逃亡と決着

 ――あーあ。取り逃がしちゃったなあ。


 頬を膨らませたルークが、頭の後ろで手を組んだ。退屈そうにぷらぷらと廊下を歩く。

 素早いシオを見失った彼は、心行くまで不貞腐れていた。


 サンブラノの屋敷は、騒然としていた。


 客人であるキリウスはとっとと追い出され、ルークによって作られた破壊痕を使用人等が片づけている。

 さらには眠れるネズミが起きだしたのか、そこかしこにもっちりとした小動物が走り回った。

 これにはメイドが悲鳴を上げて逃げ惑い、後妻が泡を吹いて倒れた。

 各々がほうきやハエたたきを手に挑むも、今度は迷い込んだコウモリが顔面に激突して回る。屋敷は阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。


「つまんないなあー」


 ネズミにもコウモリにも興味を示さないルークが、悲鳴を上げて逃げ惑うメイドをひょいと避ける。

 ぷくりと頬を膨らませ、彼は廊下を散策していた。


 不意に彼の耳に、ぱたぱた、体重の軽い人物が駆ける音が届く。

 はてと瞬き、音の方へ顔を向けた。

 ――薄いリネンのドレスと、長い銀髪がひるがえったのが見える。

 おやおや。瞬きを繰り返したルークが、白い布が見えた方へ身を乗り出した。


 先ほど、シオによってぐるぐる回らされた階段を、よろめく少女が駆け上っている。頭からすっぽりとショールを被り、必死な様子で手摺りに掴まっていた。

 この屋敷にあの年頃の少女なんて、ひとりしかいない。

 その少女は近日中に処分されるはずで、今は自室に監禁されているはずだった。


「おじょーぉさん。どこ行くの?」

「ッ!?」


 肩越しに少女が振り返り、階段を上る速度をはやめる。

 俄然わくわくしたルークが、るんるんの笑顔で彼女を追った。


「待ってよ、ねえ! どこ行くの?」


 ルークの大声に使用人が気づき、顔を覗かせる。

 口々に「ミリアお嬢様だ!!」「馬鹿! もうお嬢様じゃないだろ!」等々、少女を指差した。


「おい、捕まえろ!」

「えー! 俺が先に見つけたのにー!」

「これはサンブラノ家の問題なので!!」


 息を切らせた少女目がけて、大人たちが追いかける。

 屈んだ彼女が、華奢な靴を脱ぎ捨てた。

 階段を転がるそれを、使用人の爪先が蹴り飛ばす。ミリアの靴は、全くと言って良いほど飾り気がなかった。


 銀の髪をなびかせ、彼女が最上階へと辿り着く。暗い廊下の唯一の光源を目指して、裸足が駆けた。

 追っ手がわあわあ怒号を上げる。

 少女の手が、硝子の開き戸を掴む。盛大に開かれたそこが、夜風を招き入れた。


 宵闇を過ぎた頃だろう。星が煌々と輝いていた。銀の髪がきらきら光を弾く。

 バルコニーであるそこは空に近く、シュミーズドレスが空気を含んで、ゆったりとなびいた。


 ――行き止まりへ追い詰めた!

