1.13 遺伝子の文法2

「あれ、でも……」


 ひかるは頬杖をつき、ぼそりとこぼした。


「どうしたの、何かひっかかる?」


「何だっけ、ほら。X染色体って二本以上あると、どっちかを無効にするってのなかったっけ。ライオンみたいなやつ」


X染色体の不活性化ライオニゼーションね。男女でX染色体の数が異なるから、何本あっても同じだけの発現量になるよう調整する機構」


「そうそうそれそれ。でもさ、この機構があったらそうしたらテレポーター遺伝子とそうじゃない遺伝子とがあって、どっちかは無効になっちゃうんじゃない?」


擬似常染色体領域PAR1って領域がX染色体上にあるの」


「PAR1?」


「不活性化を免れる領域のこと。この領域にある遺伝子だけは常にすべて発現して、そしてテレポーター遺伝子はこの上にある。だからテレポーター遺伝子を一つ持つ女性の場合、テレポーターになると同時に、不可欠な遺伝子もきちんと機能するようになってる」


「でも、X染色体が一本しかない男性はテレポーターであることがつまり不可欠な遺伝子を欠かすことを意味するから、幼くして死んじゃうケースが多いのか」


 わたしは強く頷いた。ひかるは言葉の定義をすぐ忘れるが、理解力は図抜けているから説明を大変と感じたことはない。


「じゃあさ真弓。質問なんだけどいい?」


「どうぞ」


「世の中にはさ、〈ガニメデ〉みたいに一定数大人の男性テレポーターもいるよね。あれはどういうこと?」


 わたしは肩をすくめてみせた。「分かんない」


「分かんない?」


「そ。生物って結構複雑でそういうこと結構あるみたいなの。特定の遺伝子をノックアウトしたはずなのに、別の遺伝子がそれを補ってなんだかんだうまくいっちゃう例って珍しくないらしいよ、不思議なことに。不思議と言えば、死にやすいことの代価なのか、男性テレポーターの力の平均値は女性のそれより明らかに大きいみたいでね、かの〈ゼウス〉だって男性だろうというのが定説だし、テロ集団〈新人類同盟〉の幹部も大半が男性だったらしいよ」


 そこまで言ってひかるの目を見ると、その瞳が曇っていた。一体何が彼女をそうさせたのかまでは分からないが、これ以上この話をするのは得策ではないとわたしの中の直感が叫んでいた。


 わたしは別の話題を探そうとした。けれども、方向転換した思考のベクトルに寄り添ってきたのはひかるの方だった。


「そういえばさ、中国の違法デザイナーベビーの話聞いた?」


 わたしはきょとんとしたが、すぐにその助け舟にしがみつくべきだと心の中の〈テラ〉が言う。わたしは頷いた。


「致命的な遺伝病を引き起こす指定遺伝子以外を初めて人為的に改変した例だよね」


 確か、その会社の出資者の一つがオプティマイジーン社だったらしく、同社の株価は急落しているらしい。


「そうそう。今さ、真弓センセーの補講聞いてたら思っちゃって。真弓は遺伝子編集のDIYキットって触ったことある?」


「DIY? 蛍ならあるよ、小学生の自由研究で」


 小学校三年生の夏休みの自由研究につくった三色蛍の思い出は今でも目を閉じると厚い時間の地層を突き破り、マントルからせり上がるマグマのようにわたしを興奮で満たしてくれる。


 でも――。


 遺伝子編集DIYキットの発売会社の辿った末路を思い出すと、わたしはいつも切なくなる。


「ちょっと残念だよね。今の子たちがあれを体感できないのって」


 わたしがそうこぼすと、ひかるは「え」と声を上げた。


「あれ、ひかる知らないの?」


「何が?」


「遺伝子編集DIYキット、五年前に発売停止になったんだよ。会社も倒産しちゃった」


「一体どうして」


「遺伝子ドライブって言葉、遺伝学の前々回の授業で谷原先生が言ってたの覚えてる?」


 ひかるは無言のまま首を傾げた。どんどん体が横に傾いていく。


「特定の遺伝子を持った個体が集団に混じって、やがて集団内のすべての個体がその遺伝子を持つようになる現象だって言えば思い出す?」


 傾くひかるがぴたりを動きを止め、元の直立の姿勢に戻った。


「ああ、それのこと。でも、あれ? 一匹だけ集団に突っ込んでも簡単にその遺伝子って拡散するもの? めちゃくちゃ淘汰圧的に有利な遺伝子を組み込めばいいってこと?」


「それもあるけど、簡単に特定の遺伝子を広めるためには遺伝子編集クリスパーそのものを組み込んだ遺伝子をクリスパーで組み込めばいいの。簡単に言えば、その遺伝子を持ったとき、対立遺伝子も同じ遺伝子に書き換えるようにする仕組みを付け加えちゃうって訳。そうすれば、当初クリスパー搭載遺伝子を一本しか持たないヘテロ結合の子供が生まれても、すぐにそれを二本持つホモ結合になって、その遺伝子は必ず子孫に伝わるようになる。やがて、その遺伝子は集団を支配するに至る」


「そういうことね。蛍の、といえば、皇居の堀の蛍がみんな青い光を放つようになっちゃったってやつか。でも、遺伝子改変ってその遺伝子が集団内に広まらないようにしたものじゃないといけない、って法律なかったっけ」


「うん。キットそのものを使って改変された蛍たちは不妊だったし、仮に逃げたとしても、遺伝子汚染は起こらないはずだった」


「でも起こった」


「誰かがキット付属のとは別の遺伝子編集機をわざわざ使って、妊性を奪うためにノックアウトされていた遺伝子を故意に元の正常な遺伝子に戻したの。それも、ただ一つの遺伝子じゃない。会社は不妊がより頑健なものになるよう複数の遺伝子をノックアウトしていた。なのに、犯人はそのすべての遺伝子をきちんと正常なものに差し替えて、発光色改変遺伝子にご丁寧にクリスパーを搭載した上で、逃がした」


「どうせ逃がすなら希少な虹色蛍にしてくれればいいのに。そうしたら捕まえて売り払ってがっぽがっぽ」


 言っていることとは裏腹に、ひかるの顔はあまり楽しそうではない。


「その発言、リアツイじゃなかったら炎上してそう」


 以来、東京の夜を彩る「天然のネオン」として親しまれていた蛍たちは、「人工のネオン」として、鮮やかな色とりどりの光を発するようになった。皇居の堀は青、目黒川の桜の下には紫色。不忍池には赤色。こうして、元来の緑色のゲンジホタルは日本の水景から姿を消した。


 ただ、これが思いの外、若者たちの人気デートスポットと聞いて賑わっているらしい。ほとんどの人間は、前戯の前戯になるものには見境はないようだ。たとえ、その裏に血と悪意に塗れた経緯があったとしても、交尾を成就させられるなら構わないということか。


「で、犯人は捕まったんだっけ? それだけ専門的なもの、一部の研究者とかしかできなさそうだけど」


「一体どれだけの人があのキットを買ってたと思う? それに、今や汎用型の遺伝子編集機も安価に購入できるし、ものによっては、塩基配列の情報だっていくらでもネットに転がってる。高校生でもできるってさ。だから、非難はすべて販売会社に向けられたよ。マラリアの撲滅や害虫、害獣除去で既に遺伝子ドライブを応用している事例はあったけど、そっちはうまくやっていただけにね。遺伝子ドライブが現存する種に壊滅的な変容をもたらした事案の世界第一号だけあって、全世界が鉾を向けた」


「そりゃあ会社もつぶれるか」


 おまけに、会社の倒産後、元社長の変死体が発見された。司法解剖の結果、体内から無数の赤や青に光る蛍が見つかったらしい。テレポーターの仕業だった。


 体内への物体転移がもたらす影響は大きい。わたしも、その影響を僅かながら被った身として、体内転移がもたらす影響については昔から興味があった。小学六年生の頃、当時の家庭教師の松村さんに勧められるままに犠牲者の解剖状況についてのコラムを読んだことがあったが、キメラ死体と言われるのも納得だった。臓器や血管の組織が融合したそのおぞましさ故か、多くの解剖医がPTSDになって退職に追い込まれた。そして専門家の予想に反し、医療のオートメーション化は通常の医学よりも、法医学の領域でまず先に遺伝子ドライブを起こしたとも聞く。


 ――コンクリート片はたぶん、相手の脳に転移されたのだと思う。


 ふと、その言葉が脳裏を過った。かつて、一人のテレポーターから聞いた、忌々しい体内転移の話だ。


 マンデリンコーヒーを飲んだ後のような苦いものを口に感じた。それを流したくて、コップに手を伸ばす。空だった。立ち上がるのが億劫だったから、もしひかるが他所を向いていたら、給水サーバーの中の水を直接コップ内にテレポートしようかとも思った。実際に、一人で食堂にいる時にはついついやってしまう。食堂内の給水サーバーの位置は正確に把握している。ここから時計回りに百十五度の距離十八メートル三十センチ。だから、ノールックテレポートで百ccの水を抜き取ることなど造作もない。高精度アキュラシーを売りとするわたしが最も得意とするテレポートだ。


