第1章 ネオンの海

1.1 空を駆ける

 テレポーターに体重管理は欠かせない。


 朝食を終え、自室に向かうわたしのスマート内耳を介して、AIアシスタント〈テラ〉の声がダイレクトに聴神経に流れ込む。


「摂取カロリーは五一三キロカロリーだよ」


「ん。許容範囲内」


 わたしは階段を駆け上がりながらゴムで髪をくくり、自室に入るとクローゼットに両手を伸ばした。その直後には、わたしの左手は左から八番目、左壁面から四十センチのハンガーを、右手は左から十二番目、左壁面から六十センチのハンガーをそれぞれ握っている。左のハンガーには長袖ブラウス、右のハンガーにはスラックスだ。それにさっと着替えてハンガーを元の場所に返すと、今度は脱ぎ捨てた洗濯物を階下の洗濯カゴの上空十センチの所に込む。


 姿見の前に立ってくるりと一周すると、わたしの輪郭をなぞるような青いラインが姿見の中に浮かび上がった。〈テラ〉が代弁する。


「体重は昨日比九十八パーセント。今日もいい体型を維持できているよ」


「どうも」


 最後に左から一番目、五センチのところのジャケットを手元に呼び寄せて羽織り、ベッドに腰かけて階下の靴箱から引き抜いたローファを履く。脇に置いておいた鞄を肩に提げ、わたしは空へと駆け出した。


 坂東さんの家の上に降り立つと、すっかり白髪になった坂東さんが犬小屋を解体していた。小学生時代はよく柴犬を見に来たものだが、亡くなってしまったらしい。周囲に目を配り、四十メートル程先のアパートの屋根に目をつける。


 ひとっ飛びしてそこに降り立つと、わたしの四メートル程先をプテラ社製の宅配用ドローン〈コウモリ〉が飛行していた。それはすぐさまわたしを異物と認識し、二枚の薄膜の翼をはためかせ、不規則な軌道を描きながら慌てて距離を取った。


 アパートの屋根から眼下の国道を見下ろすと、街路を行く人々は駅のある右手へと向かって颯爽と歩いていた。表情まで認識できる程の距離ではあるが、朝の忙しいときに家々の屋根の上に目を向ける暇な人はいない。通勤者を乗せた無人バスが道路を横切った。そのにネイバーフッド社のテレポーター向け広告が大々的に張り出されている中で、そこに写る白いジャケットの黒人女性はわたしに笑いかけていた。


 バスの消えた先に、五階建て程のマンションが見える。よく使う中継地点だ。ここからの距離は百メートル程。その距離をわたしはひとっ飛び。


 そうやって、人々と〈コウモリ〉が行き交う朝の街を、建物の屋上から屋上へと伝ってテレポーター脇坂真弓は通学する。けれども、高校までの航続が出来る程のスタミナのないわたしの場合は、それも駅の近くまで。


 駅の近くの公園脇に立つマンションの屋上にわたしは降り立った。数十メートル先の上空を〈コウモリ〉たちのハブとなる鳥型ドローン〈ペラゴルニス〉が翼開長十メートルにも及ぶ翼を広げながら空を滑るように飛行しているのが見えた。腹部に抱えられた多くの荷物に〈コウモリ〉たちが集り、取りに来ては去ってを繰り返している。


「テレポーターと非テレポーターと、手を取り合える世界を共につくって参りましょう」


 すぐ真下から女性の優しい声が響いた。足元に張り出されていたネイバーフッド社の広告の中から、先ほども見た黒人女性が天に向かって笑いかけている。公認のテレポーター向け中継地点の証だ。わたしは屋上の淵から身を乗り出して、眼下の公園の中をよく観察した。


 人の姿はなかったが、何機かの〈コウモリ〉が行き交っていた。ドローンが消えた瞬間を狙って、空に向かって背面ダイブ――次の瞬間には、わたしは公園の公衆トイレの屋根に仰向けで寝そべっていた。わたしの真上を一機の〈コウモリ〉が横切った。そっと体を起こし、人の姿のやっぱりないことを確認してから地面に飛び降りる。


 公園から出ると、〈コウモリ〉が頭上を飛び交い、人々が等身大のサイズで見える世界が広がっていた。道路を通った無人バスのには非テレポーター向けの広告が大々的に張り出されている。AIアシスタント依存症治療にはAIメンタルクリニックへ。在りし日のマンハッタンへ――マンハッタン2017、近日発売。


 珍しくもない制服姿で道路を人間らしく歩いてみせれば、誰もわたしをテレポーターだとは思わない。


 そう、わたしは人間。非テレポーター、脇坂真弓。


 自分にそう言い聞かせながら、人間の服に身を包んだわたしもまた、人間の仮面を被り、駅へと吸い込まれる集団を形成する一つの記号になる。

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