記憶
「
父親に身体を揺さぶられ、寿は眠気眼をこすりながら後部座席から降りた。むわっとした熱気が身体を包み込み、外の日差しはじりじりと容赦なく素肌を焼き付けた。
「げー!あっついじゃん!」
すでに体温の上昇していた小麦色の皮膚の表面には、しっとりとした小さな汗の
「じーちゃん、ばーちゃんのいう事、ちゃんと聞くんだぞ。」
そう言って大きなリュックを背負わせてくれた父親は、今度はぐずり始める幼い妹に何か言い聞かせながら、旅の支度をさせている。
____ラジオ体操とか、むこうではやんなくていいのかな。
寿は首から下げたパスケースをいじりながらその様子をぼーっと眺めていた。
沢山の行列の人だかりを見て、寿はお祭りみたいだな、と思った。なんだか皆、そわそわと楽しそうに浮足立っている。相変わらず妹の
「へへ、とーちゃんかっこいいな・・・。」
****
ゲートを超え、手を振る父親がガラスの向こうに見えなくなり、今にも泣きだしそうな妹の手をぎゅっと握ると急に寿も泣きたくなった。帽子を目深にかぶりなおしてぎゅっと口をつぐむ。
「おかあさぁ~ん・・・。」
堪えきれなくなった莉那がとうとうしくしくと泣き出す。
___りなのばか。恥ずかしいだろ!
寿はしっかりと握っていた莉那の手をぐっと横に引っ張り、自分の寂しさを堪えることに成功した。
傍にいた若い空港職員が慌てたように甲高い声で莉那をあやしながら、笑顔で二人を先導してくれるのが寿には少し恥ずかしかった。
****
飛行機の窓から見える風景は、去年家族旅行で見た風景とは違って見えた。遠くに見える、あの建物の中できっとお父さんもこっちを見ているんだ、寿はそう確信した。妹は窓に張り付いたまま、まだずっとしくしくと静かに涙を流している。
離陸のアナウンスか流れ、轟音が鳴り響く。身体がふわっと宙に浮いたころ、寿も顔をくしゃくしゃにして泣いていた。
****
「ひさ!ほらこれ、牛に食わしてみろ。」
祖父は農業で日焼けして黒光りする額の汗を、汚れたタオルで拭いながら藁の束を投げて寄越した。隣の莉那はおっかなびっくりしながらも牛の鼻先に可愛い雑草の花を差し出している。
「きゃ!おにーちゃんみて!うし!食べた!」
「そんだけだったら足りないだろ!おれの見とけ!おりゃ!」
筋骨隆々の黒い牛たちは鼻息荒く、どんどん藁を引っ張り出し、食らっていく。時々藁の束と一緒に腕を引っ張られる寿に莉那はきゃっきゃと笑っていた。
「はい、どいたどいた。」
祖父は何やら錆びついた大きなマシンを取り出すと機嫌よくエンジンをかける。爆音が牛舎に響き渡り、思わず兄妹は耳を手で塞いだ。ガソリン式の撒き餌の先から細かくなった藁や野菜の切れ端、コーンが混じった粉状の家畜用飼料、それらが綺麗に混合され牛舎の給餌スペースに散布される。牛たちが一気に興奮し、先ほど奥の方でのんびりと糞を垂れていた雄牛も、子牛と横になっていた牝牛も、我も我もとそのご馳走に群がった。
マシンの音が止むころには、クジラの息継ぎにも似た噴き上げるような牛たちの大きな呼吸音と、咀嚼するごろごろモソモソという雑音が牛舎一杯にひしめき合っていた。
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祖母はあまり標準語を使ってくれない。まあ、でも優しいし沢山甘いものをおやつにくれるし、あちこち観光スポットにボロボロになった白いミラで連れていってくれる。でもシートベルトをほとんどしない事にだけ、寿は一抹の不安を覚えた。
両サイドに広がる一面の畑。ときどきウズラの親子が道路脇のアスファルトから畑に姿を消していく。風に揺られた農産物が海にも似たざわめきを生み出していた。口数は少ない祖母が出かけるときに必ず着用していた白くつばの広いくたびれた帽子は何か思い出があるらしかった。
****
近隣民家のほとんどない田舎の夜は真っ暗だ。時折天井裏でネズミがカタカタと音を立てて走り回っている。鍵もかけず、開け放った玄関や窓からは、少し肌寒いくらいに風が流れてくる。遠くから聞こえる海鳴りにも似たサトウキビ畑のざわめきに、寿は山のないこの島は遠くから海の音が、地平線を超えてやってくるのかな、と考えながら静かに眠りについた。さっきまで雲に隠れていた満月がゆっくりと雲の隙間から現われると、
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搭乗口で必死に手を振る祖父母に、寿も莉那も泣きじゃくりながら、小さくなる年寄り達に何度も振り返りながら別れを告げた。飛行機の中でも涙を隠すことなく、寿はずっとしゃくり上げていた。島がどんどん小さくなる。青い海に浮かんだその小さな島は、やがて瑠璃色に紛れて見えなくなった。長い夏休みは、終わりを告げた。
******
暑い。
寿は目を覚ました。どうやらいつの間にか眠りこけていたようだ。薄暗い中を、スマホの明かりを頼りにクーラーのリモコンを探す。涼しい風と共に意識のはっきりしてきた寿はおもむろにテレビをつけた。こんな時期に仕事を辞めただなんて言えなくて、今年は帰省をためらい、なんだかんだ理由をつけて断った。
___俺の話題は出してくれるなよな。
散らかった部屋をのそのそと冷蔵庫へ向かう。
___ちっ、なにもありゃしねえ。
冷蔵庫の扉を力なく閉めると、寿は大きくため息をついた。
ベットに寝っ転がると、惰性のようにスマホを弄る。ちょうど莉那から画像付きのメッセージが届いていた。
今年五歳になる姪のカナが撮ったであろう少しぶれた盆の様子だった。すっかり母親の顔になった莉那と、莉那の大きなお腹、そして孫を抱く母親の破顔の表情。祖母の仏壇。そしてまだ煙草をふかし、健在の祖父。色とりどりの山盛りのご馳走と和気あいあいとした親族たち。
日に焼けた笑顔で笑うカナの後ろに、写真嫌いの父親の少し小さくなった背中が映っている。
「
寿はぽつりと呟いた。
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