1.10 加護依存症、16歳
まだだ、まだ。
十六歳になったわたしの力もあの星には届かない。
わたしは都内の私立女子高に通っていた。沿岸部の復興跡地に作られた創立十年程の新しい学校だが、今や多くの業界で欠かすことのできない理系リテラシー全般を高校の課程で習うことのできるサイエンス特化型の高校で、リモート授業で世界各地の大学の授業まで受けられるのも魅力の一つだ。
小学生のわたしが天狗になっていたのは、その加護が存分に機能していたのは、通っていた公立小学校の中に頭脳でわたしに勝てる同級生がいなかったことも大きかった。ただ、中学受験で今の私立に入学してからは、わたしの伸びすぎた鼻はあっという間にへし折られた。わたしの頭脳はここでは平均。暗記力ではここでもずば抜けていたものの、今や大人になれば脳内SSDもネットに接続できるインプラントも埋め込める時代。記憶力は視力や聴力と同じくらい簡単に矯正できるものになっていた。定期テストは赤点すれすれながら模試で全国一位を叩き出す本物のバケモノを見て、わたしはようやく井の外の世界の一端を知った。
わたしは加護の半分を失った。ただ、それを補うように血の加護はわたしのテレポート力と共にその効力を増していった。そして、加護に縋ることでしか心の平穏を保つ手段を知らなかったわたしは、ますますそれに依存するようになっていた。
たとえば、いつも赤点すれすれのはずの友人、依田ひかるが模試で全国一位を取ってはしゃいでいるとき。わたしは自分のテレポート能力の限界を考える。そして目の前で満開の笑顔を花咲かせる少女にはその力がないのだと考えると、不思議と嫉妬心は霧消する。その気になれば、ノールックテレポート使いのわたしは彼女の心臓だけを抜き出すことができる。脳幹に小石をぶち込むことだってできる。そう考えると、わたしの心の海で荒れる波は不思議と静まった。
これが、特別な存在と言われて育った少女の末路。加護の正体に気付いたときにはもう手遅れ。エウロパの昇る空の下で、わたしは今日もその加護に縋って生きている。
成長したとすれば、人間の仮面を被ることだけだ。
「このライブを聞いている皆さん、テレポーター、〈ガニメデ〉です」
彼のペルシャ語の上に、彼の声色で話された日本語が被せられる。
わたしは休み時間を、コンタクトレンズ型ディスプレイで動画を見ることに費やしていた。音声はスマート内耳からわたしだけに聞こえるように。今わたしが見ているのは、南極の氷床下にあるボストーク湖探査プロジェクトに世界屈指のテレポーター〈ガニメデ〉が加わったことについてのインタビューのライブ配信だった。
〈ガニメデ〉と名乗る男性テレポーターは現在、〈ゼウス〉を除けば世界最強のテレポーターと言われている。かつて、反テレポーター気運が高まり、ネイバーフッド社が倒産の危機を迎えた二〇一〇年代の後の奇跡的V字回復の立役者でもあった。彼はその強大な力を平和維持、人命救助に役立てた。地震のときも、船の沈没時も、飛行機の墜落時も、そして噴石が降り注ぐ中も彼は現場に駆け付けたと言う。瓦礫の山を素早く除去し、沈没する船ごと陸に転移し、低空飛行する機内にだって果敢に乗り込み、そして噴石を巻き散らす火山を丸ごと海に沈めたとの噂もある。大半はありえないものだが、彼の武勇伝はテレポーターに対する恐怖を和らげたことは間違いない。日本でも、八年前の東海地震では多くの人が彼に救助されたはずだった。
独立し、今はフリーランスで働くその彼が南極の厚い氷床下のボストーク湖の探査プロジェクトチームに加わったという。これにより、二十年以上前にロシアのチームが到達しておきながら、調査のほとんど進んでいなかったボストーク湖の探査が本格的に進められるという。彼の力があれば、大型の潜水艇を湖水中に送ることができるらしい。
そのライブ配信の音源を対象に、わたしはAIアシスタントの拡張機能〈コンジャック〉を使っていた。自動翻訳機能に加えて、声色パターンの機械学習による声調再現が特徴のアプリだ。本人の声のまま、世界のあらゆる言語に翻訳できるこの技術は声優から吹き替えの仕事を奪ったとも聞く。
「この度、我々人類は一体となって、このプロジェクトに挑みます」
その瞬間、会場の空気のどよめくのが聞こえた。エウロパが地平線から昇るようになったあの日から世界は一つになった。その代償に、人々は隣人がどちらの側の人間であるかを考えることを放棄したのだ。たとえ正体がどうであったとしても、隣人と仲良く手をとりあって暮らしましょう。それが現代の標語で、不文律だった。
「ねえ、脇坂さん。何見てるの?」