 使用人等が詰め寄る。廊下とバルコニーの境目に、彼等の爪先が触れた。


「来ないでくださいッ!!」


 悲痛な叫びが夜闇を引き裂く。ショールを深く被り、少女が手摺りへ身を乗り出した。どよめきが響く。

 星明りの光をまとった髪を左手が掴み、右手が裁ちバサミを構える。

 ――シャキン、開かれた刃が、閉じられた。銀糸が星影に消える。


「ミリア・サンブラノは、今日、ここに散ります!!」


 切り落とした髪とハサミを投げ捨て、軽い身体が手摺りから飛び降りる。

 誰かが悲鳴を上げた。慌てた使用人が手摺りの下を覗き込む。


 ――潰れる音も、ひしゃげた死体も、赤い染みさえも残さず、ミリア・サンブラノは屋敷から姿を消した。





 ルークからの報告を聞いたサンブラノ卿が、険しい顔をますますしかめた。不機嫌そうに鼻が鳴らされる。


「もういい! 手間が省けた」


 バルコニーに残されたミリアの髪の毛を無造作に掴み、彼が暖炉にそれを投げ入れた。

 銀糸が赤い炎に照らされ、ぺろりと舐められる。

 漂う焦げたにおいに、夫人が扇子の下で顔を歪めた。

 サンブラノ卿が、鋭い眼光をルークへ向ける。主人は大変気が立っていた。


「宮廷魔術師と聞いて期待していたが、とんだ役立たずだったな」

「おやおや、これは失礼」


 何が楽しいのか、にこにことルークは笑っている。

 例えどれほど顔が良くとも、こうも笑い続けていれば、いっそ不気味である。サンブラノ卿が嫌悪に顔をしかめた。


「ところでミスターサンブラノ。娘さんのお部屋には入りましたか? 最近の女の子の部屋はすごいですね」


 ぴくり、眉を跳ねさせたサンブラノ卿が、これ以上険悪にはなるまい。眼光を強める。

 しかしルークにとってはそよ風にもならないのか、代わりに主人の隣に座っている夫人が青褪めた。


「あれは何でも欲しがった」

「あれあれ? お嬢さんのお話ですよ?」

「私に娘などおらんッ!!」


 テーブルを叩き、激しい音を立てる。

 空気が張り詰めた糸のように緊迫するが、青年は不思議そうに首を傾げるだけだった。変わることなく、飄々としている。


「驚くほど、空っぽの部屋ですよ」

「そんな訳があるか!!」

「ご自身の目で確認されたことは?」

「ッ! 見ていろ、私が真実だ!」


 立ち上がったサンブラノ卿に、夫人が血相を変える。慌てて立ち上がった彼女が、主人に追い縋った。


「あなた! 私が証明いたします! ですので、あなたはお席でお待ちください!」

「黙れ、クラリッサ!! 奴はお前を虚仮にしたのだぞ!?」

「で、ですが……」


 狼狽する夫人を置いて、サンブラノ卿がかつての娘の部屋を開け広げた。

 カーテンを引かれ、ますます暗い室内に明かりを灯す。照らし出された内装に、彼は絶句した。


「なん……ッ、これはどういうことだ!?」


 机、ベッド、クローゼット、本棚、そして鏡台の置かれた、質素な部屋だった。

 これまで父親としてミリアへ買い与えたものが、ひとつとして見当たらない。


 ――何故だ!? あれの欲しがるものは、どのようなものであろうと全て買い与えた!


 彼が娘のクローゼットを開け広げる。

 落ち着いた色のドレスと、学校の制服が行儀良く並べられていた。サンブラノ卿が顔色をなくす。


 ――あれは特にドレスとアクセサリーを欲しがった。

 菓子も、珍味も、家具や玩具、人形も与えたはずだ!!


