④
放課後の教室は、教室を照らす夕日とその影は、なぜこうもノスタルジックな気持ちにさせられるのだろう? そう思いながら、ノスタルジーの意味は、過ぎ去った時間や故郷を懐かしむ気持ちという意味であることを思い出し、高校生になったばかりの俺が得ていい感情なのではないか? と少しだけ不安になる。
でも、しょうがないだろう? 懐かしさを感じるのは、例え高校生になったばかりの俺だって、抑えがたく感じるものなのだから。それが更に教室の中に、懐かしいものの実物が存在していたとするのであれば、そう言った気持ちをより想起させるのはやぶさかではないというものだ。
そう、それはつまり、ブルマが存在していたのだ。
「やっほーっ! そーたっ!」
「いやいや、マジで意味わかんないから!」
何故柚乃がここに? と言う疑問は、そもそも俺を呼び出したのが柚乃だという事で解決できる。だが、何故柚乃がブルマ姿なのか? と言う問いには、俺は全く答えを持っていない。
「な、何故、ブルマ?」
「んー、好きかなぁ? って思って」
脊髄反射で頷いてしまうが、そんな無垢な表情をしないで欲しい。むしろ、嫌いな奴なんているのか? 柚乃の真夏の太陽に焼かれたような肌は、真っ白な上半身の体操着に映え過ぎて、俺の両目が失明しそうだ。風になびくゆわふるパーマも夕日に照らされ、広大な大地にそよぐ稲穂の様にも見える。そして何よりブルマである。瑞々しい。健康。はち切れそう。表現は何でもいい。いや、貧困な俺の語彙力じゃ表現し切れない。美しい。もう一度言おう。美しい。その四肢は、ブルマから伸びる太ももは、ただただ美しいと表現するためだけに、今この世界に存在する。
俺の心中を察したのか、柚乃が今まで見せた事のないような、妖艶で、優艶で、艶麗な笑みを浮かべた。
「じゃぁ、良くなぁぃ?」
主語のない、甘い言葉だった。甘い。そう、ただただ甘い。吐いた息が確かな質量を伴い、俺に絡みついてくる。流動性の低い、粘性の、粘度の高い、アダムとイブを果実へ誘う、蛇の様だ。そしてそれは、言葉だけではなかった。体を揺らし、髪を揺らし、胸を揺らし、俺の視覚へ、味覚へ、聴覚へ、嗅覚へ、触覚へ、五感全てを捉えるように、柚乃が近づいてくる。打算的で、作為的。でも――
「……ね?」
小悪魔の様な、いや、実際に小悪魔の微笑みで、黄昏時に、柚乃が俺の肩に手をかけてくる。それは全てを、理性を、思考を、判断力を、人として立っているのに必要な全てを、溶かし、融かし、解かす笑みだ。人を、獣へ落とし、堕とし、墜とす笑み。その笑みを作る唇が、ゆっくり、しかし、確かに俺のそれに近づいてきて――
「無理、しない方がいいよ」
「……ぇ?」
一度ひび割れた笑みは、もう戻らない。柚乃の手の震え、俺が日常的に通う、通い始めた学校、そして今日柚乃とTBGの訓練、その全てを俺が見えていて、聞こえていて、覚えている限り、柚乃が直球で成し得ようと事は、果たせない。
「ど、どーし、てぇ?」
どうしても何も、経験があるからとしか言いようがない。過去にあるメンヘラにやられた事があるだけだ。そのときは、相手も余裕がなかったので、事なきを得たのだが。
とはいえ、それを柚乃に言うつもりはない。
「プロの世界じゃ、そういう事件もあるんだよ」
「……ど、どーして――」
「え? だから――」
「あ、あーしを選んでよぉっ!」
せっかく雰囲気を元に戻したのに、柚乃が俺に抱きついてくる。けれども、一度霧散した空気は、もう二度と戻ってこなくて、それがどうにも、このちぐはぐ感が、今の俺と柚乃には、どうしようもなく似合っていると思った。
「あーしを、あーしを選んでよっ! しのじゃなく、あーしを選んでぇ!」
「だから、詩乃には手を出すな、って?」
驚いたように見上げられるが、それは逆に俺はショックだった。あんなに露骨に色仕掛けをしておいて、その裏に何もないと、本気で俺がそう思ったと、彼女は考えていたのだろうか? ゲームは上手くて、天才的だと、言ったはずなんだが。
そして何より、こいつ(柚乃)もあいつ(詩乃)も、どうやら自分の一番大切なものが、一番見えていないみたいだ。だからこそ俺は、それをあえて暴き出す。感づいているとか、言わなくてもわかるとか、そんな事はどうでもいい。こいつらの口から曝け出すのが、きっと重要なのだ。
「どうしてそんな、自分を犠牲にするような真似までして、俺を味方に、詩乃に目を向けないようにするんだ?」
「……」
「そこがわからないと、柚乃に協力する事も出来ないぞ?」
「き、きょーりょく――」
「話を聞いてから、判断するよ」
俺の言葉に、柚乃は俯いた。だが、ゆっくり、ゆっくり、口を動かし始める。
「……しの。あーしの妹はね、凄いんだぁ」
それが、柚乃が最初に、そして自分の身を、そして魂を捩じ切るようにして絞り出した言葉だった。
「しのは、凄いの。ちょっとどんくさいとこあるけど、それもカワイくって、すっごくカワイくって、あーしより、頭、良くって、だから、あの子は、ダメ、もっと、違う世界で、どーんって、ばーんって、もっと、もっと凄い世界で羽ばたいて、羽ばたけて、しの、そーゆーの、出来る子だしぃ、あーしなんて置いていってもいいからぁ、だから、あーしぃ……」
