その日は、雨が降っていた。

 最初は小雨で、まとわりつく湿度が煩わしく思ったぐらいだった。道行く草木に溜まる雫が、やけに瑞々しかったのを覚えている。

 雨の匂いと香り立つ土の匂いが、僕が怪我をする事になる、課外授業の最初の記憶だ。

 課外授業の場所は、火、水、土、風、雷の五属性を発動させるのに、それぞれ適した場所で行われる。僕が得意な属性は水なので、この日は他の生徒たち、僕と同じく水属性を得意とする人たちと一緒に課外授業を行う場所に移動していた。

 その場所は、地底湖だった。

 過去に何度も課外授業の場所として選択されているそこは、岩場を削り取ったような地下構造になっており、火や風、雷はもちろん、土の影響も受けにくい、まさに水の魔法を発動するのにぴったりの場所だった。

 だから、学園としても油断があったと言えば、油断があったのだろう。

 課外授業が始まった時の小雨が、徐々にその雨脚が強くなっていた。

 水は、高い所から低い所に流れ落ちる。

 気づけば、湖の水かさはかなり増えていた。それが逆に、水属性の魔法の発動効率を押し上げ、課外授業は順調に進んでいったのだ。操る対象が増えれば、それだけ効率は上がる。

 だから、僕の順番まで授業は中止されなかった。外は大雨、土砂降りで、湖に降り注ぐ水の中に、本来混ざらない、考慮が不要な土が混じり始めていたことに、この時は僕も教師も、誰も気付かなかったのだ。

「次は、フリードか」

 僕が名前を呼ばれた時には、湖の水かさは五メートル程も増えていた。正直、僕は不安しかない。

「すみません。本当に授業は続け――」

「おい、何怖気ついてんだよ!」

「最後なんだし、ちゃちゃっと終わらせろよ、フリード!」

「この水量なら、お前でも魔法が使えるチャンスだぜ!」

 飛んでくるヤジに、僕は歯噛みして俯いた。今言われている通り、僕は魔法を上手く使えない。つまり、落ちこぼれだ。思った通り、水を操れない。

 でも、だからこそ魔法の危険性はわかっているつもりだった。

「……授業、中止にしませんか?」

「何?」

 僕は、引率の教師にこう言った。

「何か、嫌な予感がします……」

「しかし、な……」

 教師が、口を歪める。学園に戻った時、僕一人だけの結果が出ていない事を危惧しているのだ。それは想定された時間内に課外授業の進行が出来なかった、と言う自分の能力を低く評価される事を危惧しているようでもあり、また、僕の境遇を今見ているが故にそれに参加した、つまり魔法を使わせない事でいじめに加担したと受け止められないかという事を危惧しているようでもあった。

 そんな教師の背中を押す様に、ヤジが強くなる。

「早くしろよ!」

「魔法が使えないのを認めるのが嫌なんだろうが!」

「先生困らせるんじゃねーよ!」

「短時間なら大丈夫だって!」

「……フリード」

 教師に顎で湖の方向を指示されては、僕は従うしかない。

「……わかりました」

 うなだれなら、僕は湖の方に歩みを進める。課外授業用に作られた、魔法を発動させるための台座は、僕がたどり着いた時には既に、薄っすらと水が張られている様なありさまだった。その時、嫌だな、という思いと、あわよくば、という考えが、僕の中にあった。

 それはつまり、この状態であれば僕は普通に魔法を使えるのではないか? という、見当違いの期待。いつもは抑える様に、そして更に抑える様に使っていた魔法を、僕は発動させる。

 瞬間、湖が、沈んだ。

「え?」

 誰かが零したその声は、ドラム缶が気圧変化に耐え切れず凹んだ様な騒音、その連打にかき消される。濁点が連続する打撃音の様なその音に、教師と他の生徒たちがうろたえ始めた。

 空気中にも、水属性の魔法を発動したことを知らせる、薄い青色の尾を引く風が漂う。いや、漂うなんて、可愛いものではない。地底湖を、何かが泳いでいる。そしてその何かは、僕が魔法を発動したのと同時に現れた。濃度が濃すぎるのだ。でも、僕はその事に意識が向いていない。だから自分の生み出したそれに、気付きようがない。そして何より、湖の中の異物の方が、僕は気になっていた。