 物のない部屋は、探せる場所さえも限られていた。

 父親が机の引き出しを開け、整頓された中身をひっくり返す。愕然と震える彼を、ルークはにこにこ見詰めた。


「き、きっと売り払ったのよ!! きっとそうよ!!」


 大仰な身振りで夫を止めた夫人が、必死に説得する。


 夫人はこれまで、ミリアのものを奪い続けていた。

 彼女は上手くやっていた。達者な演技で夫を、世間を騙し、金と身体で周囲を抱き込んだ。ミリアにはできない芸当だ。

 妻に惚れ込んでいた主人は彼女の言葉を鵜呑みにし、迎えた結末が、これだ。


 あははっ! ルークが笑う。驚くほどに邪気のない、澄み切った笑い声だった。


「ご覧ください、ミスターサンブラノ。家具を長期間置くと、このように壁染みが生まれます」


 軽やかな足取りでサンブラノ卿の前に立ち、青年が机を動かした。

 机の形のまま白い壁が残り、目の当たりにした夫人が息を呑む。


「いやあ、実にすっからかんな部屋ですね! 人形のひとつくらい置けばいいのに!」

「……あ、……あっ」


 父親が頭を抱える。彼は青褪め、呼吸を荒くしていた。

 ルークが机の上を見下ろす。散らかった裁縫道具と、つぎはぎだらけの帽子。散らばった手紙、そして不自然に空いた隙間。

 帽子を手にした彼が、無造作にコートのポケットへ突っ込んだ。


「そうだそうだ! 奥さん、手を出してください」

「え、ええっ!?」


 使用人を呼んでいた夫人が、真っ青な顔で振り返った。差し出された手に、ルークが握っていた何かを落とす。

 緩やかなカーブを描いた、赤とピンクと錆色のこびりついた白いもの。

 しばらく凝視していた夫人が、悲鳴を上げてそれを叩き落した。


「ひゃああああああああッ!?」

「おやおや。あなたお気に入りの執事くんの爪ですよ?」

「あ、あなた正気じゃないわ!! 彼に何をしたの!?」


 腰が抜けたのか、へたり込んだ体勢で青年から離れようと、夫人が床を蹴る。

 けれどもにこにこするルークは変わらず、眩しいくらいの素敵な笑みで彼等を見下ろしていた。


「ほんのちょっと尋問を」

「拷問じゃない!!」

「命に別状はありませんよ? だって爪、たったの2枚です!」

「あああっ、あああああッ」


 に! 明るく無邪気にピースサインを作り、青年が笑う。夫人から顔色が失せた。

 ルークが夫人の前に屈み込み、ポケットから付け髭を取り出す。次いで無造作に転がしていたボーラーハット。

 夫人の顔が、恐怖で引きつった。


「変装グッズ、どこですかー? って聞いたら、丁寧に教えてくれました。他にも従者や下男、メイドも何人かやりました。みんな、『あなたに言われて、貴金属を売りさばきました』って言ってましたよ」

「ああああああ」

「あ! もしかして尋問の様子聞きたい? でも残念! だってたったの2枚だよ。あっさり白状するなんて、君、人望ないんだね。がっかりだよ」

「やめて! やめてやめてやめてえええ!!!!」


 両手で耳を塞ぎ、夫人が半狂乱で叫ぶ。


 何故、使用人が誰も来ないのか?

 何故、こんなにも屋敷中が静まり返っているのか?


 原因を察してしまった彼女は、大袈裟なくらい身体を震わせた。

 自慢の美貌を恐怖で引きつらせ、ぼろぼろあふれる涙で化粧を溶かす。振り乱した髪は解れ、乱れ、この場から逃げ出そうと彼女は地を這った。


「じゃ! 俺はこれで失礼しますね。残業とタダ働きはしない主義なんで!」


 場違いなくらい明るい声でにっこりし、ルークが足取り軽く部屋を出る。

 ぱたん! 閉じられた扉が、かちゃん、不穏な音を立てた。

 蒼白を通り越した顔色で夫人が扉へ縋りつき、ドアノブを掴んでガタガタ揺する。びくともしないそれに、彼女が絶望の顔をした。


 ミリアが逃げ出さないよう、南京錠をつけるよう命じたのは、彼女だった。


「あけっ、開けてー! 開けてええええ!!!」


 両手で扉を殴り、夫人が絶叫する。

 ゆらり、彼女に影が被さった。恐る恐る、泣き顔がそちらを向く。

 主人の憤怒に色を変えた顔はどす黒く、夫人との対比はいっそ清々しい。

 絞め殺されたような声で、夫人が命乞いをする。

 ――彼女が相手取っているのは、泣く子も黙るサンブラノ家の当主だ。響く絶叫を止める者は、誰ひとりとして存在しなかった。

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