターのテロ組織が残した爪痕はご存知でしょう? 〈ゼウス〉が残した証を毎晩見ているでしょう? 非テレポーターは恐れているんです。私たちの、力を。当社のMIテストの記録を参照するに、あなたが自分自身のテレポートをできるようになったのは小学校高学年頃と推定できますが、夜道を歩いたことがありますか? ドローンすら飛び交わない暗い夜道を歩くことの心細さ、不安を知らないでしょう。彼らがテレポーターに抱く感情はそれと同じです。たとえ、あなたが善良で、親人間派で、それどころか犯罪者から弱者を守るスーパーヒロインだったとしても、彼らは簡単にはあなたに心を開きません。もっとも、脳波リーダーで読み取ったあなたの思考を、AIアシスタントに大きな声で朗読させても問題ないというならば、話は変わりますが」
不安を知らないというのは痛い程に図星で、首を横には振れなかった。ただ、AIであるあんたにはもっと分かる訳がないじゃないか――そう喉まで出かかったが、飲み込んだ。吐き出した呪詛はすべて自分に帰ってくる。心を持たないAI相手に呪詛をぶつけたところで、何も得るものはないと自分を論理的に諫める。それができるくらいにはまだ冷静だった。
「そのような恐怖に対し、力ある者が取るべき行動は一つしかないのです。自分に力があることを認めることです。その上で、今までと同じように接し、自分が害を及ぼす存在でないことを、示し続けるのです。たとえ石を投げられようとも、避けられようとも、決して手をあげることなく、耐えるのです」
「理想論だ!」
胃の中からこみ上げるものをすべてぶちまけるようにわたしは吠えた。
「現実には、大事な友人を失うかもしれないというリスク、孤独が待ち構えているというリスクが常につきまとう。結局、わたしたちテレポーターにとって、一番ラクなのは、自らの正体を隠して、人間の振りをして生活することだ!」
「息苦しくはないのですか」
ヴィオラが間髪入れずに告げたその言葉がわたしの口と鼻とに張り付いた。息が詰まって何も答えられなかった。
「その生き方が、一人のテレポーターにとって、最も幸せな生き方であることは否定いたしません。でも、その最適解に満足できるかは、また別問題。隠し続けること、秘密を抱え続けること、自分の本当の顔を晒さないために仮面を被ることの苦しみは、あなたにも分かるはずです」
「何が望みな訳」
わたしはすべての思考を放棄して、ヴィオラの言う言葉の意味を消化することをやめた。苦し紛れに、声を必死に絞り出すのがやっとだった。
「すべてのテレポーターの幸せですよ。ただ、テレポーターはマイノリティです。非テレポーターという隣人との付き合い方を考えずして、それを成し遂げることは不可能です。だから、我々は近所付き合いをうまくやる方法を模索しているのです。そして、その実現のためには、世の中のテレポーターたちの協力が欠かせないのです。もちろん、あなたの協力も」
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