「うん……」
「あーしじゃ、み、みぜで、上げられない、もっと、しの、しのが羽ばだげる、ずごぃ、じゅごいんだがらぁ、あーしのじのはぁっ! じ、じま、じゅまんの、いも、だがら、あーし、じのにはぁ……」
詩乃よりも、柚乃の方が先に涙を流す。それでもずっと、柚乃は詩乃の事を話し続けた。料理が上手くて、勉強が出来て、それでも自分が寂しいと思った時にはお姉ちゃんっていつも一緒に居てくれて、自分が出来の悪い姉だから、詩乃にはいつも我慢させて、だから、だから――
「じ、じのにぃ、じののずぎなごど、もど、もっど我儘、じの、自由に、何でも、じでいぃがらぁ……」
自分が社長になるから。父親の会社を継ぐからと。自分がそこに行くから、もう自分に囚われず、我慢せず、もっと広く、自由な世界に羽ばたいて欲しいと、子供の様に泣きながら柚乃は、そう言った。
「ぱ、ぱぱ、ぱぱね? ずっど、頑張ったの、じ、じっでる、がらぁ。まま、死んじゃ、死んじゃっ、でぇ、あ、あーし、あーじどじの、に、めぇーわぐ、が、がげないよぉーにって、ぱ、ぱぱ、がん、頑張っで、ぱぱ、えら、えらぐ、し、しゃぢょぉーにぃ、なっでぇ! がんば、頑張っだ、頑張、ったの、頑張っだのぉっ! あ、あーし、あーしも、じのもしって、じっで、る、よぉ? しゃぢょ、しゃぢょぉ、でも、い、忙、た、大変、ど、どぉずれば、ぱ、ぱぱ、助け、あーじ、じ、じの、じのぉどぉぅ――」
「話し合った?」
「ぞぅ、ぞぅ! ぞうぅっ!」
この華奢な体に、一体どれだけの後悔を、どれだけの無念を溜め込んでいたのだろう? 俺の体が、心が、魂が引き裂かれそうな程の悲愴さと、悲痛さと、悲惨さで、柚乃は俺の制服を握りしめた。
「が、がいじゃ、だ、大、事、み、皆、もぉ、だ、大事、大事でぇ! で、でも、でもでも、でもぉさぁっ!」
この想いをぶつけるのは、叩き付けるのは、ぶちまけられるのは、同年代の、それも異性の、つい先週あったばかりの俺じゃなければダメだったのか? それほどまでに膨らんで、はち切れそうで、溢れさせてしまったのだろうか? いや、今まで誰にも見せない、見させない、見せようとしない程の決意を、柚乃は今までしてきたのだ。
「ま、まま、ままも、じゅぎ、でぇ、で、でぼぉ、ぱぱ、ぱぱも、じゅぎ、じの、じの、じゅぎ、みん、みんな、だいじゅぎでぇぇぇえええっ!」
あー、死ね。死ね死ね死ね。一番大切なものがわかってない? 一番見えていない? だから何だ? 暴き出す必要があったのか? 曝け出す必要があったのか? 確かに重要だ。必要だ。認めるのは。認識するのは、認知は非常に重要だ。だが、これが、この、ただただ大切な人への想いを、こんな小さくなって、震えて、しかもその大切な当人に伝えられない様な女の子の心を、剥き出しにして、晒し、吊し、祭り上げる必要があっただろうか? それをやったのは誰だ? 俺だ。俺自身だ。死ね。死ね死ね死ね死ね。百回死んでも足りはしねぇ! 何がゲームの事なら頭が回るだよ。全く、見えていなかった。予感はあった。想像も出来た。だから残った。教室に。今、この場所に。柚乃が呼んだこの場所に。でも、俺はこの選択をした。聞きたくて。柚乃の本心が知りたくて今、二人っきりになる事を選んで、あまつさえ俺は、彼女を泣かせてしまった。
「なら、無理に色仕掛けを俺にしたのは?」
「じ、じの、がぁ、じのが、ひがないがらぁ、あ、あーし……」
とんだクソ野郎で、道化だな、俺は。
ここまでくると、失笑を通り越して、嘲笑を通り越して、冷笑し切って苦笑するほかない。
自分自身の怒りで、言葉が、出てこない。
でも、その身勝手な全てを大声で喚き散らさなかった事だけは、自分自身に及第点を付ける。
そうだ、俺。少なくとも、少なくとも柚乃も、詩乃の事を想っている。だからまずは、落ち着こう。さぁ、深呼吸だ。深呼吸しなければ冷静でいられない自分への憤りを、今は感じている場合じゃない。それは、目の前の、俺に縋り付いて泣きじゃくる女の子に見せてい姿じゃない。
「い、いっじょに、じ、じの、だ、だずげでぇ……」
「じゃあ、作戦考えとくから、連絡先、交換しようぜ。仕事用じゃなくて、プライベートの方ね!」
だから俺は、柚乃と一番初めに出会った時の様なだらしなさで、互いの連絡先を交換した。
柚乃が泣き止むまで、彼女の背中を撫でていると、やがて妹想いの姉は、照れたように顔を上げる。
「……落ち着いたか?」
「……ぅん」
「じゃ、とっとと着替えて、今日も練習練習! TBGが上手くならないと、柚乃の目的、達成できないぞっ!」
「……ぅん、うん、うんっ! そ、そーだね、そーたっ! あは、あはははっ! ごめんね? きゅーにマジっぽい話しちゃって。あーし、恥ずかしぃ!」
こんなの一体、どちらを選べというのだろう?
それでも俺は、その空元気が続いているうちに、柚乃と一緒に会社へ向かった。
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