第3話 山下 蓮 という存在

「ただいまー……って、誰もいるわけないか」


 買い物袋を両手に下げて、誰もいない家に入る。もうすぐ20時。蓮自身もお腹が空いているので、早く料理に取り掛からないと。蓮は買い物袋の中から食材を取り出し、キッチンへ向かう。

 お惣菜の類は買わなかった。特にお金に困っているわけではないが、安物の調味料の味付けが嫌いだし、ニキビの原因になると聞いたことがあるからだ。

 まあ買い物にしろ料理にしろ、単純に出来ることが多い方が得だから、というのが最大の理由ではある。


「えーっと、食材はこれとこれで、献立はこれで……」


 しかし、蓮がキッチンで始めたのは料理ではなく、メモだった。黄色いメモ用紙に今晩と明日の朝食のメニューを書いて、お風呂の用意と宿題をする旨を書いた。他にも、帰り際に茶道部の部長と話したこと、学校の玄関で先輩にあったことも書いた。


「まあ、こんなもんかな」


 一通りのことを書き、最後に一言『おやすみ、凛』と書き足して、蓮は電源の入っていないIHに突っ伏するように倒れた。



 蓮。彼女は性同一性障碍者――つまりは、二重人格者だ。




 凛には、母親がいない。正確には、”いた”と言った方が正しいか。

 凛の母親は、とても明るくて優しい人だったと聞く。私はあったことも話をしたこともないが、少なくとも、親父はそう話していた。

 彼女がどうなったのか。それは蓮にはわからない。だが、蓮という別人格が生まれてしまうほどに、凛の心が傷ついた事件があった、ということ。蓮の最初の記憶が、病院のベッドの上だったことから、大体のことは察しているつもりだ。親父がこの件について、触れたがらないでいるのも……。


 それから私は、凛の別人格として11年間過ごしてきた。凛が傷つくことは全て私が肩代わりしてきたし、凛が乗り越えるべき壁は、凛に任せるようにしてきたつもりだ。


 それでも、時々不安になることがある。


 私という人格が不要になる時が、本当に来るのだろうか。


 凛は週に1回、親父が働いている精神病院に通っている。凛と蓮に分かれた心が、ひとつに戻れるように。普通じゃないものが、普通に戻れるように。

 けれど最近、親父はやつれてきている。鬱病になる人が年々増えてきているこのご時世、精神科の医者が精神病にかからないなどという道理はないし、そういった多忙すぎる現状の影響もあるだろう。けれど一番は、いつまでたっても自分の娘の人格が正常に戻らないことが原因だろう。凛が高校生になったぐらいから、週1の通院は凛のケアではなく、親父のケアのための通院になっているような気さえする。


 私がしっかりしないと、多分この二人だけの家族は壊れてしまう。でも私が存在するせいで、この家族は疲弊してしまう。そんなジレンマを抱えて、それでも最悪の結末だけは避けまいと、私は存在している。

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