1.9 籠の外へ
その前年度から転校してきた伊藤くんと同じクラスになった。彼はよく勉強ができた。前にいた小学校では東大に行けるなんてよく言われたらしく、鼻を伸ばしていた彼は作文で、東大に行くのが将来の夢だと堂々と書いた。おまけに授業で先生が質問をするときまって最初に手をあげるような、迷惑なタイプの目立ちたがり屋だった。
そんな彼に目をつけられたのは、わたしが授業中にタブレットで自習用応用教材に取り組んでいるのを彼に見られたことがきっかけだった。わたしにとっては学校の授業は退屈で、時間割に沿ってその科目の学習をするためだけのペースメーカーとして授業を捉えていた。休み時間になると、彼はわたしに問い詰めるのではなく若い男性教師に詰め寄った。わたしは本を読む振りをして耳を傾けた。
「脇坂さんは授業をちゃんと聞いていません」
素直に自習用応用教材をやっていた、と言えよ。
「脇坂さんは授業レベルじゃ退屈みたいだから、先生も認めているんだ」
「僕にも認めてください」
先生は困ったように後頭部を掻いた。伊藤くんは追い打ちをかけるように続ける。
「僕の方が頭はいいんです。だから彼女がOKで僕がだめというのはおかしいです」
わたしは笑いがこぼれ落ちるのを、必死に本のページで抑え込んだ。ああ、なんて可哀想で、愛おしい伊藤くん。
結局、先生は伊藤くんにもそれを認めた。以来、彼はわたしにちょっかいを出してくるようになった。本を読んでいると、横を通る振りをして何を読んでいるか確かめに来るし、テストが返ってくると「俺は百点だったけど、脇坂さんは?」と必ず聞いてくる。最初は素直に教えてあげていたけれど、彼の勝ち誇ったような顔を見るのが面白くて、わたしは嘘をつくようになった。必ず彼より数点低い点数を申告するようにしたのだ。
ひきつっていた顔の筋肉が弛緩して、そのたるみの中からちんけなプライドがぷくりとにじみ出る――そんな彼の顔は芸術的な程に滑稽で、当時のわたしにとってそれは楽しみの一つになっていた。
けれども、その秋に行われた、自習コンサルタントAI会社が運営する全国小学生模試トラブルの火種になった。初めての学力測定とは言うものの、大して難しいものではなく、わたしは国語算数共に九割以上の点数を取ったが、驚いたことに七十を超える偏差値を叩き出してしまった。タブレットの画面をスクロールして成績表を見ていると、ご丁寧にクラス順位一位とある。嫌な予感がした。
二分後。やっぱり伊藤くんはわたしにつっかかってきていた。
彼は偏差値六十五程で、その成績は明らかに立派なものではあったものの、わたしの足元には及ばなかった。最初は嘘でもつこうと思ったけれど、クラス順位のせいでばれるのは自明だった。彼はわたしのタブレットをひったくって、そこに書かれたスコアを見て、そして膝から崩れ落ちた。膝から崩れ落ちる人ってほんとにいるんだ、とわたしは目を丸くした。
翌日の体育のドッチボールの最中、わたしは早々に当たりに行って外野に向かおうとしていると、足をひっかけられた。盛大に転んだわたしは膝小僧を地面に擦りむいた。伊藤くんだった。
わたしはやり返さなかった。立ち上がると、泣くことも、怒ることもせず、真顔で彼の目をまっすぐと見やる。彼の表情はこわばり、口をきつく結んでいた。わたしは言った。
「やっちゃったね、伊藤くん。いくら自分より頭のいい人が憎いからって足を引っかけて転ばせて、虚しくないの。あんたはね、自分の敗北を完全に認めたの。分かる?」
痛みなんて気にならなかった。むしろ大人の対応をしている自分に酔ってすらいたんだろう。これこそ、相応しい態度だと当時のわたしは本気で錯誤していた。
わたしがそれ以上追求することもなくそそくさとその場を去って、同級生たちの白い目が彼を囲むと、次第に彼も事の重さに気付いたようだった。
その問題そのものは大ごとにはならなかったが、彼はその日、もうわたしにちょっかいを出すことをしなかった。(それは以後もそうだった)
わたしはやっぱりスキップをしながら帰り道を進んだ。母は褒めてくれるに違いないと胸を膨らませて、鼻歌を歌いながら下校した。時代は変わり、空を駆る黒い影もコウモリから無機質な偽物へと様変わりしていたけれど、わたしの膝にはブラッドムーンのように赤い勲章がある。それで十分だった。それに、その赤い月は掌の月の親戚のようにも見えた。わたしは掌の月に話しかけた。やったね兄さん、弟ができたよ。
チャイムを鳴らし、ドアを開け、ただいまと声を張る。それを包み込むような優しくて、温かなおかえりの声。ただ、その母の笑顔は、彼女の目がわたしの膝小僧に向いた瞬間、跡形もなく消し飛んだ。
「真弓、どうしたの、その怪我」
興奮のあまり、母の表情にも、そしてきっとその声が震えていたことにもわたしは気づいていないはずだった。わたしは嬉々として説明した。そして自慢げに言った。
「怪我をさせられても平然とできたよ」
母の返答は平手打ちだった。
「何を言ってるの、真弓! 大切な血を流すなんて一体何を考えてる訳? この血の中には海も、あなたの兄もいるの。兄を殺すつもりなの?」
それから、母は哀れな子を悼む目を、わたしの患部に向け続けた。そしてそこから流れ出る血を丁寧にふき取りながら、わたしの膝に向かって話しかける。
「痛かったでしょ、海。もう大丈夫、大丈夫だからね」
母が最後までわたしの目を見てくれなかったことは今でも鮮明に覚えている。
わたしを守るはずの大いなる加護が、わたしの頬を穿ったその日。わたしの中に築かれていた加護への絶対的信頼に、微かにひびが入った音がした。
わたしは特別。
……本当に?
それから時を経て、加護が、わたしを守る呪文が、わたし自身にかけられた呪詛であると気づいたときにはもう遅かった。その一年後、自分自身のテレポートができるようになり、空をテリトリーに組み込んだわたしにとって、既に居場所はネオンの海から突き出た高層ビルの屋上だけになっていた。足を投げ出して、蟻のような人々を見下ろすときにだけ、心の中にしじまは訪れる。
高層ビルの屋上から、天を悠々と舞う二つの月を見るたびにわたしは思っていた。どうして月は二つあるのだろう。昔は、月は一つしかなかったはずなのに、どうして今は二つあって、どうして人は人間をテレポーターと非テレポーターと線引きして考えるんだろう。同じ人間じゃないの。
けれども、自分の中にある絶対的な加護がその二分線に基づいていることはもう明白で、それに気づいたときにはもう、わたし自身その呪縛から逃れることはできなくなっていた。わたしがわたしでいられるのは、わたしがテレポーターであるから。
わたしがそこから解き放たれる方法は一つ――月だけが昇る空を取り戻すこと。夜空に光る月が一つだけになって、テレポーターと非テレポーターの線引きがなくなれば、呪詛という名の加護に縋らなくたっていい。
わたしはエウロパを見る度に掌の月を突き合わせ続けた。
まだだ、まだ。十二歳のわたしの力はあの星には届かない。
でも、いつか。
わたしはあの凶星を元いた場所に送り返し、月だけが昇る夜空を取り戻す。
この手で、必ず。
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