Earth Ⅱ Europa
瀧本無知
プロローグ
どいつもこいつも、何も分かってない。
高層ビルの屋上から足を投げ出すようにして腰掛け、色とりどりの
道路なんて飛んで渡っちゃえばいいものを、群れをなす蟻たちはご丁寧に赤信号にせき止められてうずうずしている。スクランブル交差点の信号が青になると、ダムが決壊したように蟻の波は一斉に流れ出して交錯する。それはまるで荒波と荒波とがぶつかり砕きあい、飛沫をまき散らすよう。そして信号は再び赤になり、ちょっと遅れてダムの水門は再び閉まる。行き交う鉄の塊が逃げ遅れた蟻をひき殺す瞬間を見たいと思う自分がいる。
目を脇に向け、車道脇の水路に目を向けると、交差点から追いやられた蟻の群れは狭い通路の中で蠢いていた。あっちに行きたい人とこっちに行きたい人と信号が青になるのを待ちたい人とがそれぞれの縄張りを主張しあい、ぶつかりあったいざこざが生む熱気は上昇気流に乗り、ビルの壁面を伝って私をくすぐってくる。
そんな光景を見る度、私の歯の隙間からは笑みがこぼれ落ちる。でもその乾いた笑い声もビル風にさらわれて、自らの周りのちっちゃい世界に夢中な彼らの耳には届かない。きっと、見下ろされていることにすら気付いていない。
この天空の玉座は、世界の連環から外れた監視塔のようだ。すべての俗事は些末なつむじ風の戯言に過ぎない。ここは、わたしと、ネオンの海と、そして空を舞う二つの月だけから構成されるシンプルな世界。その輪郭をなぞることに耽っていると、気づけば荒れていた心の海もいつの間にか穏やかな波紋に覆われている。
わたしは頭を上げた。暗雲を退けて、空の中心で静かに微笑む円い光と相対する。太古の昔から、そしてわたしの生まれる数か月前まで、この星の夜を照らす唯一の存在だったもの。地球第一衛星月。今夜は彼女の独擅場だった。彼女の優しい光は風音の雑音を掻き消して、わたしの心の奥底まで温かく照らしてくれる。
けれども、その眩い光輝を見ていると、穴の奥底でうずくまるわたしの卑しさが白夜のもとに曝け出され、わたしは、わたしが神でないことを知る。高揚感が剥がされた後に残った残滓が凝固して、黒い塊となって喉につっかえた。誰が神だ。彼らとわたしの何が違う。たった一つの遺伝子コードが神と人間とを隔てるなら、
その黒い塊を飲み込んだ後も、しばらく胃はむかついていた。わたしは自ら望んで、下界を見下ろすことで心の安寧を図るようになったのではない。わたしをそうせしめるのは、忌々しい血と母の呪詛のせいだ。
けれども、神も、ヒトも、天の玉座からいつの日か引きずりおろされたように、月ですら、夜の天下の座から降ろされる時はやってくる。忍び寄る暗雲はわたしの悲願を容赦なく飲み込んで表舞台から引きずり下ろすと、今度は別の暗幕の切れ間から青白い光が漏れ始めた。その潮汐力はわたしの胃の中から苦いものをこみ上げさせる。程無くして、その凶星は姿を現した。
月の半分程の直径に見える、青色がかった星。地球第二衛星エウロパ。わたしはエウロパ目掛けて手を伸ばした。指をかっと開き、右掌に刻まれた円形の痣を――掌の月をエウロパに向ける。目をつむり、あの光を残さず握り潰すように、拳を握りしめる。恐る恐る目を開ける。指の隙間から青白い光は漏れ出していた。
まだだ。まだ、わたしの力はあの星には届かない。
既に十一時を回っていた。家に一人でいる母はさぞ物を飛ばし散らかしていることだろう。それがかえってわたしの腰を重くさせた。彼女が怒るのは娘の安否を心配しているからではない。娘を人間ごときが捕まえられないことは、彼女が一番分かっている。ただ、代々続く由緒ある家系で、その血を正しく継いだ最後の人間である愛娘が、責務を果たさず、矜持も持たず、鳥籠の外で自由に空を闊歩していることが、彼女の神経を何よりいらだたせるのだ。相応しい行動をしなさい、と彼女は叱責の雨を降らせることだろう。ただ、相応と錯誤は紙一重だ。彼女の時代は鳥籠の中にしか安寧はなかった。
でも、時代は変わったんだ。何でそれが分からない。
重い溜息をビルの屋上に残して、わたしはネオンの海に飛び込んだ。
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