「……ぁ、混ざってる」

「おい、魔法を止めるんだフリードっ!」

 小さなつぶやきを漏らした僕の肩を、教師が乱暴につかむ。だが、湖が沈むほどの圧力をかけている魔法を利用している最中に、注意をそらすような事をしたらどうなるのか、想像出来なかったのだろうか? いや、想像出来なかったからこそ、僕は額に傷を負ったのだ。

 僕の魔法が歪み、たわみ、均等に水にかけられていた圧力に斑が生まれ、戒めから解き放たれた水の槍が、地底湖の壁と言う壁に突き刺さる。

「やばい、地底湖が崩れるぞ!」

「助けてくれ!」

「誰か学園に連絡を!」

「そんなつもりじゃ、そんなつもりじゃなかったのに!」

「落ち着け! 落ち着いて非難すれば、全員助かるっ!」

 教師が悲鳴を上げる生徒たちをなだめる様に、声を張り上げた。しかし、それも焼け石に水なのかもしれない。パニックになった集団は、完全にまとまりをなくしていた。

 僕はと言うと、暴れ出した水を魔法で何とか制御しようとして、悪戦苦闘していた。無造作に湖の水を暴れさせるのではなく、方向性を付けて、導いていく。八の字を描くように、何とか水の流れ、力の逃げ道を作り出した。

 と、その時、生徒たちから歓声が上がる。

「グローリア先輩だ!」

「天女様だわっ!」

「学園きっての天才が、助けに来てくれたぞっ!」

 誰かが助けに来てくれたという事までは聞き取れたが、聞こえてくる全ての声を理解する事も、やって来た助けの方に振り向く余裕も、魔法を使っている僕にはない。

「……状況の説明を」

「何言ってるんだ、早く助けてくれよ!」

「そうだよ!」

「俺は悪くない!」

「天才なんだろ? 早くどうにかしてくれっ!」

「……引率の教師の方はどこに? 何故、こんな状況になる前に、課外授業を中止していない?」

「それは、最後の一人だったし、他の生徒もそれを望んでいて……」

「俺たちのせいだっていうのかよっ!」

「そうだ! 俺はあいつが、あの一年がちょっと力を持ってるから、お灸をすえてやろうって!」

「……もういい。大体わかった。生徒に責任を擦り付ける教師。そして下級生の才能に気付き、嫉妬して事故を煽る上級生。良識ある魔法使いとして、マーケズィ魔法学園の生徒として、あなたたちの行動を見過ごすわけにはいかない」

「そんな!」

「それより、早く助けてよ!」

「そうだよ、このままじゃ死んじまう!」

「また魔法が暴走したらどう責任取ってくれるんだ!」

「暴走? 確かに、彼の魔法の素質から言えば、この湖の水如きでは壊さない様にするのに、細心の注意を払う事になるだろう。巨人が人間のコップを持った途端、それを壊してしまう様に、彼の力は強すぎる。だから普段、彼の魔法は失敗する」

「だったら、今も危ないって事だろ!」

「心配無用さ。今は安定しているよ。わからないかい? この不届き物どもを成敗する時間は、あるという事だ」

「ひっ」

「覚悟しろ。そう、これが私の役割。私に求められている、役割なのだ。私に課せられた役割だから、私はそれを執行せねばならないっ! 罪には罰を、断罪をっ!」

 そして僕は、更に水へと制御を加える。八の字で回転していた中から、一筋の水槍が飛び出した。

「なっ! まさか、私の魔法が押し負けるなんてっ!」

 背後に感じていた嫌な感覚が、水槍で薙ぎ払われた。上手くいった。そう確信した僕は、僅かに顔を後ろに向ける。

「キミ! その傷はっ!」

「……いいから、早く、皆を外へ」

 水槍が砕いた岩の破片が、僕の額を薄く切ったのだ。傷自体は深くはないが、流れる血で、前が、目が見えない。それでも自分が魔法で手繰る水の流れは、どうにかこうにか、掴むことに成功していた。でも、いつまで持つか、僕にもわからない。

