②
ヴァウ・ティエ・クォアィ。
ヘリリィイスィ海洋に住む、浅葱色の尾が美しい人魚で、オレのお隣さんだ。陸地で隣に住んでいるという感覚と、海で隣に住んでいるという感覚は全く違う。ヘリリィイスィ海洋は広大で、自分の家から半径五キロメートル以内に住んでいれば、それはもうお隣さんと言ってもいい。そして、オレのお隣さんは、このスレンダーで美しい人魚ただ一人だった。
そのポニーテールを波になびかせながら、ヴァウはにしししっ! と笑う。
「あーれー? 今日はネクタイ、絞めてないの?」
泳ぐ速度を保ったまま、上目遣いに白い歯を見せて笑うヴァウの表情が、一瞬かつての幼い日の記憶とダブる。水中であっても、彼女の鱗が太陽に照らされ、まるで海に光の花が咲いたように見えた。
それに一瞬見とれていたオレだが、小さく咳払いをして、それを誤魔化す。
「……今日は、陸の人との仕事はないんだよ」
「あ、今、ボクの尾に見とれてたでしょ?」
「ち、ちげーよっ!」
そう弁解した所で、オレの幼馴染はただただ笑みを濃くして、オレの周りを旋回するだけだった。
ばつが悪そうにオレもそっぽを向くが、ヴァウは図星を付いていたので、特に反論する事はない。オレンジ色の珊瑚礁を気持ちよさそうに通り過ぎる彼女のからかいを、オレは甘んじて受けていた。
一方ヴァウは、黙り込んだオレの反応がどうにも物足りないといった顔をして、小魚の群れを避けながら、オレの方へと近づいてくる。その口元は、何かを企んでいるように、口角が吊り上がっていた。
「そういえばさー、ルアン。久々に再会した時、君、ネクタイの結び方、間違ってたよねぇ?」
「はぁ! そんな昔の事――」
「あれ? ボクの記憶が正しければ、ルアンとボクが再会して、まだ一年もたってないんじゃないかな?」
「ぐぅ!」
ヴァウの言った通りで、正確には彼女とオレが再会して、今日で八か月と十日目になる。更に言うなら、オレがネクタイの結び方を間違っていたのも、本当だ。ヴァウが教えてくれるまで、かれこれ三年と二か月その結び目で仕事場に行っていたのに、誰も教えてくれなかった事に、オレは結構ショックを受けていた。
苦渋に歪むオレの胸元に、ヴァウはその細く、透き通った指を這わせ、更にその指をオレの喉元へと移動させる。
「もう、大丈夫? ルアン。ちゃんと正しく、ネクタイ絞めれるかな?」
「ば、バカにするなよ! もう自分で結べるさっ!」
「蝶ネクタイも?」
「結ぶ必要ねぇだろ、それ!」
「あはははっ! じゃあ、君の運命の赤い糸は?」
ヴァウの指を払いのけようとするが、けたけたと楽しそうに笑う彼女が、オレの手から滑り落ちていく。追撃を躱した彼女は、そのままぐるりとオレの後ろへと回り込むと、ぎゅっと背中から抱き着いてきた。背中越しにヴァウの体温が伝わてきて、オレの心拍数が上昇する。そんなオレの耳元に自らの唇を近づけるために、ヴァウは更にオレの体へと密着してきた。
「何ならボクが、毎朝確かめてあげようか?」
「い、今だって、大体そんなもんだろ! 改めて言う事じゃないさっ!」
「にしししっ! もー、鈍いなー、ルアンはぁ」
彼女を振り払うオレから距離を取り、ヴァウはやれやれと両手を上げて、肩をすくめる。そしてまたスルッとオレの懐に潜り込むと、小悪魔の様な笑みを浮かべながら、オレの唇を人差し指で突いた。
「君が出勤する前に、ボクが毎朝確かめてあげる、って言ってるんだよ? ルアン」
「っ!」
「あはははっ! ルアン、君、顔、真っ赤っかっ!」
「おい! 待てよっ! それって――」
「にしししっ! それじゃあ、お仕事頑張ってねーっ!」
人を食ったような笑みとオレを置き去りに、ヴァウは優雅に海を泳いでいった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます