③
結局その日の午前中は、ヴァウの言葉にやきもきさせられて、あまり仕事が捗らなかった。
昼飯に陸の食べ物でも食べて気分転換でもしようと、オレは海面へと泳いでいく。海底から立ち上る気泡が煌めいて、宝石のようだと思った。
海面に顔を出すと、大型の船が三隻程、揺蕩っているのが見える。それを尻目に陸へ向かおうと思ったのだが、オレの耳が微かに聞こえる歌声を拾い上げた。その懐かしさを感じる音色が気になって、オレは進行方向を変更する。向きは丁度、三艘の船の中間地点だ。
少しばかり泳ぐと、そこには少し広めの岩礁が見える。もうひと泳ぎすると、その岩礁に、数名の人魚たちがいる事がわかった。そしてその人魚たちの中に、見知った顔がいる事も。
岩礁の上で、ヴァウは歌っていた。彼女の歌声は、贔屓目にも美しい。
その昔、陸の人の間では、人魚はその美しい歌声で船乗りたちを惑わし、遭難や難破に遭わせると、そう信じられていたという。そんな迷信、オレたちにとって迷惑以外の何物でもない。
しかしヴァウの歌声は、聞いた人を誘惑するという点についてのみ、その迷信が真実かもしれないと思わせるような、それほどまでに美しい歌声だった。
ヴァウの仕事は、交通誘導。つまり、船を難破させるのではなく、逆に難破に遭わないように、導いているのだ。迷信とは、全く逆の活動になる。歌は不思議だ。歌い手によって同じ歌でも、全く違う顔に、意味になる。
ヴァウの歌声に誘導され、一隻、また一隻と、三艘の船は座礁する事なく、この海域を通り過ぎていく。オレはそれを、歌声の余韻に浸りながら、その後姿を見送って――
「なーに盗み聞きしてるの? ルアン」
「うわっ!」
後ろを振り向くと、両の瞳を猫の目の様にしたヴァウが、口元を緩めてオレを見つめていた。
「あれあれ? ボクが恋しくなって会いに来ちゃったの?」
「ばっ! ち、ちげーよっ!」
「じゃあ、チューしに来たの?」
「もっとねーよっ!」
「えー! ちっちゃい頃は、もっと過激な事してたのにぃー」
「おい! それは本当に子供の頃の話で――」
そこまで言って岩礁の方へと視線を移すと、ヴァウの仕事仲間であろう人魚たちが、ひそひそと、そしてちらちらと、こちらを見ながら話している。人魚たちは皆、妙齢の女性で――
「あら、皆さん聞きまして?」
「聞きました聞きました」
「あの殿方、嫁入り前の娘に接吻しにきたらしいですわよ?」
「あら、わたくしはもっと凄い事をしにきたと聞きましてよ」
「まぁまぁ、最近の若い方たちは進んでらっしゃいますわねぇ」
「真昼間からおっぱじめるだなんて、職務規定的に許されるのかしら?」
「でもでも、わたくしたちが黙っていれば上司にはバレませんことよ」
「といいますか、その上司もここに居るので問題ありませんわ。許します」
「許すのかよっ!」
なんて職場だ。思わず叫んでしまった。
そして、何故微妙に時代がかった言い方を皆しているのか、理由がオレにはさっぱりわからない。
ひとまず話がこれ以上ややこしくならない様に、オレは咳払いをしてヴァウの仕事仲間へと問いかけた。噂話の渦中にいる本人から話しかけられれば、流石におかしな話にはならないだろう。
「待ってくださいよ。大体、今は仕事中ですよ。そんな中で、一体皆さんは、何を許すっていうんですか?」
「「「え? 交尾?」」」
「お前の仕事仲間の倫理観、腐ってんじゃねぇのかぁ!」
「かぷりっ」
「そして何でお前はこのタイミングでオレの耳かじってんだぁっ!」