「早く!」

「……彼の寛大な心に、感謝するがいい!」

 誰かが、多分女性の、冷たくて、そして固い声が、そう言った。そしてその後、人の気配が徐々になくなっていく。皆が無事に外に出られたのなら、ひとまずそれは良かった。でも、僕は一体どうすればいいんだろう? 落ちこぼれの僕には、八の字で回転させている水の止め方なんて、皆目見当がつかなかった。その弱音が、思わず口から零れ落ちる。

「……どうしよう」

「安心なさい。私がどうにかしよう」

「わっ!」

 またあの冷たい声の人に話しかけられて、僕は驚きで思わず魔法の制御を誤りそうになる。

「ちょっと、キミ! しっかりしなさい!」

「ご、ごめんなさい。びっくりしちゃって……」

「全く、優秀なのか、抜けているのか、わからない人だね、キミは」

「……僕は、優秀なんかじゃないですよ。今だって、この状況をどうすれば解決できるのか、全くわかってませんから」

「安心するがいい。そのために私が来たのだ。それが、私の役割だ」

 そう言った彼女の声は、元々持っていた固さを、更に百倍した様に僕には感じられた。

「役割、ですか?」

「そうだ。自慢じゃないが、私は他の人より魔法の素質に恵まれていてね。その上、容姿端麗にして眉目秀麗。自慢じゃないが、将来私はどこかの国のお抱え魔法使いに、いや、ひょっとしたら、その国のトップになるかもしれないな。いや、むしろ周りはそれを期待している。そして私は、その期待に応えねばなるまい」

「は、はぁ……」

 なんだか、凄い自信家さんだ。聞いた冷え冷えする温度の言葉を、その内容をそのまま信じるのだとすると、まるでグローリア・チャンドラーみたいな人だ。でも、流石にあの先輩と同一人物なわけがない。あの人は僕にとって雲の上の存在で、出会う事なんてあるはずがないし、彼女がここにいるはずがない。それに彼女は、なんというか、もっとおしとやかなイメージが、僕の中にあった。

「何だ? 私の言う事が信じれないのか?」

「い、いえ、そういうわけじゃないんですが……」

 僕の反応がいまいちだったのか、固い声の彼女は、真冬の水の様な冷たさを持つ声を紡ぐ。

「そうか。キミは今、目が見えないのだったな。ならば、私が誰か教えて――」

「あ、あの! 疲れま、せんか?」

 話が長くなりそうだったので、僕は強引に言葉をねじ込んだ。もちろん言葉を遮ったのは、それ以外の理由もある。

「……何?」

「あの、役割とか、期待に応えるとか。凄い、大変そうだなぁ、って……」

 彼女の言葉が冷たく、固くなる時は、大体そんな話をしている時だったような気がする。

「だが、私はその役割を果たせるだけの実力が――」

「でも、それって、あなたが本当にしたい事なんでしょうか?」

「……」

 彼女の沈黙が、痛い。睨まれている様な、刺殺さんばかりの視線が僕に向けられている気がする。でも、僕は僕の考えを、出来ない僕だから、困っていた僕の元に戻って来てくれた彼女にぶつけた。

「確かに、才能がある人は、色んな事が出来るんだと思います」

 普段魔法を使えない様な僕みたいな奴より、普通に魔法を使える人の方が、沢山いろんな事が出来る。その選択肢がある。でも――

「それと、自分のやりたい事を、自分の心を押し殺すのは、違うと思うんですよね」

「……でもそれは、皆が私にそうする事を望んでいる。その役割を、担う事を」

「まぁ、それはそれでいいと思うんですけど……」

 もちろん、誰かの役に立ちたい、という気持ちを否定するつもりはない。

「じゃあ、その『皆』の中に、あなたは入っているんですか?」

「……」

「疲れないのかな? って。弱音を吐きたくないのかな? って。僕、思っちゃったんですよね」

 落ちこぼれの僕だからこそ、そう思う時は多々ある。今日の課外授業で、魔法を使う前に、強く、強く感じていた事だ。

「誰かに甘えたいな、って。甘えてもいいんじゃないな? って。あ、僕は落ちこぼれなんで、こういう弱音は今日で最後にしようと思いますけど、あなたみたいに頑張っている人は、誰かに甘えてもいいんじゃないかって――」

