1.12 遺伝子の文法1

 ヒンディー語の文法によれば、ヒトの染色体は両親から二十三本ずつもらい合わさった計二十三対の四十六本。そのうちの二本は性染色体と呼ばれ、女性ならX染色体が二本、男性ならX染色体とY染色体とが一本ずつ。そして一対の染色体うち、どちらか一方にでもその遺伝子があればその形質を発現するものは顕性と呼ばれ、二本ともあって初めて発現する形質は潜性と呼ばれる。


 タブレット上でテキストを走らせながら確認すると、ひかるもこれらの基本事項くらいは覚えているようだった。わたしは一旦タブレットから顔をあげ、面と向かって訊いた。


「ひかるが腋臭わきがなのはなんで?」


「え、うそ」


 ひかるは慌てて自分の腋の臭いを嗅ぎ始めた。すぐさま不思議そうに顔をしかめる。


「仮の話」


 淡々とした口調でわたしがそうこぼすと、ひかるは下唇を突き出しながらこっちを静かににらんだ。


「仮の話?」


「そ、仮の話」


 ひかるはラーメンのスープの残りをがっと飲み干してから答える。


「顕性遺伝だから。その遺伝子の一つないし二つ、持ってるから、でしょ?」


「そう。この遺伝子は耳垢のウェットとドライにも関連してるから、ひかるが腋臭(わきが)なら耳垢は湿ってるはず」


 ひかるは躊躇せず耳に指を突っ込んだ。わたしには真似できない。


「ほんとだ。うちの耳垢、


 再びタブレット上でテキストを走らせて確認を進める。伴性遺伝の話に入ると、ひかるは空っぽのどんぶりのように虚ろな目をし始めた。わたしは根気強くもう一度説明を試みる。


「潜性の遺伝子がX染色体上にあっても、もう一本の染色体に別の遺伝子があったらそれは発現しないでしょ? でも、男性のX染色体の数は?」


「一本。……あ、だから男性の場合、X染色体上の遺伝子は潜性顕性関係なく、一本持っている時点で発現しちゃうのか」


「そゆこと。二色型色覚が男性に多いのはX染色体の潜性遺伝だから。女性の場合、それが二本ないと発現しないから、患者の数は男性に比べてかなり少ないって訳」


「なるほどね。そういえば……テレポーター遺伝子ってさ」


 わたしはぎくりとした。ひかるからその単語を聞くのは初めてだった。


 ただ、ひかるの目を見ると、彼女は蟻の巣に花火を突っ込む少女と同じ目をしていた。きっと、伴性遺伝についての授業の回で、テレポーター遺伝子について谷原先生が話したことが記憶の片隅に引っかかっていたのだろう。


 わたしは歯切れ悪く答える。


「X染色体上の、顕性遺伝、だよ」


 テレポート遺伝子が見つかったのは二〇一八年。テレポーターと非テレポーターの関係が一番悪化していた暗黒期の真っただ中で、テレポーター遺伝子の存在は予言されていながら、どこの企業も大学も探そうとはしなかった。反テレポーターの過激派の標的になるのが目に見えていたからだ。ただ、当時深圳シェンチェンに本拠地を構えていた一つのベンチャー企業がその状況の中で果敢にもテレポーター遺伝子探しに取り組んだという。


 ヒトの胚の出生前遺伝子改変による致命的な遺伝子除去を生業にしていたその企業は、国際的なバッシングと中国政府からの要請で遺伝子改変事業を止めざるを得ず、倒産の危機に追い込まれていた。倒産するか、攻撃されるリスクを背負っても新たな道を開拓するか。当時のCEOは後者を選び、そしてX染色体にテレポーター遺伝子を発見した。しばらくはその発見を秘匿し、その間に生化学的なテレポータービジネスの下地を整えた。そしてその先行者利益はその企業を一躍世界的に押し上げ、今やネイバーフッドと並んでテレポーター産業の双璧と称されるオプティマイジーン社となった。


「X染色体上の擬似常染色体領域PAR1という領域にテレポーター遺伝子はあるの」


 わたしは補足する。その塩基配列が特別なパターンを持っていると、その個体は「わたし」になる。高層ビルから足を投げおろして人を見下すのが趣味になり、友人より身長が低いことに安堵するようになる。


 喉がいがいがした。水の残ったコップを手に取り、一気に流し込む。


「テレポーターに女性が多いのもそれが関わってるんだっけ?」


「そう。テレポーター遺伝子は通常欠かせない遺伝子の変異型らしくてね、テレポーター遺伝子があるX染色体とは別に、もう一本テレポーター遺伝子のないX染色体がないと生育できる可能性は限りなく低くなる」


「だから男性テレポーターって少ないのか」


「そゆこと」


 わたしはいったん間を置いて、視線を落として右掌の月を眺めた。


 ――あなたにはね、兄がいたの。


 母がそう告白したのははいつのことだっただろう。掌の月に宿るもう一つの魂の存在を考えるときに記憶の淵を彩るのはいつだってルイボスティーの香りだから、父がヨハネスブルクに頻繁に出張に行っていた二〇二六年あたり、わたしがまだ六歳だった頃。


 当時のわたしは未熟なテレポート能力の持ち主で、蟻の巣に花火を突っ込んだり、ダンゴムシを真っ二つに切ったりすることに何ら抵抗も感じない純粋無垢で残酷な少女だった。その少女がヒトとアリとを同列視しないよう、母に訓練をしてもらう傍ら、テレポーターとしての矜持を叩き込まれていた。


 兄はわたしより一年早く生まれて、私と同じく「特別」なX染色体を持っていた。けれども不可欠な遺伝子の欠けた彼は例に漏れず生育に問題が出て、四歳のとき体調を崩した。彼は一ヶ月程耐えたそうだが、ある日、突然能力が暴発し、隣の部屋で寝ていたわたしの右掌と重なる位置にビー玉が転移されてしまったらしい。中指の運動神経は破壊されたものの、それ以外の後遺症は残らなかった。


 兄はそのまま息を引き取り、ビー玉の摘出を終えたわたしの右掌には円形の痣が残った。母はその痣を優しく撫でながら、六歳のわたしに言った。


 ――それはね、海が生きた証なの。


 偶然か必然か、わたしに能力の発現の兆候が見られたのはそれからすぐのことであったという。


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