え、そういう流れじゃなかったっけ? ボク、何も間違えてないよね? むしろルアンも噛んでよ、という顔をしたヴァウへ、オレは全力で殴りかかる。しかし、それは結局、暖簾に腕押しの如く避けられてしまった。きゃーきゃーどころか、ぎゃーぎゃー騒いで、更には、いいぞもっとやれと言い始めた岩礁の人魚たちを睨むが、収まる気配が微塵もない。
今朝の事といい、今の事といい、流石に腹に据えかねて、オレは海底へと逃げるヴァウの背中を追った。
「ちょっと待て! クソ人魚っ!」
「にしししっ! 昔に戻ったみたいだねぇ、ルアン! ボク、そっちのルアンの方が好きっ!」
「嫌ってもいいから、少なくともお前の仕事仲間にちゃんと説明しろ! オレが潜る前に、『そう言えばあの殿方、貿易商の方でしたわね。陸の人に知り合いがいるから今日の件、是非是非お知らせしないと』って言ってたのが聞こえて来たぞっ!」
「ああ、あの人たち、噂好きだからね! 交友関係も広いし。ひょっとしてその後、『こんなに面白そうな事、黙ってるなんて出来ないむしろ全力でヘリリィイスィ海洋に流すっ!』って言ってなかったかな?」
「その通りだよちくしょーっ! オレの仕事に支障が出たら、どうしてくれるんだっ!」
「あはははっ! それはボクの歌声にメロメロになってた、君が悪いのさーっ!」
「なっ!」
こいつ、気付いてたのかよっ!
「ひ、卑怯だぞっ!」
「いいねぇ、その負け犬っぽいセリフ! それでこそ、からかっているかいがあるというものだよ、君っ!」
そしてヴァウは何かを期待する様に、両手を広げる。しかし、オレはその意味が分からず、とにかく彼女を追うために尾を動かした。
「貧乳人魚のくせに、偉そうにっ!」
「無駄な脂肪分をぶら下げてないが故に、水の中を抵抗なく進むことが出来るのだよ、ボクはっ! ほら、その結果、君はボクを捕まえられないだろう?」
こいつ、戦闘力的にもメンタル的にも無敵か? 正直、体形の事を言ったのは言い過ぎかと思ったが、全くの無傷、だとっ!
「そうだ、ルアン。まだ時間はあるだろう?」
「あぁ? だったら、何だって言うんだよ」
言い終わる前に、ヴァウがオレの背中に回り込んだ。そして息をつく間もなく、一瞬にして裸絞をかけられる。ヴァウの腕が、オレの鰓を含む気管と、頸動脈にまとわりつき、万力の如き力で圧力をかけてきた。
「ボクとこれから、歌の勝負をしようじゃないか。そうだなぁ、ただ戦うのも面白味がないから、今日の晩御飯でも賭けるとしよう」
耳元でヴァウがそう囁くが、首が固定されて動けない。それどころか、彼女の腕が力を増して、オレは一言もしゃべる余裕がなかった。そんなオレを、ヴァウは睥睨する様に見つめる。
「なるほど。沈黙。それが答えというわけだね」
ギブアップを知らせるためにヴァウの腕を叩くが、弱まるどころか、更に強烈な力が加えられる。
徐々に意識が遠き、視界が霞んでいく。海底に沈みながら、体の熱も海の底の様に冷えていった。
だからきっと、オレが聞いたぼそぼそとした、この声は、幻聴なのだろう。
「次に目を覚ました時君は貧乳萌えになっている次に目を覚ました時君は貧乳萌えになっている次に目を覚ました時君は貧乳萌えになっている次に目を覚ました時君は貧乳萌えになっている次に目を覚ました時君は貧乳萌えになっている次に目を覚ました時君は貧乳萌えになっている次に目を覚ました時君は貧乳萌えになっている次に目を覚ました時君は貧乳萌えになっている次に目を覚ました時君は貧乳萌えになっている次に目を覚ました時君は貧乳萌えになっている次に目を覚ました時君は貧乳萌えになっている次に目を覚ました時君は貧乳萌えに――」
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