「名前は?」

「え?」

「キミの、名前を聞いていなかった」

 そう言えば、まだ自己紹介をしていなかった。

「すみません。遅くなりました。僕は、フリード・リムと言います」

「フリード……」

「それで、あなた、は――」

 瞬間、僕は膝をつきそうな虚脱感に見舞われた。地面に倒れなかったのは、彼女が支えてくれたからだろう。もう、支えてもらった感触すら、僕にはない。

「……まともに魔法を使うのは、今日が初めてという事だったな?」

「はい。お恥ずかしながら……」

「気にするな。キミが言ったのだぞ? 甘えてもいい、と」

「でも、僕は落ちこぼれだから、これ以上甘えないようにしないと。だから――」

「嬉しかったよ」

「……え?」

「ふむ。自分が甘やかされる前に、そんなキミを甘やかすのも、悪くないかもしれん」

 その言葉は、意識を失いかけていた僕の耳には、殆ど入って来なかった。でも、彼女が僕を支えながら微笑んだのは、なんとなく気配でわかる。

「キミが自分の才能に気付き、その力を振るいたい時に振るえるよう、私はキミの傍にいよう。それが、私が私に課した、納得できる役割。私のしたい事だ」

 だから、ここは私に任せてしばし眠るといい。

 そう言われた様な気もするし、言われていない様な気もする。

 だから僕が感じた、地底湖に集まった僅かな土から、僕が制御していた八の字の水を彼女が鎮静化した光景も、ひょっとしたら幻だったのだろう。いや、そうに違いない。だってあの時、僕は自分の血で目が見えなかったのだから。

 だから僕は、あの課外授業が、どういう結末で終わったのか、見ていないのだ。人づてで聞いた話では、僕たちを引率していた教師が一名退職扱いになった事と、上級生が一名退学、二名が休学したという事だった。そして地底湖にいた女性の事は、全くわからなかった。その話をすると、皆一様に口を噤んでしまう。ひょっとすると、本人が言っていた通り、本当に大物で、口止めされているのかもしれない。

 でも、だからと言って、僕が普通に魔法を使えるようになったわけではない。学園では、誰にも顧みられる事のない、いつもと同じ、相変わらず落ちこぼれ。

 そう思って、一応治療してもらった額を摩りながら、男子寮に帰って来たのだけれど――

「おや? 奇遇だね、フリード。今帰りかい?」

「……へ?」

 寮の玄関で優し気な声に話しかけられ、僕は視線をその方角へと移す。そして、開いた顎が塞がらなくなった。僕に話しかけてきたのは、とんでもない美少女。え? でも、何で女子生徒が男子寮に?

「立ち話もなんだ。キミの部屋でお茶でもしよう」

「え? あ、あの……。へ?」

「何、心配するな。途中までの帰路は同じなのだ。私の部屋は、キミの隣なのだからな」

「どういう事ですか? 僕の隣、もう既に埋まってますけどっ!」

「はははっ! 引っ越してもらったに決まっているだろう?」

「そんな、太陽は東から昇って西に沈む、みたいな常識っぽく言われても!」

「心配するな。私の名前は、グローリア・チャンドラー。キミの怪我の面倒を見に来たんだ」

「ぐ、グローリア! え、あの、グローリア・チャンドラー! 先輩、です、かぁ?」

 え? 何で? 何でそんな有名人が? え、何で? 何でっ!

「うむ。気軽に、グロにゃんと呼んでくれ」

「どう考えても呼べるわけないでしょう! どうしてそんな風に思えるんですかっ!」

「決まっているだろう? 私がそう呼んで欲しいからだ」

 そう言って先輩は、満面の笑みを浮かべたのだった。

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