1.14 悪魔の詭弁家

「〈ナビゲーテル〉を買いたいんだけど」


 今から一年前、わたしがそう言ったとき、母は渋い顔をした。情報銀行からネイバーフッドへの情報提供を最大限認めて、その多くのサービスを学割と併せて無料で受けているわたしでも、その最新鋭アプリケーションの購入には一介の高校生の手に出せない額が必要だった。妻と娘がテレポーターであるとは知らない蚊帳の外の父にも当然頼めない。


「そんな得体の知れないもの、なくたって私はテレポーターになれたよ」


 テレポーター産業もまだ下火だった二〇二〇年代、テレポーター能力の効果的な訓練法についての知見も不十分で、わたしは力のすべてを母に教わっていた。暴発を防ぐ経験則。人目につかないための隠蔽テクニック。そして、テレポーターとしての矜持。しかし、小学校五年生のとき、わたしが自分自身のテレポートに成功したとき、その師弟関係は終わりを迎えた。テレポーターの八割は自分自身すらテレポートさせることができない。母もその例外ではなかった。わたしが自らの殻を破るためには、母に代わる新たな師が必要だった。だが、それは同時に鳥籠からの脱走をも意味する。母が快く了承するはずもなかった。


 とはいえ、十五歳のわたしは頭を使うことを覚えていた。母を説得するために、わたしはAIアシスタントの月額制拡張機能〈ソフィスト〉を契約していた。費用はアンチ・ソフィスト社にすべての会話データを提供する同意をしたことで賄えた。母の会話を数か月に渡って〈テラ〉に学習させ、思考パターンや価値観を分析し、その人に最も響く殺し文句を提案する。それも、ただ会話文の一例を作成するのではなく、会話の最中に会話を聞き取りながら、最適な返答をスマート内耳やらで教えてくれるリアルタイムインタラクティブアプリケーションだ。


 そして万全の準備を整えたわたしは三か月の準備期間を経て、母の言葉を以て母と対面することにした。


「母さん。あなたは何のために、あのサイコパスと結婚したの?」


 それが、〈ソフィスト〉が切り出しに選んだ言葉だった。娘の趣向も知らず、妻と娘の秘密も暴けず、家にもほとんど帰らず不倫をし、そして「あの事件」を起こしたことを考えればその評価は妥当だとは思ったけれど、母との衝突は慣れっこのわたしでさえも声が上ずってないか気がかりな程のセリフだった。


「テレポーターとしての誇りを守るために決まってるでしょ。この力の存在をテレポーター以外には明かすことはできない。それがたとえ、自分の夫だとしてもね。だからもし、子供が生まれて、その子供がテレポーターとしての力を発現させたなら、子供の力の訓練を夫に見せずに行いたかった。だから、あなたには寂しい思いをさせたかもしれないけど、家庭的で、献身的で、温かい心を持った人――そんな夫の理想像の体現者を伴侶にする訳にはいかなかった。結婚する前から分かってたわよ。あの人が、体面のためだけに家庭という形式を欲していたなんてことは。心から私を愛している訳じゃないなんてことは。だから、あの人が外で別の女性と仲良くしていようがいまいが、私にはどうでもいい。最初から期待してないの」


 そこで母は言葉を切った。わたしは息を飲み、〈テラ〉が返答を教えてくれるまで待とうか逡巡した。だが、〈テラ〉はその逡巡をすぐに打ち砕いた。


「幸せで愛のある結婚生活をしたいという願望はなかったの?」


〈テラ〉の言葉をそのまま復唱する。


「もちろんあった」母は即答した。母の目は、わたしの背後より遥か遠く、わたしですら知り得ない遠い過去に向けられていた。


「この人と結婚したいと思うような出会いもあった。でも、自分の力と、そして過ち――秘密を抱えていることが負い目になって苦しくなって、私から別れを切り出した。そして、結婚する相手は、私が秘密を抱えていようがいまいが、気にもしない人がいいと思ったの。私には、あなたみたいな頭脳はないし、二十代の頃は逃げ惑うために仕事を転々としてたから、自分一人を養うのに手いっぱいだったしね」


 わたしは何も言い返せなかった。〈ソフィスト〉も沈黙を選んだ。


「だから、私は婚活用のマッチングアプリで結婚相手を探した。愛してるよ、という言葉を囁くだけの、上辺だけの人を探した。そして出会ったのが、あの人。向こうにとっても、私の親類と縁が切れている状態は都合が良かったみたい」


「後悔はない?」


 わたしの、いや、〈ソフィスト〉の問いに、母は若干言葉に詰まった様子を見せた。


「万事がうまく行ったとは思えないけど、後悔はないよ。どうせ、私には帰る家なんてなかった訳だし、最低限の隠し事で、今の安定した生活が送れるなら、何ひとつ文句はない。それに、真弓は私を超える力を手にした。あなたなら、人を殺すことなく、自らの身を守れる」