耳元で囁かれた声がわたしの意識を現実に引き戻す。コンタクトのAR動画は端から見ると、動画に熱中していることは一目で分かってしまう。
素早く二回まばたきをしてライブ配信は一時中断。続きを録画しておくように、小声で腕時計型端末に――〈テラ〉に話しかけた。
見上げると、鮮やかな金とピンクのツートーンが眩しい髪をした湯川
どちらの目を見るべきかはすぐに判断できた。わたしは佳の目に向かってはにかんだ。
「〈ガニメデ〉って知ってる?」
茉鈴がきょとんとしたのが視界の端で見えた。〈ゼウス〉に次いで有名なこの名にピンとこない人は後エウロパ世代にありがちな、テレポーターか非テレポーターかをそもそも気にしないタイプ。どっちでもない人畜無害の人種だから、テレポーター関連の話題を振るときにあまり気をつけることはない。
一方で、佳は「へえ」と紅い口紅の映える口元から微かに歯を覗かせた。ホロタトゥーだろうか、白い歯のエナメル質の上を流星が横切っているのが見えた。
「ボストーク湖の探査プロジェクトでしょ」
佳は言う。
わたしは眉をあげた。佳はテレポーターに関してある程度の興味は持っているらしいが、問題はそこから。親テレポーター派か、反テレポーター派か。言外のニュアンスを読み取らないと、埋もれた地雷を踏みかねない。わたしはこの子の一挙手一投足に全神経を集中する。
「ねえ佳。なあに、ボストーク湖って」
茉鈴が佳のブラウスの裾を引っ張った。佳は体の向きをそのままに首だけを半回転させる。ふわりと揺れたピンク色の毛先の隙間から文字通り星が舞った。中々手の込んだホロアクセサリだ。
「南極の分厚い氷の下に湖があってね。そこに生命がいるかもってことで、世界最強のテレポーター〈ガニメデ〉が探査船を直接氷の下に送ろうとしてんの」
「テレポーターがそのプロジェクトに関わるの? 大丈夫なの、それ?」
茉鈴は眉をひそめた。一般人らしい返答に聞こえる。わたしは腕時計型端末を口元に持って行って、〈テラ〉と呼びかけた。
「これに対する世論を日本語で十五秒のサマリーにまとめられる? 二人にも聞こえるように」
「了解」
わたしは佳と茉鈴に呼びかけ、〈テラ〉と二人のスマート内耳へのリンクを承諾してもらう。
静寂が訪れたと思ったのも束の間、ものの数秒で〈テラ〉は再び話し始めた。わたしたち三人のスマート内耳だけにその音声が流れる。
「ボストークの探査に加わることの意義を認める好意的な意見はある程度見られるけど、ネット上では避難轟轟。反テレポーター主義者によって〈ガニメデ〉のSNSアカウントが炎上してる」
「だそうで」
聞き終えると、佳はあからさまに顔をしかめた。悪口は確かに聞いていて気持ちのいいものではない。茉鈴は終始無表情で興味なさげに聞いていた。
「まあ、ネット上の匿名の悪態つきはどうでもよくって」
佳は再びわたしに向き直り、両手をわたしの机についてはっきりとしたアイラインに象られた目でわたしの顔を覗き込んでくる。
「で、脇坂さんってさ」
神妙な口調で佳は言う。試されている気がした。わたしは息を飲んで、どんなセリフでも来いと身構える。
「ひょっとして〈ガニメデ〉のファン?」
「……へ?」
思わず素っ頓狂な声が口からもれた。
「え、違うの?」
残念そうに佳は口を尖らせた。
「いや、ファンって訳じゃ」
「なあんだ、残念。でも、ちょっと意外」
「ん、何が?」
「脇坂さんって、そういうの興味ないと思ってた。休み時間、ひかると話してないときってだいたい一人で紙の本読んでるからさ」
「昔から本、読むの好きでね」
昔は子供っぽい同級生の相手をしたくなかったからね、とは言えない。
「でもさ、紙の本って重くない? わたしダメなんだよね。全部電子書籍」
佳が首を横に振って見せると、揺れる髪の合間から星がこぼれ落ちる。わたしは曖昧な笑みを返した。
「あ、佳。四限って大学課程のリモート授業じゃないの。AR設計評価論」
「やべ、行かなきゃ」
佳が出した舌先でホログラムのスパークが弾ける。
「どうも、お邪魔しました~」
そそくさと星を振りまきながら佳は去っていった。茉鈴もその後ろをついていく。
あれはテレポーターに対して好意的……なのだろうか。
身構えて損した。そう息を吐きながら視線を横に滑らすと、壁際に座っている別の生徒がそそくさと去り行く佳の背中をスマートグラス越しに睨んでいる。
睨んでいた時間はごく僅かだったが、わたしの背筋は自ずと伸びていた。
ああ、やっぱり。わたしは息を止める。時代は変わったとはいえ、人々の中に反テレポーター感情はまだ根深く残っている。
人間の仮面は、まだ外せない。
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