ミリアさん救出大作戦01

「……僕と、ミリア・サンブラノとの婚約を、なかったことにしてください」


 掠れたキリウスの要望に、はっと息を呑んだ夫人が目線を逸らす。

 表情から笑みを消したサンブラノ卿が、固く拳を作った。

 俯くキリウスが、膝に置いた手を震わせる。彼が搾り出した声音は、切実な響きをしていた。


「あんまりです、こんな仕打ち……! もう、たくさんです!」

「……君には、申し訳ないことをした」

「あなた……」


 目礼したサンブラノ卿が、使用人を呼ぶ。短く言付け、一礼した使用人が下がった。

 間もなく使用人はひとつの革張りの鞄を持って現れ、それをサンブラノ卿へ差し出す。受け取ったこの屋敷の主が、ソファテーブルに鞄を置いた。


「謝罪させておくれ、キリウスくん。……示談といこう」

「……僕が欲しいのは、金銭ではなく、婚約解消の確約です」

「ああ、勿論だ。あれは最早、私の娘ではない」


 きっぱりと、サンブラノ卿が断言する。扇子の下で、夫人がにやりとほくそ笑んだ。

 キリウスがちらりと主人を見上げる。


「……そうですか。……僕は、自由ですか?」

「ああ。君の婚約は白紙だ。長く束縛してしまい、すまなかった」


 サンブラノ卿が革張りの鞄を開く。中に詰められていたのは、兌換だかん紙幣だった。一体何枚の金貨と交換できるのだろう?

 その鞄を、主人がずいと滑らせた。キリウスへと差し出された紙幣が、間近に迫る。


「どうか他言しないでほしい」

「……金銭より、彼女に手紙を渡させてください」

「手紙?」


 顔を上げたキリウスが、鋭い目で睨む。眼鏡越しの瞳に渦巻く、黒い感情。

 僅かに息を呑むサンブラノ卿へ、真っ直ぐに彼が言葉をぶつけた。


「直接渡さなければ、気が済みません。これは、金銭では解決しない問題です」

「……だが、……いや、わかった」


 サンブラノ卿の算盤が、青臭い子どもの主張を容認する。

 ……金が浮いた。手紙ごとき、別に良いではないか。全く、矜持を優先して大金を逃すなど、愚かな子だ。

 サンブラノ卿が思案する。

 ……しかし、怪我をされると厄介だ。慰謝料などを請求されては困る。


「だが、君に直接届けさせるわけにはいかない」

「そんな!!」

「まあ待ちなさい。君の使用人に届けさせるのは、どうだね?」


 サンブラノ卿が小柄な使用人を指差す。ひくりと肩を震わせた彼へ振り返り、キリウスが顔をしかめた。


「……どうしても、でしょうか」

「ルイス家の大切な子息に、傷をつけるわけにはいかないよ」

「……わかりました」


 静かに立ち上がったキリウスが、内ポケットから取り出した手紙を、小柄な使用人に託す。ぼそり、彼が口を開いた。


「直接渡せ。絶対にだ」

「畏まりました」


 頭を下げた使用人が、屋敷の使用人に案内され、部屋を抜ける。

 閉じた扉を肩越しに見遣り、彼が尋ねた。


「あの、かの人のお部屋は、どちらに?」

「4階の最北にある角部屋だ」

「そうですか」


 埃ひとつない階段に爪先を乗せ、ふたりの使用人が段を上っていく。


 黙々と上る道中、繊細な飾り彫りの施された手摺りに、ひとりの青年がもたれているのが窺えた。

 上ってくる少年に気がつき、彼がその整った顔を笑ませる。金髪の眩しい、黒いコートを羽織った青年、ルークだった。

 げっ! 使用人の少年があからさまに嫌そうな顔をする。

 彼の元へ、足音もなくルークが近づいた。案内役の使用人が怪訝そうな顔をする。


「やあ! 今日は随分と可愛い格好をしているね。似合ってるよ」

「話しかけないでください」

「ふふっ、俺もまーぜて」

「……ッ」


 にっこにこな笑顔で腰に手を回され、使用人の少年の頬が引きつる。

 案内役の使用人が、困惑した様子で彼等を交互に見遣った。


「し、失礼ですが、ルーク様。……お知りあっ」

「ッ!!」


 問いかけの途中で、少年が動いた。

 案内役の使用人の首筋に手刀を叩き込み、悲鳴もなく意識を奪う。そのまま背後目がけて踵を振り、ルークを狙った。回し蹴りが空を切る。


「ちっ!」


 舌打ちを一度、気絶した使用人が階段から転げ落ちないよう、少年が踊り場まで引き摺る。

 にこにこ笑うルークが、彼の行いに目を細めた。


「丁寧なところを見ると、君はシオかな?」

「うるさいな」

「やっぱりシオだ。ふふ、こんなところで出会えるなんて、とってもうれしいよ」

「ぼくはうれしくない」


 満面の笑みの青年が、軽やかな足取りで段差を跳ねる。

 拘束具の巻かれていない腕が、掴みかかるように伸ばされた。


「安心してよ、シオ。ちゃんと生け捕りにするし、ごはんも毎日あげる! すぐにニアも捕まえてくるから、寂しくないよ!」

「うるさいなサイコパス! ペット扱いしないでよ!!」


 逃れるように、シオが階段を駆け上る。目的の4階へ辿り着く前に廊下へ飛び出し、彼は走った。

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