 ひかるの目を一瞥しようとしたところで、入れてくるよ、とすかさずひかるはわたしのコップをかっさらっていった。ありがとう、と声をかける間もなかった。


 ひかるが向かった方向の席に毛先がピンクの金髪の姿が見えた。湯川佳だ。向かいには山崎茉鈴の姿もある。二人ともタブレット端末を持ちながら何かを話している。佳が茉鈴に何かを教えているようだった。意外とまじめなんだなあ、とわたしは感心する。


 ――ファッションテックに革命を起こしてやります!


 年度始め、自己紹介で佳がそんなことを言っていたのを思い出した。〈テラ〉プリインストールの粗末なスタイルコーディネートアプリのレコメンドのままにドローンに配達させる質素な布=衣服という方程式の上で生きているわたしにとって、佳の話はなかなか新鮮だった。途中から、自在に色を変えられるトップス〈MAI-Style Chameleon〉の宣伝になってはいたものの、ファッションに興味のない人にまで浸透しているとは言えない現代のスマートファッション業界の現状を憂慮し、その問題点を的確に指摘する様は社会問題のプレゼンとしては満点だった。自己紹介としては赤点だった。


 ひかるの「お待たせ」の声が、わたしの意識を現実にテレポートさせる。ひかるは座りながらわたしの前にコップを置いた。


「ありがとう」


 一口水を含んでからわたしは切り出す。


「で、違法デザイナーベビーの話、だったっけ」


「あ、そうだった」


「どうしてその話を?」


「授業とかさ、真弓センセーの補講とか受け取るとさ、思うんだよね。これだけ遺伝子編集が一般的になるとさ――」


 わたしはコップに口をつけ、ひかるの話に耳を傾ける。


「ごく一部の例外を除き、国際法でヒトのDNA改変は禁じられているけど、今回の事件みたいに、遺伝子編集の誘惑に耐えられなかったというケースってこれからもっと出てくると思う。あなたの息子は筋、筋ジス……なんだっけ」


「筋ジストロフィー」


「ああ、それそれ。長すぎてうちの記憶領域のビット数じゃ保持しきれないけど、そんな筋なんたらみたいな遺伝病になります。でも、適切な遺伝子編集によってそれを除去できます。それどころか、賢くすることも、瞳の色も、髪の色も、肌の色も思いのままです。そう言われたら、ころっと来ちゃう気持ちも分かる気がする。でも、今、真弓の話聞いて思っちゃった。テレポーターにせしめる単一の遺伝子が見つかってるんだから、テレポーターって、作れるんじゃないの? それこそ、〈ゼウス〉をもう一度作ることができたら、大変なことになりそう。〈ゼウス〉はエウロパを転移させたんだよ。だったら、もう一度〈ゼウス〉を怒らせたら、今度は何が起こるんだろうね」


 わたしはどんな表情をすればいいのか分からなくて、とりあえずコップに口をつけた。


 その中の水を口に流し込んでいると、わたしの口は、無邪気で幼い脇坂真弓に水を流し込まれる蟻の巣の入り口のように思えた。それにつられて、トカゲの尻尾を切った日のことも、意図的な暴発でダンゴムシを真っ二つにした日のことも思い出す。思い出しては、水で胃の奥に流し込む。あの頃のわたしは純粋に残酷だった。まだ倫理というものを知らなかった。


 でも、今の人類だって倫理を知っているとはとても言えない。わたしは顔を上げ、天井のシミを見た。


 ねえ神様。


 あなたは何故テレポーターをこの世に生み出したの。純粋な興味故? それとも残酷な世界を眺めて遊びたいの? わたしの色はゲンジホタルの緑色? それとも遺伝子改変させられた蛍の妖しげな赤色? 


 神様は沈黙を貫いた。


 そうだ、神は死んだ。ヒトをつくったのは神などではなかった。そんなパラダイムも、月だけが昇る空のようにある日突然終わるのだろうか。今度はヒトがその座につくときだ。ヒトがヒトをつくる。ヒトがテレポーターをつくる。新たな時代はもう、地平線のすぐ下に来ている。そして高々と空に舞い上がるその時を今か今かと待っている。


 昼休みの終わりを告げる鐘が鳴って、生徒たちの溜息が食堂に充満した。

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