1.11 対等な存在
四限の選択授業で、自分の教室で行われた遺伝学の授業を終えると、飛んでくる一つの影があった。友人の依田ひかるだ。
「――真弓、ちょっと助けて」
息を切らした長身の生徒が苦しそうにわたしの肩にもたれかかってる。長身で癖っ毛のこの子はわたしの五年来の友人で、母親は熱烈な反テレポーター派。本人もその傾向は若干あるがかなりニュートラルな立場で、あまり深いところに突っ込んでいかなければテレポーターに関する話もできる。もちろん、わたしの正体はこの子にも内緒だけれども、その秘密にさえ目を閉じれば良き友人だ。
「どうしたの、ひかる。タブレット端末家に忘れたの?」
「さっきの遺伝学の授業だけどさ、インド映画を字幕なしで見ているような気分だった」
あっけらかんとした表情で開き直ったように彼女は言う。わたしは後頭部を掻く真似をしてみせた。
「ほら、インド語の授業寝てるから。谷原先生悲しむよ」
「うー、やっぱり記憶容量を補完したい」
くるりとした寝ぐせの髪を掻きむしながらひかるはこぼす。
「早く二十歳になれたらいいね」
脳内ストレージ含め、脳への外部インプラントは「二十歳になってから」だ。
「って訳で、昼休み、補講お願いしていい、真弓先生?」
「甘やかさないよ?」
わたしは歯を見せて、いたずらっぽい笑顔を浮かべてみせる。
人間の仮面を被って生活するのも、慣れたら慣れたで楽しいものだ。
ひかるは典型的な
けれども、中学に入学して間もなく、席が隣だった彼女がわたしに分からないところを訊いてきたとき、わたしは怒りを鎮めるのに精いっぱいだった。そのときのわたしは、何の外部サポートもなくカレンダー算をしているひかるの能力に打ちひしがれていた。その彼女がわたしに分からないことを訊く? こいつは自分の頭の良さと隣の人の頭の良さとを天秤にかけた上でそれを頼んできているの? だとしたら、馬鹿にされていると思った。こんな屈辱は初めてだった。
けれども、話をしているうちにわたしは気が付いた。どうやら彼女の中には能力を天秤にかけるなんて発想はそもそもなかったらしい。彼女にとってのわたしは、苦手なところを補い合える対等な存在。わたしは恥ずかしくて、この子の顔をしばらく見られなかった。
今では、彼女は気の置けない数少ない親友だ。
「真弓、毎日ビタミンレタスをドレッシングなしって、食べてて飽きない?」
昼休み、食堂でわたしが山盛りグリーンサラダをもしゃもしゃ咀嚼していると、豚骨ラーメンをずるずるとすするひかるは顔をしかめた。
「そう? 朝採れだから新鮮でシャキシャキして美味しいよ。それに、この献立、何たって〈エディエット〉のお墨付きだから。栄養的に満点の献立だよ」
ここで使われてる野菜はすべて東京湾防潮堤沿いの植物工場産で、すべてが「朝採れ」。無農薬だし、甘いし、栄養もきっちり管理されている。
「うち、なんかダメなんだよね。工場野菜」
ひかるはそう首を傾げながら、しなしなになったキャベツともやしとコーンをレンゲですくって口に運ぶ。ARで詳細のポップアップを追加表示させたが、全部工場産だった。コップに手を伸ばし、喉から出かかったその言葉を流し込んだ。
「天然野菜の方がいい?」
「母がね、工場野菜嫌いで、昔からわざわざ天然食材スーパーに買いに行ってるんだ」
ああ、だからか。わたしは依田家で夕食をごちそうになったときのことを思い出した。シチューに入っているすべての野菜から耐え難い臭みが漂ってきて、食べきれなかった。もう一口、工場産の朝採れレタスを口に入れる。瑞々しくて、シャキシャキして、口当たりもいい。臭みもない。
「天然野菜好きを語る人程、名前を隠して天然野菜と工場野菜を食べさせると、工場野菜を天然野菜と誤認する傾向があるっていうコラム、どこかが見たよ。何でも、天然野菜の味ではなく、〝天然〟ってワードに惹かれてるんだと」
「え、嘘」
ひかるがレンゲを豚骨ラーメンのスープの中に落とした。
わたしは左腕を口元に持って行って、腕時計端末に話しかける。
「〈テラ〉、今言ったコラム記事、すぐに見つかる?」
〈テラ〉は返事の代わりに、視界に幾つかコラムの見出しをAR表示した。その一つに見覚えがあった。
「ああ、これだ三番目の記事」
「真弓、共有して」
頷いたわたしは右手の二本の指で、空中に浮かんでいるように見えるそれを挟むようにして、ひかるの方に投げる。わたしとひかるの合間の空間にそのコラムが立体表示される。ひかるが「
「あれ、そういえば真弓、お米は?」
ひかるの視線がわたしのお盆に注がれている。わたしのお盆の上には山盛りグリーンサラダと合成たんぱく質ハンバーグのお皿だけ。オンにしたままのダイエット管理AIアシスタント拡張機能〈エディエット〉がメニューを画像認識し、学校の食堂サーバーにアクセスして総カロリー数を算出する。四五一キロカロリー。テレポーターに体重管理は欠かせない。
「真弓、ただでさせ痩せ型なのに、そんな小食でどこを目指しているの。体重をゼロに収束させたいの?」
「ただただ胃がちっちゃいだけ。それに、今の時代はよく食べて背の大きな方がもてるってさ」
再び〈テラ〉に命じて男子学生一万人にとった「好きな女性の身長アンケート」の結果を探させて、中身を確認することなくひかるに投げつけた。
「
ひかるは仮想記事の見出しを受け取って、そのままぽいっと捨てた。
わたしはむすっとした顔をしてみせたが、ひかるの高身長をわたしが気に入っているのは事実だった。ひかると並んで歩くと、わたしはひかるの顔を見上げないといけないからだ。これなら大事な大事な友人を見下ろさずに済む。
雑談も程々に、二人の食器が空になると、互いにタブレット端末を取り出した。
周囲の生徒たちも、半数くらいが同じように分からないところを教えあっていた。進学校だけあって、この生徒たちにとって勉強は呼吸と同義らしい。わたしも勉強は苦手ではないので、勉強さえしていれば何も言われないここは居心地が良かった。
「さて、今日の授業の補講に入ろっか」
わたしはあからさまに声のキーを落としてみせる。
「お、真弓センセースパルタモード」
「分かったのはどこまで、ひかるくん?」
わたしがそう訊くと、ひかるはうーん、と口をすぼめた。一旦ラーメンのスープを啜り、どんぶりをお盆の上にどんと乗せ、げっぷを挟んでから、彼女は答えた。
「今日の授業で使われていた言語がインド語、というところまで」
わたしは顔を上に向け、天井の小さなシミに向かって「オーマイゴッド」と言った。
「それじゃあ、文法の確認からしようか。ヒンディー語の」
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