「そっか……」


 思わず言葉が口を突いて出た。母がテレポーターでない姉妹を守るため、自ら家を出たことは聞いていた。そして、自らの身を守るために犯した過ちのことも。一瞬遅れて、視界の端に〈ソフィスト〉の指示が浮かぶ。似たようなものだった。


 体が熱くなって、わたしは羽織っていたパーカーを脱いだ。そして、二階にある自室のクローゼットから、左から二十番目、壁面からちょうど百センチの所にある空のハンガーを手元に呼び寄せ、パーカーをかけ、ハンガーごとクローゼットに送り返した。


「相変わらず、離れ業をして見せるのね」


 母は感心した目を、直前までハンガーを握っていたわたしの右手に向けた。その賛辞はわたしに向けられたものか、掌の月に宿る兄の幻影に投げかけられたもののどちらだろう。


 耳元で〈テラ〉が囁く。でも、そのお陰で。


「でも、そのお陰で、わたしはMIを八十の大台に乗せることができた。そのことには感謝してる。だけど、ここから先はね――」


 そのこと「には」か。〈ソフィスト〉が怖くなった。何故、〈ソフィスト〉はわたしがそれ以外には感謝の念を抱いていないと認識したのだろう。


 コンタクトディスプレイに指示が表示される。しおらしく、不安げに。無慈悲だ、と思った。息継ぎをする間もなく、わたしは不安に悩める少女の表情をしてみせる。


「わたしも、母さんも知らない領域だから、これ以上力を伸ばせるかどうか分からない。時折ね、不安になるの。誇れるような力を、わたしは本当に備えているのかって」


 母の眉がぴくりと動くのが見えた。〈テラ〉は立て続けに発言を命じる。


「世の中には、〈ゼウス〉や〈ガニメデ〉みたいなバケモノじみたテレポーターたちがいる。わたしは訓練のお陰で、自分自身のテレポーターができる二割に入ることができたけれど、彼らには遠く及ばない。そんな程度の力しかないわたしには、本当に、テレポーターを名乗る資格があるの?」


〈テラ〉はそれ以上言葉を紡がなかった。〈テラ〉の指示通り、わたしは心に訴えかけるように、表情と抑揚には特に気を配った。


「考えさせて」


 母はそう言って部屋を出た。


 その夜、わたしは耐え難い吐き気で眠れなかった。それなりに演技はうまくできたと思ったが、あんなしおらしくて向上心にあふれた健気な娘を自分が演じていたと思うと、それだけで鳥肌が立った。


 何が資格だ。わたしにはテレポーターどころか、人間を名乗る資格すらあるもんか。もう二度と〈ソフィスト〉なんて使わない。深夜のよく分からない時間にベッドから飛び起きる。頭がガンガンして、立ち上がるとふらふらしたが、目だけは異様に冴えていて、今にも眼球が眼窩から飛んでいきそうだった。


「どうしたの、真弓。眠れない?」


〈テラ〉の無邪気な声がスマートスピーカーから飛んでくる。その瞬間、〈ソフィスト〉の無慈悲な発言が脳裏をよぎった。悪魔の詭弁家の代弁者に〈テラ〉を使ったことを後悔した。


「〈ソフィスト〉を解約して」


「解約理由のアンケートがあるよ。候補を読み上げる? それとも自由欄?」


「自由欄で。それから〈ソフィスト〉を起動して、〈ソフィスト〉自身に解約理由を作らせて。わたしの感情の言語化をお願い。全部スマート内耳で」


〈テラ〉が耳元で囁く。その声をわたしはなぞる。


「頭蓋骨をぱっくりと割られて、脳内の水分をすべて可塑性樹脂に置き換えられて、固くなった脳をスライスされるマインドアップローディングを生きながらにされているような気分と、その光景を脳に見せる電気信号の濁流を、後頭部に電極をぶっ刺されて直接視覚野に流し込まれた気分の二重苦を味わったから――そう入力して」


「了解」と無邪気な〈テラ〉が再びスピーカーで答えた。


「〈ソフィスト〉を解約したよ。月内は使えるって」


 わたしは追加で、その忌々しい名を読み上げることも、二度と広告にも検索結果にも表示させないよう〈テラ〉に命じた。広告への干渉には課金が必要だったが、背に腹は変えられなかった。


 翌日、〈ナビゲーテル〉購入費用を母はあっさり出してくれた。娘の修学旅行費と父には説明したらしい。(実際は積立金でほとんど賄えた)たったあれだけの言葉で、母の意思を変えられるとは思っていなかった。ただ、あの日の出来事を乗り越えられたからこそ、今、わたしはこうして〈ナビゲーテル〉を手に自分の限界に挑むことができる。

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